3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

4章:アガサの灯火 - 2 -

 三月の昼さがりのこと。
 エイミーは仮想空間バベル・ヴェールの中で、アンとチャットの最中だった。彼女のアバターは、琥珀の瞳を煌かせる可憐な白兎。エイミーは、ゴシックな黒薔薇のドレスを纏った妖精。
 青空には虹がかかり、蝶が舞い、鯨が泳ぎ、薄碧の極光オーロラが揺れている。
 妖精と兎が、白昼夢のなかで茶会をするビジュアルは、非現実的で、物語のように幻想的だった。
「ねえ、エイミー」
 白兎が、期待めいた表情でほほえんだ。
 なめらかなアバター音声に、彼女の吃音は補完カバーされている。それもあってアンは、アバターチャットが好きだったりする。
「テンペスティス兄様と、婚約するの?」
 やっぱり、訊かれた。と、エイミーは思った。
 予感はしていたのだ。
 ここ最近、義母とオラクル夫人が妙に親しげだったこと。
 十六歳になったテンペスティスに、縁談話が山のようにもちこまれているという話。(実際に本人から聞いた)
 だが本人は、どれにも応じる気配がない。
 一方、十歳になったエイミーとアンには、方々から様々な誘いが舞いこんでいた。
 ふたりとも超裕福な家柄の子供であり、しかも通信教育組。
 学園に通う同年代に比べれば、時間にも、金にも、余裕がある。
 観劇にでかけ、舞踏会をのぞき、ちょっとした有閑マダム気取りだ。つき添いとして主に母親が同行するが、たまにテンペティスも同行する。
 最初は遠慮がちだったテンペスティスとの交流も、そんな日々のなかで、少しずつ、少しずつ、打ち解けていった。
 礼儀正しくて親切な少年は、仲良くなるにつれ、冗談を交え、ふっと笑うような一面も見せるようになった。
 封蝋印シーリングスタンプの収集趣味を教えてもらってからは、エイミーも出先で骨董品を見かけるたび、良さそうな品を探すのが習慣になった。
 贈り物も、花束や菓子といった当たり障りのないものから、互いの趣味嗜好にあわせた骨董品やゴシックアイテムへと変わった。
 しかし――
 好感度は79%を最後に、数字を見ていない。
 きっと、あれがカンストなのだ。
 友情レベルの、限界。
 つまり、そういうこと。
 テンペスティスにとって、エイミーは「妹の親友」。
 どこまでいっても、それ以上ではない。
 と、冷静に現実を見ているエイミーの横で、母親たちは進展のない彼の縁談話に気を揉み「ではエイミーはどうか」と話を咲かせ――気づけば、それは現実リアルになりかけていた。
 エイミーは、静かに首を横に振る。
「正式な話はまだ何も……話はでてるみたい」
 アンはうんうんと頷いて、琥珀の瞳をきらきら輝かせる。
「素敵だと思うな。テンペスティス兄様、優しいし、頭も良いし、穏やかで……エイミーのこと、ずっと大切にしてくれるよ」
「そうね……」
 言葉が、喉に詰まった。
 もちろん、テンペスティスは素敵なひとだ。
 気さくで、温和で、アンを大切にし、その親友であるエイミーにも、惜しみなく優しさを注ぐ。
 とても大切な、友達だ。
「テンペスティスさんのことは、大切な友人だと思ってる。お義母さまにもそういっているんだけど……第一、まだ婚約なんて、考えられないよ。テンペスティスさんだって、本当に婚約したら、絶対困ると思う」
「兄様は困らないわ。エイミーさえ良ければ、とおっしゃっていたもの!」
 アンは自信ありげに言い切った。
 それは、エイミーも彼のくちから、すでに聞いている。
「光栄だけど、彼は私のことを“アンの友達”として、兄目線で見てるのよ。アンを想って、私との婚約を否定しないだけなら……それは、少し違うと思わない?」
 ずばり指摘すると、アンは困ったように笑った。
「……そうよね……ごめんね。ちょっとだけ……嬉しかったの。エイミーと姉妹になれたら、ずっと一緒にいられるなって思ったから」
 エイミーは、そっとほほえんだ。
「それは私も思ったの。アンと家族になれたら、すごく楽しいだろうなって。でも、それと婚約はまた別の話だわ」
「そうよね……」
 あるいは――アンが義兄のエミリオと結婚すれば、ふたりは姉妹になれる。
 ちょっとした反撃のつもりで、冗談交じりにいってみようかと思った。
 けれど。
 寄り添うふたりの姿を想像した途端、胸の奥がもやもやして、喉でせき止められた。
「……アンの方は、見合い話はきてる?」
「うん、でも全部断ってもらってる」
「そうよね。私たち、まだ十歳なんだから。見合いなんて早すぎるのよ!」
 ちょっと憤慨したようにエイミーはいった。
 まるで、自分自身を守るように。

 それから数日後の夜――
 めずらしく、エミリオからウィスプで連絡がきた。
<こんばんは、エイミー>
 画面越しに、部屋着姿のエミリオが映っている。
 湯浴みを終えたばかりなのか、銀糸の髪がしっとりと水気を帯び、首筋にふわりと張りついている。
 しどけない姿に、心臓が不意に跳ねた。
 まだ十三歳の義兄に、こんなにも色気を感じてしまう自分に、そわそわと視線をそらす。
 一方、エイミーも絹の寝室着にガウンを羽織っただけという、寛いだ姿だ。
「こんばんは、お義兄さま。珍しいわね」
 意識してほほえみを浮かべると、彼は少しだけ戸惑うようにいった。
<うん、訊きたいことがあって……>
「なぁに?」
<テンペスティスさんと、婚約するの?>
 淡々とした声色――けれど、微かに震える緊張が潜んでいた。
 彼に訊かれるとは思っていなかった。
 エイミーは、思わず言葉を詰まらせる。
「しないわ。お義母さまとオラクル夫人が盛りあがってるだけよ」
 気取らずいうと、エミリオは真剣な眼差しで続けた。
<でも、放っておいたら話は進むよ。止まらない>
 警句めいた響きに、胸の奥がざわめく。
「……そうはいっても、正式な打診はされていないもの。私は婚約の意思がないって、お義母さまには伝えてあるし」
 エミリオはふっと息を吐き、無表情に戻った。
「……ふーん」
 その曖昧な相槌に、エイミーの心がざわめいた。
 ――「そうだよね」という同意? それとも「こんな好縁を蹴るなんて」という呆れ?
「私まだ十歳よ。テンペスティスさんだって兄目線だし、放っておいたって、この話は実現しないと思う」
<そうかな。兄目線といったって、彼は十六歳だろう。今は年齢差を感じても、数年経てば気にならなくなるだろうし、アンはエイミーが大好きで、普通に考えて良縁だと思うけれど>
「お義兄さまは、私とテンペスティスさんに婚約してほしいの?」
 面白くない気持ちで、エイミーは突っかかった。
 エミリオは紫の瞳を瞬かせた。少し俯くから、照明の影になって、闇を湛えた夜の海のような濃紫に見える。
<そういうわけじゃないけど>
「なんだか、メリットが大きいみたいないい方だったから」
<実際メリットしかないと思うけど>
「もう、お義兄さまったら!」
 拗ねるように頬をふくらませると、彼は苦笑した。
<もちろん、エイミーの意思を尊重する。母上もそうおっしゃってるのだろう?>
「まあ……そうね。そういうお義兄さまはどうなの? この間、お義母さまが、お義兄さまのお見合いの釣書を眺めてるの見たけれど」
 そう、見てしまった。
 義母が山のようにある釣書を広げているのを……
 エミリオは名家の跡取りにして、天才魔導士。しかもとびっきりの美少年だ。飛び級して大学院に通っているから、接点のなくなる同級の令嬢たちは焦って、釣書を送りつけているらしい。
<よしてくれ>
 顔をしかめるエミリオ。
 その反応に、ほっと胸をなでおろす。
 先日、義母の横でエイミーも釣書を見たのだが、美しい令嬢ばかりで、自分でも意外なほどショックを受けた。
 でもエミリオは見合いに興味ないんだ……と思ったところで、ふと閃いて、真顔に戻る。
「もしかして、アンとのお見合い話もでていたりする?」
 ほんの少し、戦々恐々としながら訊ねた。エイミーに婚約話があるのだから、エミリオにあってもおかしくはない。
<ないよ。あの内気な子に、見合いは酷だろう>
「そうだけど、お義兄さまなら、アンも緊張せず話せると思うから」
<それこそ兄目線だよ。義妹の親友との見合いなんて、考えられない>
「……」
 エイミーが沈黙すると、エミリオは器用に片眉をあげた。
<……エイミーは、僕とアンに見合いしてほしいの?>
「そういうわけじゃないけど……」
 いい訳がましく呟く。
「アンとの婚約、メリットしかないんじゃない?」
 本当にそう思っているわけではないが、ちょっとした意趣返しのつもりで反撃してみた。
 エミリオは軽く肩をすくめ、
<よしてくれ>
「お義兄さま、私にはメリットを説いたのに。ご自分のことは棚にあげるのね」
 ふふん、と得意気に笑うと、エミリオも苦笑しながら頭をかいた。
<悪かったよ。確かに、こういう話は外野が茶々入れるべきじゃないな>
「お義兄さま、好きな人はいるの?」
 軽い気持ちで訊ねた。
 けれど、エミリオは目を瞠り、黙りこんだ。
「いないよ」
「今、変な間がなかった?」
<訊かれるとは思わなかったから>
 真面目な顔で答えるエミリオに、エイミーはなんとなく姿勢を正した。
「隠さないで教えてほしいのだけれど……おつきあいしている女性がいるの?」
<いないよ、そんな暇もないし>
 十三歳の少年とは思えない、あまりに大人びた返答だった。
 研究一筋の兄は、幼少の頃から浮世離れしている。
 飛び級をしているので、学院という出会いの場で、同年代と接する機会は少ないのだろう。あるいは、綺麗な年上の女性に囲まれ、憧憬にも似た初恋を経験しているのかもしれない。
(……なんか、やだな)
 心の奥で、誰にも聞こえない声が響いた。
「お義兄さまの周りに、もう婚約してる方はいる?」
<いるよ。結婚して子供がいる人もいるよ>
「えっ?」
<大学院だし、大人が多いからね。でも、ほとんどは婚約未満の交際だと思う>
「えぇ~、大学院ってすごい……」
 ぽかんと目を丸くするエイミーに、エミリオがくすっと笑う。
<色々な人がいるからね>
「じゃあ、十代で婚約している人もいるの?」
<いるよ。貴族は、そういうの早いから>
 乾いた言葉が、胸にひっかかった。
 ――エミリオも、いつか、誰かと。
 今は研究に夢中のようだが、いつの日か、彼も恋をするのだろう。
 陶磁器人形ビスクドールのような美少年で、性格も頭もよくて、家柄も申し分ないエミリオに、恋人ができないはずがない。
 それに彼は公爵家の跡取りだ。いずれしかるべき女性と結ばれて、婚約を交わし、結婚するのだろう。
 恋人を紹介される未来を思い描き、なんともいえない感情がこみあげた。
 今のところ、エミリオに一番親しい異性はエイミーだという自負がある。彼との距離が居心地がいいから、いつか、エイミーより親密な女性が現れると思うと……こんなにも、苦々しい気持ちになるのだろうか。
(いやだな……こんな気持ち、知られたくない)
 渋い顔をしているエイミーを見て、なにか勘違いしたのか、エミリオは小首を傾げた。
<一般的にそうだというだけで、うちは自由恋愛に寛容だから。プレッシャーに感じなくていい>
「……私は別に……」
 エイミーは養子だ。この家の本当の子供ではない。養父母は優しいけれど、いつまでも甘えているわけにはいかない。
 いつかは、結婚して家をでていくことが自然なのかもしれないが、相手の家で暮らすのは気疲れしそうだ。愛しあう、苦楽を共にできる相手なら、一緒に暮らすのは自然なことかもしれないが……果たして自分に可能なのだろうか?
 女神様をがっかりさせて申し訳ないが、やはり結婚して幸せになる自分というものを、想像できない。
「そういう話で悩むのは、当分先のことだわ」
 ごまかすようにエイミーは笑った。まぁね、とエミリオも同意してくれた。
「ただ、お義兄さまが誰かと婚約するのは、嫌だなって思っただけ」
 目を瞠るエミリオを見て、ぱっとエイミーは目を臥せた。
(今の発言は、微妙だったかも……)
 心臓がドキドキして、手に汗がにじむ。目をあげられずにいると、
<エイミー>
 名前を呼ばれ、おずおずと顔をあげる。
 画面の向こう、エミリオが迷いを含んだ瞳で、こちらを見ていた。
<僕も、本当は……エイミーがテンペスティスさんと婚約するのは、嫌だと思ったんだ>
 心臓が、ドキッとした。
 ――それは、どうして?
 答えが欲しいはずなのに、怖くて踏みこめない。エミリオの方も、それ以上続けることを躊躇っているようだ。
 心が、何かに触れかけていた。
(怖いな、気づきたくない……)
 この気持ちを認めたところで、絶対に報われないのだ。エミリオは次期公爵で黄金種ベルハーで、いずれ然るべき黄金種ベルハーの令嬢と結ばれる。
 それが現実だ。
 恋愛で苦しむのは、本当に懲りた。前世――笑美は、恋人に裏切られたとき、泣いて泣いて、泣いて……食事も喉を通らないほど憔悴して……元気になるまで、それは長い時間を要した。
 あんなに辛い思いは、二度としたくない。
「婚約しないわ。なんか変ね、私たち。兄妹でする話じゃないよね?」
 空気を変えるように努めて明るくいえば、エミリオも穏やかに笑った。
<かもね。でも聞けて良かった>
 彼が穏やかな声でそういうので、私も、とエイミーは素直に頷いた。
「最近、周りのプッシュがすごいから。お義母さまとか、アンとか……気持ちは嬉しいんだけど……困っちゃうわね」
 努めて明るくいえば、エミリオも微笑した。
<暴走しているときの母上には、きっぱりいわないと伝わらないよ>
「ふふっ……そうね、釘を刺さなきゃ」
<頑張って>
「うん……暴走って、ふふ」
 まだ笑いの余韻に震えているエイミーを見て、エミリオもつられたように、くすっと笑う。
 くすくす笑いながら、エイミーは名残惜しさを抱え、いった。
「ありがとう、お義兄さまからウィスプしてくれて、嬉しかった。感激しちゃった」
 はにかむと、エミリオも、優しく目を細めた。
<また話そう>
「ええ」
<今度は……会って、話したいな>
 ――えっ?
 思考が、数秒遅れて、追いついた。
「私はいつだって、どこにでも会いにいけるよ。忙しいのは、お義兄の方でしょう?」
<うん……>
 頷くその表情が、どこか寂しげで。
 そろそろ寝る時間だと思うが、通信を切るのは躊躇われた。
 けれど、彼はほほえみみながらいった。
<変なこといってごめん、気にしないでよ。お休み>
「ううん、お休みなさい」
 通信が途切れる。
 夜の静寂のなか、ようやく心臓の鼓動に気づく。バクン、バクンと、鼓膜を震わせている。
 ――会って、話したいな。
 まさかエミリオが、そんなことをいうなんて。
 布団にもぐって明かりを消した後も、目を閉じると、エミリオの声が、言葉が脳裏に蘇った。
 ――会って、話したいな。
(やめて、私……恥ずかしい。噛み締めないで)
 毛布を頭までかぶって、妄想を振り払おうとする。なのに、甘い言葉は、耳元で囁く幻のように、何度も何度も繰り返された。
 そして、エイミーはしばらく――夢と現のあわいを、揺れながら、寝台の上で輾転てんてんとしていた。