PERFECT GOLDEN BLOOD

2章:美しい館ベル・サーラの住人たち - 5 -

 日が暮れると、窓を覆っていたシャッターは開いた。
 小夜子は、日中の間はソファーに座ってテレビを見たり本を捲ったりして過ごしていたが、シャッターが開いたあとは、窓辺の椅子に移動した。
 夜空を仰げば、外はひっそりと静まり返り、晴れた夜空に千もの星が瞬いている。澄み切った夜空は天の川が見えるほどで、東京とはとても思えない。
 何度か、警察に通報することも考えたが、結局しなかった。先ずはルイの説明を聞くことに決めたのだ。
 膝を抱えて、ぼんやり夜空を眺めていた小夜子は、扉のノブが回る音に、はっと顔をあげた。
 入ってきたのはルイだった。シャワーを浴びてきたようで、髪がしっとり濡れている。白い無地のTシャツに、下はスエットのズボンを履いている。
「ただいま……」
 ルイが近づいてくる。小夜子はさっと椅子から立ちあがり、強張った表情でルイを見つめた。
「帰らせてください」
「ごめんね、それはできない」
「どうしてですか?」
「昨夜もいった通りだよ。危険がないと判るまで、小夜子をここからだすわけにはいかないんだ」
 小夜子は顔をしかめた。
「そんな、でも、私にも生活があるんですよ?」
「判っている」
「だったら……! アルバイトだってあるし、デジ・リュリュの課題をやろうと思っていたのに」
「夏休みの間は、シフトを休むとバイト先に断っておいたよ。ポートフォリオはここで作業すればいい。一通りの環境はそろっているし、データが必要なら僕がとってくるから」
「そ、そんな勝手にっ……私を帰してくださいよ!」
「だめ……不便かもしれないけど、ごめんね。ここで制作するなら、僕も教えてあげられるよ」
「そういうことじゃありません! 鍵をかけるなんて、異常ですよ」
「そうだね……ごめん、もう鍵をかけたりしないよ。約束する」
 小夜子は首を振った。
「どうして私なんですか? どうして私を連れてきたの?」
「君を守りたいから」
「私はルイさんが怖い!」
 ルイは一瞬、傷ついた表情を浮かべた。視線を俯け、長いまつ毛が目元に影を落とした。
「……ごめん、でも小夜子を外にだすのは心配で……必要なものがあれば、何でも届けるから」
 その声は本当に打ちひしがれていた。
 ずるい、と小夜子は思う。怒っているはずなのに、ルイの苦し気な表情を見ると、胸が痛む。
「と、とにかく、帰るといったら帰ります」
「僕が目障りなら、このフロアは小夜子にあげるよ。僕は他の部屋を使うから」
「えっ?」
 小夜子はぎょっとしてルイを見た。彼は真剣な表情をしていた。
「いやいや、私がでていきますよ」
「それは駄目」
「どうして!?」
「ここをでたら、たちまち襲われるよ」
 小夜子はルイをじっと見つめた。
「これまでにも、怖いことならたくさんありました。でも、ちゃんと一人で対処してきたんです」
「無事でいられたのは、十七歳になっていなかったからだよ。これからは違う。女王はもう、小夜子を見つけてしまった」
「女王……」
 ルイは気づかわしげな顔つきになった。
「小夜子も見ただろう? 暗黒の怪異を呼び起こす、とてつもなく強大な原始の女神だ。彼女は小夜子を狙っている」
 小夜子は唖然となった。
「……どうして、私が狙われるんですか?」
 ルイは気の毒そうに小夜子を見た。
「君が、黄金律の祝福を受けているから……女王は食屍鬼グールを使って新世界を築こうとしている。小夜子の流血が必要なんだ」
 小夜子は目を瞠った。自分を抱きしめるように両腕を身体に巻きつけ、ぶるっと震えた。
「……そんなの嘘」
「ごめん。怖がらせたいわけじゃないんだけど、訊かれたから……でも、小夜子のことは絶対に守るよ」
 小夜子は困惑し、かぶりを振った。
「信じられません。こんなところに連れてきて、わけのわからないことばかり……帰すわけにはいかないって、監禁するつもりですか?」
 緊張を帯びた沈黙が流れた。
「……僕もそうはしたくはないよ、小夜子」
 ルイが近づいてくる。小夜子はパニックに陥り、ドアまで無我夢中で走った。ノブを捻るが開かない。鍵の開け方が判らず、強引に押したり引いたりした。
「小夜子」
 ルイの声がすぐ傍で聞こえる。心臓が止まりかけたが、小夜子はノブから手を離さず、硬い声でいった。
「あ……開けてください。私、本当にもう帰らないと」
 そっと肩に置かれた手を、小夜子は力任せにはじいた。彼の横をすり抜けて、距離をとる。部屋を見回すが、他にでられる手段は見つからなかった。ドアの前にはルイがいるし、窓もドアにも鍵がかけられていて、解除の仕方が判らない。
 ルイは無理に距離を詰めようとはせず、静かにソファーに腰をおろした。Tシャツを着ていても、彼がしなやかな筋肉をまとっていることは分かる。小夜子よりずっと長身で、強靭な体躯をしているのに、打ちひしがれている風情は、どこか儚なげに見えた。
「……小夜子を傷つけたりしない。君のことが大切なんだ」
 感情が昂り、小夜子はルイをきつく睨みつけた。
「たっ、大切? 閉じこめておいて?」
 ルイは小夜子をじっと見つめたあと、ゆっくり席を立ち、慎重に傍に寄ってきた。
「僕の君に対する感情は、理屈じゃないんだ。無茶なことをいっているのは判っている。だけど、どうか信じてほしい。君を守るためなら、僕は何をさしだしてもいい。この身体に流れる血よりも、小夜子のことが大切なんだ」
 小夜子はルイの迸るような言葉に、断固とした響きを感じとった。彼の瞳は真剣そのもので、銀色の虹彩は強い意思を灯して、薄闇のなかでも輝いてみえる。
「……どうか、僕を信じて」
 ルイは囁くように繰り返した。小夜子が何もいえずにいえると、腰を強く引き寄せられた。
「君のことが好きなんだ」
 小夜子は唖然とし、それから真っ赤になった。ルイから離れようと腕を突っ張るが、まるで歯が立たない。彼の素肌からたちのぼる、柑橘の香り、熱気にくらくらする。美貌がおりてくる――
「……ん」
 唇が重なった瞬間、心臓が雷鳴のように轟いた。
 下唇に牙が触れて、小夜子は我に返った。怯えて、逃げようと暴れたが、ルイは許さなかった。
「んん……ゃ、やだっ! やめて……っ」
 少しでも遠ざかろうと肩を押しのけようとするが、顎を掴まれて、正面を向かされる。
「やめられないんだ」
 その声には切迫した響きがあった。小夜子は息が止まりそうになった。顔を背けると、彼は耳朶に唇を押しあて、もう一度繰り返した。
「……本当だよ、自分でもどうしようもないんだ」
 背筋にぞくっと震えが走る。頬に手を添えられ、目があった途端に唇を塞がれた。優しく、だが強い意思をもって舌が入ってくる。口腔を刺激され、逃げ惑う下を優しく搦めとられ、吸われた。
「んっ……ふ、ぅ……」
 巧みなキスは、経験のない小夜子では太刀打ちができなかった。抗うこともできずに翻弄されてしまう。
 やがて唇が離れた時、小夜子は泣きそうになっていた。
「どうして、拒めないのかな……私、ルイさんといるとおかしくなる……怖い」
 抱きしめる腕の力が強くなった。
「僕もだよ。小夜子といると、平然としていられない……こんなことは初めてだ」
「嘘」
「嘘じゃないよ、僕は、君に恋をしている」
 リップサービスというには、彼の眼差しが真剣すぎた。小夜子はどう応えればいいか判らず、縮こまるように自分の腕を撫であげた。
「こんな状況でいうのは、卑怯だって判っている……僕が怖いよね。だけど、この気持ちは信じてほしい。君のことが本当に好きなんだ、小夜子」
 あまりに強い視線に、小夜子は怯んだ。
「正直、小夜子がすごく欲しいし、とても我慢してる。でも、絶対に小夜子の嫌がることはしないって誓うよ」
 腕を組み、所在投げにたちつくす小夜子を見て、ルイは少し体を離した。
「ずっと閉じこめておくわけじゃない。危険が去ったら、アパートに送っていくよ。約束する。少なくとも、夏休みが終わるまでには全部片づける。だから……」
 ルイは騎士のように跪き、息をのむ小夜子の手をとって、指先にキスをした。約束と懇願、両方をこめて。
「僕の傍にいてくれる?」
 こんな風に懇願されて、拒める女がいるだろうか? どうかしていると頭の片隅に思いつつ、小夜子は観念したように頷いた。
「……判りました」
 ルイはほっとしたように肩から力を抜いた。
「ありがとう……」
 心からの感謝の言葉に聞こえた。愛おしそうに目を細められ、小夜子の心臓はまたしても高鳴った。
「でも、部屋の鍵はしめないでください。あと、家に帰してくれないのなら、ルイさんも課題を手伝ってください」
 照れ隠しに小夜子がいうと、ルイは嬉しそうに笑った。
Bienビアン surシュール. 小夜子のためなら何でもするよ!」
 まばゆい笑顔を直視できず、小夜子はそっと俯いた。彼に恋をしても不毛だと判っているのに、傾いていく心を止められそうにない。
「ああ、幸せだな……」
 ルイは噛み締めるようにいった。小夜子をじっと見つめて、
「これ以上傍にいたら、小夜子を襲ってしまいだから、でていくね」
 そういってルイは立ちあがると、小夜子の額に軽いキスを落とした。
「お休み、小夜子」
 小夜子は額を押さえて赤くなったが、はっと我に返り、ルイを見た。
「――待って、本当はどこへいってきたんですか?」
「ロンドンだよ。悪魔どもと戦ってきたんだ、勝ったよ」
 ルイはにっこり笑って答えると、静かに部屋をでていった。
(……スーパーマンなのかな?)
 小夜子は首を振り、ベッドにもぐりこんだ。心臓は煩く鳴っていたが、無理やり目を閉じた。ロンドン云々も疑問だが、彼の要求を呑んでしまった自分のことの方が謎である。
(あーあ……判りました、なんてどうしていっちゃったんだろう……)
 つい、返事をしてしまった。愚かだと自嘲しながら、ルイのくれた言葉に舞いあがるほど喜んでいる自分がいる。ふわふわして現実感がない……が、この時間が有限であることを忘れてはいけない。
 少なくとも、夏休みが終わるまでには、ここをでていかないといけないのだ。
 この調子だと、彼と離れるときには、酷く苦しむことになるのかもしれない。好きだといってくれたが、彼と小夜子では釣りあいがとれない。うまくいきっこないのだ。失恋することが決まっているなら、傷は浅い方がいい。これ以上、彼のことを好きにならないようにしよう――できるか不明だが、小夜子は自分にいい聞かせた。