奇跡のように美しい人

4章:聖杯 - 10 -

 十年経った今も、あの夜を忘れられない。
 上位次元アストラルに還る前に、佳蓮はレインジールに宝物のような記憶を授けてくれた。
 佳蓮との短い逢瀬は、幼いレインジールの心に火を灯した。
 遠い記憶は不死の霊魂となり、時が過ぎても翳ることなく、レインジールの中で今も生き続けている。
 そうして二十歳を迎えた。
 約束した通り、紅茶庭園を築いた。佳蓮が特に愛した、ルルーシュナ紅茶庭園もその一つだ。
 時間を見つけては庭園に通い、佳蓮を想う。記憶の中の佳蓮は、ここでレインジールと紅茶を楽しんでいた。
 あずかり知らぬ記憶の欠片に、恋焦がれている。
 長い間、星に訊ねても想い人の顕現けんげんを詠めなかったが、成長すると共に、少しずつ佳蓮の姿を見るようになった。
 星詠みの限りでは、今宵は最もその可能性が高い。
 星明かりに照らされたルルーシュナ紅茶庭園。
 祈るような気持ちで空を仰いでいると、空から光の柱が降りた。清涼な霊気が辺りに満ちる。光の奔流の中から、瑞々しい女神が現れた。

「レイン」

 夢にまで見た女神に名を呼ばれ、笑みかけられる。
 あぁ……どれほど、この時を待ち望んでいただろう――感極まったレインジールは、危うくくずおれそうになった。
 差し伸べられた手を、恭しく取る。アストラルの残照を払いおとし、佳蓮は確固たる肉体で地に足を降ろした。

「お待ちしておりました」

「……お待たせ」

 眩い笑みに眩暈がする。尊さに跪きたい一方で、きつく抱きしめたい、相反する衝動が同時に身の内に起こった。
 逡巡し、素足を眼にして抱き上げた。甘い匂いに頭がくらくらする。
 錯覚ではなく、記憶の中の佳蓮が、目の前に蘇ったのだ。圧倒的な存在感に、レインジールの心は嵐のように揺さぶられた。

「レイン?」

 はにかむ佳蓮は、心臓を打ち抜かれそうなほどかわいらしかった。

「ようやく、お会いできましたね。本当に、お待ちしておりました。私の女神様……」

「ただいま……? レイン」

 頬に触れる柔らかな手。暖かな体温。潤んだ黒曜の瞳。月光のような微笑。夢にまで見た美しい黒髪。信じられない。こんな奇跡があるのだろうか?

「お帰りなさい、佳蓮」

 重ねた唇から多幸感に包まれて、涙が溢れそうになる。ようやくめぐり逢えた恋人を、レインジールはきつく抱きしめた。

 一ヵ月後――

 二人はあらためて、ルルーシュナ紅茶庭園を訪れた。
 遠い宇宙を旅してきた佳蓮の身体は衰弱しており、現実世界に降り立った後、倒れてしまったのだ。
 紅茶を飲む間もなく時計塔に戻り、六十二階の懐かしい私室で、療養生活を余儀なくされた。
 遠い地球での暮らしや、星幽アストラル界での記憶は殆ど残っていないが、レインジールとの記憶は、彼と話をするほどに蘇った。
 今こうして存在している佳蓮は、地球で暮した佳蓮であり、アディールで過ごした流星の女神であり、或いは全く別の存在であるようにも思う。
 今にも消えそうな朧な意識を引き留めたのは、切なくなるような恋心だった。

“この円環を絶やさないで”

“貴方を想い、紅茶庭園を創りましょう。いつまでも、私は、お待ちしていますッ”

 耳に残る切実なねがい……
 強い想いに引き寄せられ、淡い思念は物質エーテル界に顕現したのだと思う。
 十日も経てば、佳蓮はすっかり元気を取り戻したが、レインジールはなかなか佳蓮を部屋から出そうとしなかった。

「いい香り……」

 かぐわしい紅茶の香りに、佳蓮は笑みを浮かべた。

「季節の茶葉ですよ」

 熱い湯の中で、葉がじっくりと広がっていく。何でも器用にこなすレインジールは、紅茶を煎れるのもとても上手だ。

「薔薇も綺麗」

 カップに添えられた可憐な花びら。見ているだけで、幸せな気持ちになる。

「でしょう? 庭園に咲いていた薔薇です」

「この一時のために、生きてるわー」

 しみじみと呟くと、レインジールも静かにほほえんだ。

「もう元気になったし、今度オルガノさんに会いにいこうよ」

「ええ。そうですね。師も喜ぶでしょう」

「リグレットさんとジランも誘おうよ」

 明るく佳蓮がいうと、レインジールは少々ムッとしたような顔をした。

「どうして他の男を誘いたいなんていうのですか?」

「嫌? 皆もオルガノさんに会いたいんじゃないかと思って」

「……私は、どこへもいかず、佳蓮と二人きりで過ごしたい」

 嫉妬の滲んだ言葉に、佳蓮はくすぐったいような、甘い気持ちにさせられた。無言をどう受け取ったのか、レインジールは続ける。

「心が狭いと呆れるかもしれませんが、私は、できることなら、佳蓮を誰の瞳にも触れさせたくないのです」

「えっと……」

「今の佳蓮にいっても仕方ありませんが、私は貴方の奔放さに、ずっと苦しんでいました。いつだって、貴方を一人占めしたくてたまらなかったのです」

 熱烈な告白に、佳蓮は俯いた。顔から火が出そうだ。
 時を越えて再会を果たしてから、レインジールはずっとこんな調子だ。記憶にあるよりも独占欲が強く、感情を真っ直ぐに伝えてくるように思う。
 同じように、佳蓮も言葉にできたらいいのだが、どうも照れ臭さが先立つ。
 美しい顔を見つめて、膝に視線を落とす。再び視線を上向けると、悟られぬよう、すき、と小さく唇を動かした。

「……もう一度いってください」

「え?」

「よく聞こえませんでした。どうか、もう一度」

「な、なんで判ったの?」

 狼狽する佳蓮を見て、レインジールは甘く微笑んだ。

「佳蓮。いって?」

 差し伸べられる手を取ると、暖かな胸の中に抱き寄せられた。押し当てた頬に、少し速い鼓動が伝わってくる。

「……貴方に触れられて、とても平静ではいられません」

 いい訳めいた台詞に、思わず笑みが零れた。上目遣いに仰ぐと、レインジールは表情を消した。

「……貴方は、とても魅力的だから」

 形の良い長い指が、佳蓮の耳の輪郭をなぞる。背筋をぞくぞくさせながら、佳蓮は笑った。

「レインもとっても素敵だよ」

 面映ゆそうにレインジールは笑った。

「ありがとうございます」

「ううん……」

「佳蓮。聖杯を満たしたのは、私を想ってくださったからだと思っていいですか?」

「聖杯……」

 胸に手を当てながら、そういえば、と佳蓮は気がついた。
 かつてさいなまれた心のうろは、完全に失せている。暖かな光が、身の内から溢れているようだ。

「万の星詠みも、佳蓮の起こす奇跡に敵いませんね」

 暖かな手で、頬を撫でられた。長い指は頬を滑り、零れた黒髪を耳にかける。そのまま離れていかず、耳の輪郭をなぞる。おかしな声が出そうで、佳蓮はきつく唇を噛みしめた。

「私を想って、聖杯を満たしてくれたのでしょう? お願いです。もう一度、聞かせて……」

 甘く請われれて、佳蓮の胸は破裂しそうなほど震えた。

「……好き」

 小さな声で呟くと、抱きしめる腕の力が強くなった。
 頬を大きな手に包まれて、上向かされる。絡んだ視線が唇に落ちると、胸の奥をぎゅうっと掴まれたような甘い痺れが全身に走った。
 そっと唇が重なる。触れるだけの、優しいキス。世界で一番幸せなキスだ。
 少しだけ顔を離すと、どちらからともなく笑みが零れた。ふと、レインジールは何かに気付いたように、瞳を細めた。

「佳蓮、前髪を切ってさしあげましょうか?」

 不思議そうに眼を瞬く佳蓮を見て、レインジールは幸せそうに微笑んだ。

「少し、髪が伸びましたね」

 その言葉の意味を理解して、佳蓮の胸に、ゆっくりと喜びが込み上げた。表情を綻ばせる佳蓮を、レインジールは優しく見つめている。

 止まっていた時が、コトリ、音を立てて進み始めた。