人食い森のネネとルル

1章:底なし沼の珍事と共生のはじまり - 13 -

 白い霧は、一階の天井程に膨れ上がった後、ゆるやかに引いて行った。

「もう、いいかな……」

 ネネは白く曇った窓硝子をキュッと拭いて、外の様子を伺った。
 霧が流れた所為で、火鉢を置いた部屋も気温がぐっと下がっている。暖を取るように、二人と一匹は寄り添いじっとしていた。
 結局、霧の所為で午前中は何もできなかった。午後も念の為、外出は控えた方がいいかもしれない。

「昼飯にしようか。様子見てくる」

「私もいく」

「危ないから、此処にいて。霧の気配が残ってたら、すぐ戻ってくるから」

「嫌」

 ルルはきっぱりと告げた。振り返ると、不満そうな顔でネネを見下ろしている。

「アタシの言うことは、守ること。約束したろ?」

 初日に交わした約束を引き合いに出すと、ルルは悔しそうな顔をした。綺麗な勿忘草わすれなぐさの青い瞳に、ネネを案じる色が仄かに見える。
 共に過ごして七日経つが、ルルは此処での生活に飽きるどころか、ネネにべったりになってしまった。

「よしよし、黒いのと一緒に待ってな」

 黒いのを撫でた後、背伸びしてルルを撫でたら、嫌そうに顔を背けられた。「イヒヒッ」と意地悪く笑うと、そっぽを向いて拗ねてしまった。子供みたいな奴だ。
 二階は三階よりも更に冷えていた。霧の気配がないことを確認すると、階段下から声を張り上げた。

「平気だから、降りといでー」

 ウァンッ! と黒いのが返事する。ルルも直ぐに降りてきた。

「じゃ昼飯つくるか。黒いのも食べていきなよ」

 台所にも食材をいくらかストックしてある。庭で栽培している椎茸なら、いつでも籠いっぱいにあるし、山菜も、きじの燻製肉も残っている。
 かまどの温度が上がる間に、シャキッとした歯ごたえの山菜、みずの筋を取り、ナイフの背で叩く。水分が出てきたら味噌とあえて一品完成。
 網の上に、松茸まつたけ、サクラシメジ、ウラベニホテイシメジ、クロカワ、マイタケ……、新鮮な椎茸を次々乗せていく。
 狐色にこんがり焼けたら、かぼすを添えて完成だ。
 最後に燻製肉とバケットを、軽く炙って、次々と木製テーブルに乗せた。

「さぁ、召し上がれ! 黒いのはこっち」

 木製プレートを床に置くと、黒いのはフンフンと鼻を鳴らして、上品に食べ始めた。獣なのに、全然ガツガツしていない。

「料理がもったいない。そいつを捕まえて、今夜の晩餐に並べようよ」

 ルルの意地悪な発言に、黒いのが不満そうに顔を上げて唸った。

「黒いの、賢いから。悪口言うと怒られるよ」

「フンッ。ネネは優しいね」

 何だか棘のある言い方だ。ムッとしてルルを睨み付けた。

「黒いのは友達なんだ。此処で暮らし始めたばかりの頃、雉や兎を捕ってきてくれたこともある。何度も助けてもらったんだ」

「ふぅん。ネネって食べ物に弱いよね。毎食、丁寧に調理するし」

「なんだよ、文句あんの? 美味しいでしょ?」

 今日は椎茸づくしだ。焼きたての椎茸に、岩塩をふりかけ、すだちをしぼる。最高に美味しい。温めたウォッカにも、焼いたマイタケと松茸を浮かべた。いい香りが立ち上り、口に含めば身体がぽかぽかと芯から温まる。霧で冷えた後にはちょうどいい。

「美味しいけど」

 ルルは不服そうに料理を口に運ぶ。一体何が気に入らないのだろう。人が作ったものを、そんな顔して食べないで欲しい。

「アタシは、生死に関わる飢餓きがを経験したことがある。想像を絶する食事もした。普通なら、先ず口に入れないようなものを、生きる為にえづきながら飲みこんだ。あの苦しみは、絶対に忘れない。だから……、美味しい食事は、すごく幸せなことだと思うよ。アタシは、人食い森に生かされているんだって、いつも感謝してる」

「……」

「ルルだって、長いこと沼底にいたなら、腹ペコだったろ? アタシの精気が美味しいかどうかは、おいといてさ。もう腹は減ってないでしょ?」

「ネネは、美味しいよ。今まで口にした、どんなものよりも……。ネネは、街で酷い目に合っていたの? だから、森を出たくないの?」

 返答に詰まってしまった。食事の話はどうやら藪蛇やぶへびだったみたいだ……。
 適当に誤魔化そうかと思ったけれど、ルルの澄んだ勿忘草わすれなぐさの瞳を見ていたら、正直に口を開いていた。

「……奴隷だったんだ。生まれた時からずっと」

「だから……、逃げてきたの?」

「そうだよ」

「いつから森に?」

「二年前から……」

「ずっとここで暮らすつもり?」

「だって……、もう、あそこへ帰りたくない……っ」

 少し喋っただけなのに、感情が溢れて、唇が戦慄わなないた。声が潤みそうになり、慌てて唇を引き結ぶ。
 まだ何も、過去になっていやしないのだと、打ちのめされた気がした。忌々しい記憶が、次から次へと蘇る。

「ネネ」

 ルルはガタン、と椅子を鳴らして立ち上ると、ネネの前にひざまづいた。
 えりに皺が寄るほどシャツを握りしめていた手を、大きな手が上から包み込んだ。ルルと目が合った途端、ぽろりと涙が零れた。
 ルルは唇を寄せて涙を吸うと、大きな手で頭を優しく撫でてくれた。包み込むように抱きしめられる。涙が頬を伝い、黒い別珍に吸い込まれていった。
 クゥ―ン……。
 黒いのが心配そうに鼻を鳴らしている……。
 感情が落ち着いて我に返り、ルルを突き飛ばすまで、ネネはルルの腕の中でじっとしていた。