奇跡のように美しい人

3章:決意 - 6 -

 旅立ちの日。
 軽装で塔を出ていく佳蓮を、誰もが通夜のような顔で見送った。世話になった時計塔の召使達、沈んだ表情のレインジールを順に見渡して、佳蓮は努めて明るい笑顔を浮かべた。

「いってきます」

「どうか気をつけて。貴方の身に危険が及んだら、問答無用で連れ戻しますからね」

 左手の甲に刻まれた流星痕に触れて、レインジールは真剣な顔でいった。

「流星痕、また大きくなったね」

 最初は閉じた片翼をしていたそれは、双翼の形になり、今では翼を広げて羽ばたこうとしている。

「はい。あと少しで、完全に羽が開くでしょう」

「ふぅん。綺麗ね……」

 レインジールは優しく微笑んだ。
 どうしてだろう、妙に胸が騒ぐ……美しく成長した朱金の流星痕に、この先の明暗を分かつ暗示めいたものを感じた。
 手の甲を凝視していると、レインジールは腰を屈めて佳蓮の頬に口づけた。

「離れていても、佳蓮を想っています。どうか無事に戻ってきてください」

「はいっ」

 唐突に胸に沸いた切なさを捻じ伏せて、佳蓮もレインジールの頬に口づけた。
 出ていくと決めたのだ。
 アミスタッド号奴隷船の鎖を引きちぎるように、佳蓮は時計塔の大扉おおどを自ら開いた。
 寂しくないといえば嘘になるが、この時は気が大きくなっており、何でもやってやるという意欲に満ちていた。

 しかし――
 それが思い違いだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
 素顔を晒して歩けば、誰もが振り返る。
 絶世の美女である佳蓮は、どこへいっても視線を集めた。流星の女神として国中に周知されており、飛び入りで店を尋ねて、雇って欲しいなどと頼むのは到底不可能だった。
 店先の女将や主人達は、佳蓮を引き留めては、善意であれこれと品物をくれようとする。
 働かせて欲しいと頼み込んでも、不思議そうな顔をされた後、手を合わせて拝まれるのが落ちであった。
 時計塔を飛び出して半日と経たずに、広場の噴水を眺めながら項垂れる羽目になった。
 だが、この程度の困難は想定のうちだ。
 奮起すると、佳蓮は再び往来に溶け込んだ。
 大通り沿いにある、繁盛している宿に泊めて欲しいと頼むと、とっておきの部屋に案内された。金を払おうとすると、全力で断られた。
 塔を出るにあたって資金を前借しているが、今のところ一銭も使っていない。
 この分なら、人の善意に胡坐を掻く疾しさにさえ眼を瞑れば、衣食住に全く困らない生活が成り立ちそうだ。働かなくても何もかも手に入るのだ。
 だが、その地位を失ったら?
 手に職のない、自活に乏しい佳蓮は死ぬしかない。
 そう考えて、妙な気分になった。一度は死んだ身なのに、死ぬ心配をしているとは……
 宿に二日泊っただけで、佳蓮がいるとどこから聞きつけたのか、大勢の客が殺到した。
 食堂に降りればいつでも満員。
 愛想笑いも板についた佳蓮だが、こうも人眼のある環境が続くと、精神を消耗する。自他楽な生活をしているはずなのに、心も身体も休まらない。
 景色に手を振っているようなものだが、涙を流す善良な人を見ると、胸が痛んだ。
 女神と崇められて、いい気になっていた頃を、遠い昔のように感じる。
 あんなに心地良かった賞賛も、今では虚しく感じてしまう。
 胸のうちに、不毛の大地が広がっているようだ。渇いた砂を濡らしても、あっという間に蒸発してしまう。それなのに、人が望むように笑えるのだから滑稽なものだ。
 結局、あの頃と何が変わったのだろう?
 人の顔色を窺い、媚びへつらい、自分すら欺くことに嫌気がさして終止符を打ったのに。ての大地で、同じことを繰り返している。

 ――女神なんかじゃない!

 大声で喚き散らしたかった。なのに、にこにこと微笑んで……どうして、自分に正直ではいられないのだろう?
 唯一正直でいられた大切な人には、自ら背を向けてしまった。袂を分かつ覚悟で飛び出してきたのに、もう時計塔が恋しくなっている。
 レインジールに会いたい。
 あれだけ大見得を切って飛び出したのに、このザマだ。今更、どんな顔で戻れるというのだろう……
 宿屋で七日を過ごした後、一か所に留まる限界を感じて、佳蓮は移動を決意した。
 しばらく、都会を離れてみようか。
 どうせなら、紅茶庭園のあるところがいい。過去に何度か訪れた、風光明媚な田園地方にいくことに決めた。
 幸運にも、大陸を移動している行商の荷馬車に、無料で乗せてもらえることになった。
 高価な転送盤は、まだ一般家庭に普及していないのだ。
 旅情気分でいられたのは数刻で、陽が暮れる頃には、すっかり震動に参っていた。荷馬車を止めて、森の中で焚火を囲み、皆で温まる頃には、うつらうつら船を漕いでいた。
 アディールにきてから、初めての野宿である。
 窓硝子のない馬車の中で、穴だらけの蚊帳を見た時は、どんな酷いことになるのかと覚悟したが、取り越し苦労に終わった。
 それでも、眼が醒める度に、身体のどこかしらを刺されていた。マラリアのような病気がこの世界にないことを祈るばかりだ。
 旅はしばらく続いた。
 天気は安定せず、夜半には風の音も掻き消してしまうくらい、強く降りしきる雨のおかげで、何度も眼を醒ますことがあった。
 時計塔では、考えられないような経験を幾つもした。
 森での食事もそうだ。
 どこから姿を現した小蠅が、毎度食卓に群がった。始めは手で追い払っていたが、途中から面倒になり、追い払うのを止めた。
 原始的な生活の不便さを、アディールにきてから始めて痛感した。
 とりわけ、冷水で身体を拭く不便さには辟易した。暖かな湯が切実に恋しい。
 時計塔の暮らしが、どれほど恵まれていたか思い知らされる。
 帰りたい。
 何度も弱音が零れそうになり、その度に唇を噛みしめた。もう引き返せぬほど、遠いところへきてしまったのだ。
 我慢の連続だったが、深い森を抜けると急に視界が開けた。
 雨上がりの草原に、虹が二重に架かっている。風に運ばれて、瑞々しい草の匂いが漂った。

 アディールを出て、六日目。
 アンガスというひなびた田舎街に着いた。
 風光明媚な街で、木組みの家や石畳の路が延々と続いている。大通りの樹齢一〇〇年を刻むプラタナスの並木道は、無数の小路に通じており旅情を誘う。
 小路を反れて、更に未舗装道路が尽きるところに、目指していた教会はあった。
 豊かな丘陵きゅうりょうに立ち、背には広大な葡萄畑が広がる。赤煉瓦の壁面には熟した葡萄の蔦がからまり、佳蓮は一目見るなり気に入った。
 思った以上に長く世話になった荷馬車は、今度は海沿いに南下していくという。別れを告げると、善良な行商の夫婦とその子供達は涙を流した。

「女神様。どうかお元気でいらしてください」

「はい、ありがとうございます。お世話になりました」

 佳蓮も泣きながら頷いた。
 大きな瞳に涙をいっぱいにためて、幼い三歳の娘が、佳蓮のスカートに縋りついた。

「もう会えないの?」

 たまらない気持ちになり、佳蓮はその場にしゃがみ込むと、小さな体を抱きしめた。

「ごめんね。ここでお別れなの。怪我をしないで、どうか元気でいてね」

「寂しいよぅ~……」

「女神様を困らせちゃ駄目だ」

 幼い手で眼をこする妹を、年長の兄が窘めた。彼の声も、涙で潤んでいる。

「女神さま、毎日女神さまのためにお祈りします」

 小さな少女の言葉に、佳蓮はほほえんだ。

「私も毎日祈るね。皆さん、ここまで本当にありがとう。貴方達の親切を生涯忘れません」

 自然と頭が下がった。
 顔を上げようとしない佳蓮を見て、彼等は慌てふためいた。
 時計塔を出て行く時でさえ、これほど辛くはなかったと思う。レインジールは居場所の知れている安心があるが、一か所に留まらず行商を続ける彼等とは、次に会える保証がないのだ。
 最後にもう一度抱擁を交わして、別れを惜しみながら、馬車は遠ざかっていった。
 空は茜に染まり、点在する農家から煙が立ち昇る。
 牧歌的な光景に寂寥を募らせながら、佳蓮は教会の扉を叩いた。扉を開いた修道女は、佳蓮を見るなり眼を見開いた。

「こんばんは。王都からきました、羽澄と申します。泊めていただけますか?」

 女神の来訪を教会は喜んだ。寝床と食事を提供し、長期の滞在も快く受け入れてくれた。
 慎ましい、清貧の暮らしが始まった。
 穏やかで単調な日々の繰り返しは、心を落ち着けもしたが、変わり映えのない日々に退屈もした。
 することがない。
 美味しい菓子も、茶会も、胸をときめかせる資料館も、硝子温室もない。
 ただただ、ゆったりと時が流れる、穏やかな日々。
 晴れた夜には、屋上にベッドを並べて、夜空を眺めながら眠りに落ちた。
 朝と晩に讃美歌を歌い、祈りを捧げる毎日。
 満点の星空も、十日も経つ頃には見飽きてしまった。数時間であれば新鮮な気持ちで見ていられるが、一日中は無理だ。

 時計塔に還りたい。

 塔での暮らしや、月光のように優しい微笑を思い出しては、郷愁に駆られた。佳蓮にとって、アディールはもう、第二の故郷になっていた。
 レインジールは元気にしているだろうか?
 彼なら、たとえ佳蓮が最遠の地にいたとしても、一瞬で駆けつけてくれそうなものだが、音沙汰の一つもないのはどうしてだろう。見放されてしまったのだろうか……
 勝手に塔を出ておいて、連絡をよこさないレインジールが恨めしかった。
 それとも、佳蓮が逃げ帰ってくるのを、待っているのだろうか?
 ほら見たことか、そんな顔で見下ろされるのも癪で、帰郷を見送っている。
 教会にいれば、敬虔な人達に傅かれ、質素ながら穏やかな日々を送れる。
 けれど、虚しさは募った。
 修道服を身につけた佳蓮を見て、周囲が感涙にむせびなく光景は、見ていて辛かった。
 純粋な信仰心を前に、足が竦んでしまう。
 敬虔な信徒ではない佳蓮は、彼等と同じようには祈祷できないし、味気ない食事にもうんざりしていた。
 聖衣を脱ぎ捨て、そんな風に思ってもらうような人間じゃないんです! 大声で否定したい衝動に何遍も駆られた。
 毎日、佳蓮の前に人は列を成す。ほんの一言、ほほえみ一つを欲して。
 無数の蝋燭に火を灯された、白檀びゃくだんの祭壇。
 色硝子から差し込む七色の光が、床に幻燈げんとうのような文様を描いている。
 パイプオルガンの鍵盤から、織りなす重層的な音楽は、聖堂全体に響き渡る。
 聖衣を羽織り、胸の前で手を組み、伏目がちに佇む佳蓮の姿は、その場にいた全員の眼に女神として映っていた。
 厳かで静謐な空気に、信仰心の欠片もない佳蓮ですら、胸に迫るものがある。
 こんなはずではなかったのに、日に日に虚構が現実となっていく。
 ここにいては、環境に負けて洗脳されてしまいそうだ。誰もいない部屋で涙するようになると、いよいよ気が滅入った。

 結局、教会での生活は半年が限界だった。質素な生活に別れを告げて、佳蓮は海辺の街へと移った。