PERFECT GOLDEN BLOOD

2章:美しい館ベル・サーラの住人たち - 8 -

 さらに数日が過ぎた。
 小夜子は、相変わらずの軟禁生活を送っている。
 今が夏休みで良かった。夏季休暇で学校もないし、アルバイトは……ルイが勝手に断ってしまったのだが、とにかく、一日邸にいても困ることはない。
 困るどころか、至れり尽くせりの奢侈しゃしな生活を送っている。食事も掃除も、ジョルジュが世話をしてくれるし、邸は広くて優雅で、絵本にでてくるような中庭まであるのだ。
 先日は、黄昏ゆく美しい中庭で、千尋とお茶を楽しんだ。彼女はいつでも手製の美味しい菓子を持参し、小夜子や、テーブルに着いた住人たち、ルイやアラスターに振る舞った。
 ここの住人たちは謎だらけだ。自由人で享楽的で、日中はなにをしているのかよく判らない。
 特にヴィエルとアンブローズには、あれから一度も遭遇していない。千尋は学校に通っておらず、家事とお洒落、庭いじりを楽しんでいる。彼女とはLINEのやりとりもするようになった。ルイとアラスターは夜は共に行動することが多く、退魔に関わる仕事をしているらしい。
 色々と驚かされることばかりだが、なかでも、ここへきてから一度も霊障に悩まされていないことに、小夜子は一番驚いていた。
 怪奇に怯える心配がないというのは、想像していた以上に天国だ。
 課題制作に打ちこむ環境もそろっており、この豪華な邸から一生でられなくても、困らないかもしれない。
 悠々自適な軟禁生活を送っているが、ルイの方は忙しそうにしている。ついさっき面と向かって話していたのに、電話してみたら今シドニーにいる、なんて答えることが一度や二度ではなかった。冗談なのか本気なのか判別つかないが、彼には物理的法則を無視して、一瞬で地球の裏側へ移動する手段があるらしい。が、詳しい事情は教えてくれない……
 推し量ろうにも、彼は謎だらけだ。スーパーマンかスパイダーマンかな? なんて割と本気で小夜子は思っているくらいだ。
 ただ、小夜子に危険が迫っているというルイの説明を、小夜子は一応、受け入れていた。実際に何度か怖い思いをしているし、小夜子と同じものが視えるという彼の言葉は、非常に説得力があったからだ。

 午後六時過ぎ。
 日没を知らせる電子音が鳴り、館中の窓を覆う、鋼鉄のシャッターがゆっくりと直上にもちあがった。
 部屋に外の光が射しこむにつれ、閉鎖感は薄れていった。
 窓の向こうは黄昏に包まれ、木々の葉は沈みゆく最後の陽光を受け、金色に燃えあがっている。刻一刻と空は翳り、夜の帳が風景を覆っていく……森や茂みの輪郭が、少しずつ滲んでいく。
 制作課題とにらめっこしていた小夜子は、手を休めて窓辺に倚った。
 窓を開けた途端に、夏の熱気が流れこんでくるが、日中に比べたら大分和らいでいる。
 空を仰げば、細い月が浮かぶ群青の夜空。眼下には月光に照らされた美しい中庭。
「素敵……」
 思わず、唇から感嘆のため息が漏れた。
 窓辺には真っ赤なゼラニウムの鉢が置かれ、可憐な蔓薔薇や白いクレマチスが窓枠を縁取っている。
 程よく人の手が入れられた庭は、バーネットの秘密の花園のようだ。原種の薔薇が大地から螺旋を描くように這いあがり、アカシアの大樹に絡みついて、かぐわしい芳香を放っている。
 小夜子は、美しい光景をぼんやりと眺め、しばらく空想に耽っていたが、廊下から聴こえてくる靴音に意識を呼び戻された。
 ルイが戻ってきたのだ。
 飼い犬が主人の帰還を喜ぶように、小夜子は顔に喜色を浮かべ、扉へ駆け寄った。
 部屋に入ってきたルイは、目の前に小夜子が立っているので、驚いたように目を瞠った。
「小夜子?」
 だが、すぐに小夜子の背中に両腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。
「ただいま、小夜子」
「お帰りなさい」
 途端に小夜子は、衝動的に駆け寄ったことが恥ずかしくなった。だが、彼は三日も戻らなかったので心配していたのだ。
「君に会えて嬉しいよ」
 そういって額にキスを落とす。小夜子は朱くなって俯いた。ルイはじっと小夜子を見つめたかと思えば、
「シャワーを浴びてくる」
 そういって、背を向けてバスルームの方へ歩いていった。後ろ姿を見守り、小夜子は彼が戻ってくるまでリビングで寛ぐことにした。珈琲を淹れて、テレビをつける。おもいのほか番組が面白くて、にやにやしながら見ていると、いつの間にかルイが戻ってきた。
「小夜子」
 振り向くと、ルイは上半身裸だった。鍛えあげた肉体は、湯あがりでしっとりと艶めいている。
 小夜子は慎ましく視線を逸らしたが、しっかり見てしまった彼の裸体に、心を奪われていた。筋肉を纏ったしなやかなに肉体……がっしりした肩、長くて力強い腕、胸、固く割れた腹部。無毛の肌は信じられないほどなめらかで、乳白色に輝いていた。
(ガーン、私より肌が綺麗なんですけど……肉体美って、ルイさんのためにある言葉だわ……って、何考えてるの、私っ)
 小夜子はかぶりを振って、自由に羽ばたきすぎる妄想を振り払った。
「どうかした?」
 ぱっと小夜子は顔をあげた。いつの間にルイは目の前にきたのだろう?
 彼は、狼狽える小夜子の方に身を屈め、ちゅっと頭のてっぺんにキスを落とした。
「っ」
 思わず首をすくめてしまう。早く服を着てちょうだい、と内心で喚く小夜子の動揺を知らず、ルイはゆったりした足取りでキッチンの方へ歩いていった。冷蔵庫からミネラル・ウォーターをとりだし、コップに注いでいる。
 その様子を横目で見ていた小夜子は、ふと視線を留めた。背中に、赤い線が走っている。そこをじっと見ていると、ルイはぱっと振り向いて、探るように小夜子を見つめた。
「何?」
「背中に傷が……」
 ルイの強張った表情を見て、小夜子は失礼だったかしらと不安に駆られた。
「ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
「ごめんなさい……じゃなくて、怪我しているんですか?」
「違うよ。大丈夫だから、背中のことは気にしないで」
 大丈夫。気にしないで。彼はそればかり口にする。説明してくれないことに落胆を覚えて、小夜子はそっと視線を伏せた。
「……お仕事は、順調ですか?」
 ルイは小夜子をじっと見つめた。
「今のところ、目立った動きはないけど、警戒はしているよ。敵の本拠地があるはずだから、探しているところ」
「敵って、私を狙っているっていう?」
「そう。食屍鬼グールを指揮している女王」
「見つかりそうですか?」
「見つけるよ」
 ルイは強い口調でいった。今度は小夜子が押し黙り、ルイをじっと見つめた。
 その問題が解決したら、小夜子はここにいる理由がなくなる。ルイともお別れになるのだろうか。
「少し、でてくるね」
 また? 小夜子は、顔をあげてルイを見た。感情を押し隠した、比類のない美貌を見ていると、星のない夜闇に取り残されたような、深い寂寥感に襲われた。
「……ルイさんはいつも、忙しそうですね」
 思わず嫌みが口をついた。素直に、いかないでといえない愚かさを後悔したが、撤回する勇気もない。
 ルイは躊躇う様子を見せたが、黙ったまま部屋に入っていき、間もなく身支度の音を立て始めた。
 小夜子は窓辺に座ったまま、彼が部屋をでていくのを見守ることしかできなかった。
 一人になると、小夜子はため息をついて、部屋に戻り、ベッドにもぐりこんだ。
 電気を消すと、間もなく微睡かけたが、端末が震えて目が醒めた。
 寝起きで霞がかった思考は、液晶に表示されたルイの名前を見た途端に、明瞭に切り替わった。慌てて起きあがり、端末に耳に押し当てると、
<小夜子>
 少しハスキーな甘い声が鼓膜に響いた。胸がぎゅっと引き絞られるような、心地よい痛みが走る。
<ごめん、寝てた?>
「……寝ようとしていました」
<会いたいな……>
 耳元で吐息まじりに囁かれて、小夜子は身悶えそうになった。この人は一体、小夜子をどうしたいのだろう?
<もしもし、小夜子?>
「はい」
<……引いてる?>
「え?」
<僕ってしつこいかな?>
「そんなことは……」
<でも戸惑ってる。僕のせいだよね>
「……」
 否定はできなかった。ルイといて、平静でいられた試しがない。いつでも余裕がなくて、どきどきしっぱなしで、離れていると不安で、声を聞くだけで心がふわふわしてしまう。全部ルイのせいだ。
 小夜子がままならぬ思いを噛み締めていると、端末の向こうから、ルイのため息が聴こえた。
<今夜はたてこんでいて、戻るのが遅くなりそうなんだ。でも何かあったら、いつでも連絡して>
「ルイさん、今どこにいるんですか?」
<教えてもいいけど……引かない?>
「聞いてみないと判りません」
<……上海シャンハイ
「……」
<小夜子?>
 どこか不安そうな声を聞いて、小夜子はつい微笑をこぼした。
「……上海って、私が思っていたより近所だったんですね……気をつけてくださいね」
<ありがとう。愛しているよ、小夜子>
 リップ音が聴こえた。小夜子は頭が真っ白になり、言葉を失った。何か言葉を発する前に、ルイは通話を切ってしまった。
(あ、愛している……?)
 幻聴だろうか? いや、確かに彼は愛しているといった。小夜子を?
 端末を凝視したまましばらく考えていたが、やがて一つの結論に到達した。
 あれはルイの最上級のリップサービスに違いない。そうでなければ、彼のようにゴージャスな人が、何をどうして小夜子みたいな平凡な女子校生に落ちるのか、説明がつかない。
 小夜子は愚かな自惚れを振り払うように、首を左右に振った。顔をあげると、電灯を消したままの部屋に、窓から射している月明かりが、幻想的な幾何学模様を描いていた。ぼんやり眺めているうちに無心になり、眠気が戻ってきた。
(……寝よ)
 布団にもぐりこんで、丸くなる。瞳を閉じても、瞼の向こうにルイの姿が浮かびあがる。
(ふぅ……今度は上海か……何時に戻ってくるのかな)
 なんだか、寝ても覚めても彼に悩まされている気がする。とりとめのないことを考えているうちに、緩やかな眠りはやってきた。
 満ちる、夜の静寂しじま――
 ふと、ベッドの沈みこむ気配に目を醒ました。
「……ルイさん?」
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん……お帰りなさい、怪我はありませんか?」
「ただいま。平気だよ」
 ルイは柔らかな笑みを浮かべると、ベッドの端に腰かけた。シャワーを浴びて着替えてきたようで、黒髪の先がしっとり濡れている。しどけない姿に見惚れていると、ぱちっと目が遭った。
「上海でお土産を買ってきたよ。気に入っている茶葉なんだ。あとで飲んでみて」
「ありがとうございます」
 芸が細かいと思いつつ、小夜子は素直に礼を口にした。実のところ――ルイは本当に上海にいっていた。六十体あまりの食屍鬼グールを片づけ、東京に戻ってきたのだ。彼は小夜子に対して、嘘をついたことはないのだが、この時点ではまだ、小夜子は何も理解していなかった。
「……小夜子が眠るまで、傍にいていいかな?」
 ルイは少しばかり疲れた声でいった。
「ルイさんは寝ないんですか?」
「ん、小夜子が眠ったら、食料を探してくるよ。今夜は頑張って働いたから、餓えて倒れそうなんだ」
「私のことはいいから、食べてきてください」
「小夜子が安心して眠るまで、傍についていたい。さっきは、説明もせずにでていってごめんね」
 思いやりのこもった声でいわれて、小夜子は俯いた。彼に恋をしても不毛だと判っているのに、傾いていく心を止められそうにない。
「……いいんです、帰ってきてくれたから」
 そういって、頭の上まで毛布をかぶる。優しい手に、そっと頭を撫でられた。そのまま、枕に散った髪をくしけずられる。
 触れ方が優しくて、親密すぎて、涙がでそうだった。
(……ルイさんは、私のことが好き?)
 そう考えた傍から、否定の言葉が泉のように湧きでてきた。
 眠れ。
 眠ってしまえ。呪文のように、心のなかで唱える。
 朝になれば、きっとこんな愚かな想いを抱いたことを忘れられるだろう――そうねがいながら。