奇跡のように美しい人

3章:決意 - 4 -

 案の定、レインジールの説得は難航した。
 説得を試みる度に翻意ほんいを促されたが、佳蓮は聞かなかった。むしろ、引き留められるほどに意固地になった。
 毎日のように話し合っているが、なかなか決着がつかない。互いに一歩も譲らず、膠着状態が続いている。

「ちゃんと自立したいの」

 棕櫚しゅろの書斎机に手をついて、佳蓮は身を乗り出した。レインジールは書面から眼を放すと、仕方なさそうに顔を上げた。

「佳蓮は十分に自立した女性ですよ」

「全然だよ……家賃も入れずに、人の世話になりっぱなしでさ、このままじゃ駄目だと思う」

「傍にいてくださるなら、他には何もいりません。貴方がアディールで健やかに過ごすことは、私を含め、帝国の総意なのですよ?」

「ここでなくたって、健やかに過ごせるよ。もう、私を甘やかさないで。お願い、一人で暮らしてみたいの」

「佳蓮……」

「お願い、いいといって」

「いえるはずがないでしょう。第一、世間知らずな貴方が、市井で暮していけると本当に思っているのですか?」

「苦労は覚悟の上だよ。住みこみでもいいから働いて、お金を稼いで、自分一人の力でやってみたいの」

「塔での暮らししか知らない貴方が?」

「やってみないと判らないよ」

「考えが甘過ぎます。流星の女神に職を与える人間が、この国にいると思いますか?」

 言葉に詰まる佳蓮を見て、レインジールは視線を和らげた。

「塔での暮らしに飽きたのなら、別邸を建てさせましょうか?」

「そういうことじゃないよ」

「では、何が不満なのですか?」

「もう、上からいわないで。レインの世話になるのが嫌なんだってば」

 恨みがましく責めると、レインジールは小さく眼を瞠った。

「すみません。私に問題があるなら、すぐに改善します。他にも不満があるのなら、教えてください」

「違くて……とにかく、いつまでもここにいるわけにはいかないよ」

「どうしてですか?」

「だって私、年取らないし。永遠にこの姿かもしれないじゃん。今のうちに、一人で食べていけるようになっておかないと」

「杞憂です。聖杯を満たせば、佳蓮の時は動き始める」

「もう七年も経ったのに、満たせないじゃん」

「必ず満たせます。仮に私が生きている間に満たせなかったとしても、後継が貴方を守ります」

「この先もずっと、誰かに頼りきって生きていくのは嫌なんだよ!」

 感情的になり、背を向けて逃げ出すと、追い駆けるようにレインジールも席を立った。扉を開く前に、背中から抱きしめられる。

「いかないでください」

「離して」

「……私が嫌になったのではありませんか?」

「なってないよ」

「私が、あんな風に触れたから」

「違う。それは関係ない」

「原因が私でないというのなら、理由を教えてください」

 胸に手をついて離れようと試みたが、腕の力は増々強くなった。艶やかな銀糸の髪が、頬に触れる。

「教えてください。私が原因でないというのなら、一体何が――」

「この国を出ていくことはしないよ。同じ空の下、どこかにいるから」

「お願いです。いかないでください」

「ねぇ、離して」

「貴方のいない毎日なんて、とても耐えられないッ!」

 首筋に顔を埋めて、レインジールは苦しげな声を絞りだした。熱い吐息に肌が粟立つ。佳蓮は唇を戦慄わななかせた。

「……ねぇ、少し距離を置こう?」

「どうしても出ていくというなら、私も一緒にいきます」

「無理でしょ。どう考えても無理でしょ。私と違って、仕事があるんだから」

「引き継げる相手ならいます。私が抜けて瓦解するほど軟な機関ではありませんよ」

「レイン。無理だよ……」

 肩に置かれた頭を撫でながら、そっと身体を離す。顔を上げさせると、迷子になった子供のような、哀しそうな瞳をしていた。

「ごめんね」

「私は貴方のしもべなのに」

 聡明で冷静なレインジールが、悄然と項垂れている。
 これほど周章狼狽しゅうしょうろうばいしている姿を見るのは初めてだ。そうさせているのは他でもない佳蓮なのだと思うと、もういっぺん屋上から飛び降りたい気持ちに落ち込んだ。

「……永遠のお別れじゃないよ。落ち着いたら、連絡するから」

「そんなに、私が嫌いですか?」

「そんなわけないでしょ」

「他にどんな理由があって、貴方は私の傍を離れるというのですか」

 歯痒くて焦れったい。錯綜さくそうとした想いが胸に込み上げて、佳蓮はレインジールの肩を思わず掴んだ。

「レインは私に盲目すぎる。もっと視野を広げて。他にも生き方があるって、知ってほしい」

 レインジールは睨むように佳蓮を見た。

「他の誰もでもない、貴方の傍にいたいと申し上げているんです。貴方に疎まれたとしても、私の気持ちは変わりません」

「そうじゃないんだよぅ……」

「私では、貴方の聖杯を満たせないのでしょうか」

「私の時は止まっていても、レインまで止まる必要はないんだよ! レインにはレインの人生がある。私にあわせる必要はないんだよ」

「判っていないのは、貴方の方だ! 貴方の傍にいられないのでは、生きている意味がないのに」

「……もう決めたの。塔を出ていくよ。レインも、私のいったこと、よく考えてみて」

「出ていけると思いますか? 私が、許すと?」

 端正な顔を覗き込んで、佳蓮は頬にキスをした。

「私の一番大切な人は、レインだよ。かわいくて、甘えさせてくれて、頼もしくて、本当は、弟だなんて思ってないよ。誰よりも恰好良いよ。世界で一番信頼している。この先もずっと変わらない」

 青い瞳に、涙の幕が張った。
 晴れた日の海のように綺麗な瞳だ。背伸びをして頭を引き寄せると、瞼の横にキスをした。

「私の優秀なしもべは、私の本当に嫌がることはしないんだよ。きっと、いってらっしゃいって送りだしてくれる」

「……そんなことをいうなんて。佳蓮は酷い。酷い人だ」

 美しい顔を片手で覆い、レインジールは哀しそうに呟いた。零れ落ちる銀色の髪を、佳蓮は慈しむように指で梳いた。

「私は酷い奴だけど、レインのことが大切なんだよ。私だって……」

 薄く開いた窓から夜風が吹いて、二人の間に流れた。
 互いに胸を引き絞られるような切なさを堪えて、言葉もなく慰め合うように抱きしめあっていた。