PERFECT GOLDEN BLOOD

3章:Auオール revoirボワール - 7 -

 八月二十七日。
 女王の陰謀を阻めたことを祝して、中庭で内輪のささやかなパーティーが催された。ささやかといっても、ジョルジュと千尋の働きにより、素敵な演出がされている。
 小夜子は錬鉄製の長椅子に座り、テーブルを囲んで楽しげに笑っているVたちを眺めながら、一抹の寂しさを感じていた。
(夏休みも終わりかぁ……)
 ここへきた当初は、家に帰りたくて仕方なかったが、今では全く逆のことを思っている。
 脅威も去り、アパートに戻れることを喜んででもいいはずなのに、もうこんな風に彼等と過ごせなくなるだろう――そう思うと、残念で仕方がない。
「いよぉ、見惚れてるのか?」
 耳元で声がして、小夜子はぎょっとして振り向いた。いつの間にか、すぐ後ろにアラスターが立っていた。
「す、すみません。気づかなくて」
 慌てる小夜子を見て、彼はにやりと笑った。
「ここには慣れたか?」
「はい、皆さんよくしてくれます」
「あんたは、よくやってるよ」
「そうでしょうか? お世話になっているばかりで、心苦しいのですが……」
「ルイが安定しているのは、あんたのおかげだろう。あんたがルイを大切にしてくれるのなら、俺たちも小夜子を受け入れる。それだけだ」
 意外なほど柔らかな口調だったので、小夜子は、思わずアラスターをじっと見つめた。
 親密げな空気を醸している二人の様子に、ルイが気がついた。傍にやってきた彼は、小夜子の肩に手を置いて、アラスターとの間に身体を滑りこませた。
「だから、いちいち威嚇するなよ。ちょっと喋っていただけだろうが」
 呆れたようにアラスターがいうと、ルイは不服げに片眉をあげてみせた。
「本当に?」
「Oui. Monseigneurモンセニウル
 アラスターは慇懃いんぎんな礼で応えたが、むっと眉をひそめるルイを見て、吹きだした。
「怒るなって、冗談だよ。全く、ルイがそれほど独占欲の強い奴だとは思わなかったぜ」
 と、磊落らいらくに笑う。
「今まで誰かを独占したいと思ったことがなかったからね」
 ルイの言葉に小夜子は朱くなった。アラスターは目をぐるりと回しながら降参するように両手をあげ、賢明にも自主的に退散した。
 ルイは小夜子の隣に座ると、優しく肩を抱き寄せた。
「楽しんでる?」
 赤くなりながら、小夜子は頷いた。
「はい。お料理もすごく美味しいです」
 ルイが嬉しそうに笑う。小夜子が照れ隠しに、歓談しているVたちに視線を向けると、不意にルイが小夜子の指先をとった。驚いた小夜子がルイを見ると、彼は、怖いほどまっすぐに小夜子を見ていた。
 彼は小夜子をじっと見つめたまま、そっと唇を指先に押しあてた。小夜子は急に呼吸の仕方が判らなくなってしまった。一体、どうしてしまったのだろう?
 雰囲気が、いつもと違う。銀色の瞳が神秘的に輝いている。
(彼のなかに、なにかいる……?)
 直感がそう告げている。外見はルイのままだけれど、今の状態は、ルイとは少し違う……別の何かだ。
「そういうことは、二人きりでやってくれよ」
 アラスターが、ウォトカの入ったグラスを手に戻ってきた。
 笑顔でやってきた彼は、気さくにルイの肩を叩いたが、振り向いたルイは、凶暴な唸り声をあげた。
 その場にいた全員がはっとなり、ルイに注視した。アラスターはルイの顔を見て、表情を強張らせた。
「ルイ……まずいぞ。その瞳、判ってるか?」
 ルイは蒼白な顔で立ちあがり、ふらついた。頭痛をこらえるように、眼窩がんかに指を押し当てている。
「悪い、油断した」
 彼らしからぬ、力ない声だった。
 Vたちは、それぞれ手にしていたものをおろして、深刻げな顔でルイを取り巻いた。
「二階へつれていきましょう」
 アンブローズの言葉にヴィエルが頷き、アラスターは小夜子の肩を掴んだ。
「悪いな、席を外してもらっていいか?」
 小夜子は身をよじって反発した。ルイがぐったりしているのに、傍を離れたくない。
「一緒にいちゃだめですか?」
 アラスターは困った顔になり、
「たぶん、発作がでる。その時のルイはちょっと、キモいからさ。あんたに傍にいてほしくないと思うんだ」
(キモい?)
 訝しむ小夜子の方を、ルイが見た。途端に、別のものが憑依したかのような顔つきになった。瞳の中の銀色が一際輝き、牙を剥だしにしてアラスターを威嚇する。
「アラスター! 彼女を離せ、早く!」
 アンブローズが叫んだ。アラスターは手を放す前に、小夜子の耳に囁いた。
「まずい、ルイから離れろ」
 小夜子はかぶりをふった。ルイだけを見つめて、唇を開く。
「ルイ?」
 視線を彷徨わせるルイの顔をのぞきこむようにして、呼びかけた。
「ルイ、平気?」
 彼は首を振り、小夜子から目を背けて、アカシアの幹に背を預けた。両腕できつく身体を戒め、今にも内側から暴れだそうとしている何かを、抑えこんでいるようだった。
 状況は全くの不明だったが、彼が自分と戦っていることは、小夜子にも判った。
 無限の静寂のあと、彼は幽鬼のように身体を起こした。瞳はいつもの色に戻っているが、顔は蒼白で、今にも倒れてしまいそうに見えた。
「……すまない」
 ルイは弱々しく呟いた。小夜子を見て、何かをいいかげたが、気恥ずかしそうに視線を伏せた。
 誰も動けずにいるなか、小夜子はVたちの間をすり抜けて、ルイの頬を両手で手挟んだ。
「こっちにきて。私と少し、おしゃべりしましょう?」
 Vたちが息をのむ様子が判った。
 ルイは気まずい顔を見せたが、珍しく強い眼差しで小夜子が視線を逸らさずにいると、やがて根負けしたように、小さく頷いた。
 ほっと息をつき、小夜子はルイの手を繋ぎながら、途方に暮れているVたちを振り返り、おずおずと笑みかけた。
「皆さん、彼も私も大丈夫ですから、どうぞ歓談に戻ってください。ね?」
 アラスターは苦笑を浮かべて頷いた。
(感謝する……)
 脳裡に直接呼びかけるような囁きに、小夜子は驚きに目を瞠った。視線を揺らすと、アンブローズと目が遭った。感謝の表情で瞳が煌めくのが見てとれた。彼から、嫌悪以外の眼差しを向けられるのは初めてかもしれない。
 小夜子は控えめに会釈をし、ほほえんだ。こんなこと、彼等がこれまでに小夜子にしてくれたことを思えば、どうということはない。
 小夜子はルイの手を撫でているが、ルイの方はまだ緊張しているようで、目をあわせることを躊躇っているようだった。
「平気ですか?」
 顔をのぞきこむようにして、小夜子は訊ねた。
 ごめん、と呟いてルイは自嘲めいた微笑をこぼした。
「僕は小夜子の前ではいつだってぎこちないけど、これは特に酷いな」
「ルイは、少しも悪いことをしていませんよ。だから謝ることはありません」
 ルイは眩しいものを見るように、眼を細めた。瞳のなかに賞賛の光が灯っていることに気がついて、小夜子は顔が火照るのを感じた。
「初めて一緒に食事をした夜、謝ってばかりいる私に、ルイがいってくれたんですよ。覚えていますか?」
「……うん。覚えているよ。小夜子が、ストライプのワンピースを着ていたことも」
 小夜子が笑うと、ルイも微笑を返した。
 暖かなものを二人の間を行き交う。緊張が柔らかくほどけていくのを感じながら、二人はしばらく寄り添っていた。

 夜半。
 夢も見ない深い眠りのさなか、何かが覆いかぶさる気配に、小夜子は目を醒ました。目の前に影があって、ひゅっと喉が鳴った。
「……ルイ?」
 ルイのはずだが、頭に二本の角がある。彼は小夜子に覆いかぶさるように四つん這いの姿勢をとっていて、そのまま顔を近づけてきた。
「……ま、待って。ルイなの?」
 沈黙。彼は黙ったまま、小夜子のこめかみから首筋、鎖骨へと、匂いをかぐように身じろいだ。吐息が肌に触れるたびに、小夜子の心臓は壊れそうになった。
 彼の背中に、大きな二つの翼が拡がった。艶やかな悪魔のように黒い羽。息をつめていると、心臓の上らへんに唇が触れた。
「っ」
 怖くて言葉もでなかった。ひゅっと喉が鳴って、身をすくませる。何をされるのかと怯えたが、ルイは顔をあげて、小夜子の顔を覗きこんだ。か弱い生き物を慈しむように、掌をそっと小夜子の頬に押し当てる。羽のように優しい触れ方に、小夜子の緊張はほんの少し和らいだ。
「あ、貴方は、誰なの?」
 彼は、銀色の瞳を瞬いた。次の瞬間、彼の頭から二本の角が消えて、翼も消えた。
 ルイは唐突に我に返った。
 どういうわけか、小夜子に覆いかぶさって、彼女の顔の両脇に手をついていた。
(――何をしているんだ?)
 我に返ると同時に、ぞっと背筋が冷えた。
「ルイ?」
 小夜子は心配そうな声でいった。彼女は怯えてはいなかった。ルイを案じているのだと判り、胸が熱くなる。つられたように悪魔も反応するのが腹立たしかった。
「……驚かせてごめん、ちょっと寝ぼけたみたいだ」
 ちょっと、どころではない。自分に幻滅しながら、ルイは力なくベッドから降りた。慌てて起きあがろうとする小夜子の肩に、そっと手を置く。
「起きるには早いよ……」
 小夜子は横になったあとも瞳を閉じようとはせず、じっとルイを見つめていた。
「ルイは眠らないの?」
「Vだからね」
 無垢な瞳を覗きこみながら、柔らかな頬を撫でる。彼女はルイの手の上に、自分の手を重ねた。
「……大丈夫?」
「大丈夫だよ。“眠って”」
 言葉に力を乗せて囁く。髪を撫で、つむじにキスをすると、小夜子は柔らかな息をはいて、身体を弛緩させた。
「……ルイは?」
「ん、休むよ。小夜子が眠るまで、傍にいていいかな?」
 承諾のかわりに、小夜子は目を閉じた。
「……お休みなさい」
「お休み、小夜子」
 ゆっくり髪を撫でているうちに、小夜子は小さな寝息をたて、ぐっすり眠りこんだ。ルイに全幅の信頼を寄せていると判る安心しきった顔は無防備で、幼い子供みたいにふっくらしている。
 ルイは愛おしさを感じながら、同時に、喉の渇きを覚えた。本能が、彼女の血を欲しているのだ。
(……この身体に悪魔が潜んでいる限り、小夜子を共有しなければならないのか)
 中庭での件といい、衝動を抑えることが難しくなってきている。このままでは、最悪の事態を招きかねない。
 しかし、この身を安定させるために黄金律の血が必要なのだとしても、小夜子の血を飲む気にはどうしてもなれなかった。本能の塊のような悪魔に、吸血の抑制ができるとは思えない。一滴でも口にしたが最後、躰中の血を吸いつくしてしまう危険があるのだ。
 彼女を守るためにここへ連れてきたが、ルイが傍にいる限り、かえって危険なのかもしれない。
 遣る瀬無い念が胸にこみあげ、ルイは唇を噛み締めた。これまでのように、小夜子の傍にはいられなさそうだという、暗澹あんたんたる思いに囚われる。
 だが、今さら手放せるのだろうか?
 小夜子を知ってしまった以上、知らなかった頃には戻れやしないのだ。
 うちなる悪魔までもが不満を訴えてくる。小夜子の傍にいたいという、原始的にして強力な意志を伝えてくる。
(うるさいよ、悪魔。お前のせいだぞ。お前さえいなければ……ッ)
 ルイは心のなかで口汚く罵った。力なく小夜子を見下ろし、やがて少女の傍を離れると、服を着替えて邸をでた。
 そうして、鬱憤を晴らすように、夜の街を文字通り飛びまわった。
 夜明け寸前まで体力を烈しく消耗し、明け方に邸に戻ると、訓練塔のシャワールームへ駆けこんだ。
 頭から冷水を浴びながら、思案に耽った。小夜子を前にすると、悪魔はいつも表にでたがった。だが、これまではルイの意志で抑えこめていた。制御できているのだと思っていた。
 違うのだ。
 奴が従順でいたのは、ルイが小夜子に触れていたからだ。彼女の匂い、唇や手に伝わる柔らかさ、それらをルイを通して感じていた。同調していたのだ。
 それが今夜は、自分の意志で表にでてきた。寝ている小夜子を襲うような真似を――
「……くそっ」
 拳を壁に叩きつけた。力の加減ができず、剥がれたタイルの欠片が、床に落ちて砕け散った。
 制御できるのか。救いはあるのか――ウルティマスのいうように、小夜子の血を吸えば、悪魔は鎮まるのか?
 だが、最悪の事態を招いたらどうする? 渇きを制御しきれず、彼女の血を全て飲み干してしまったら?
 小夜子に触れる時は、いつでも細心の注意を払う必要があるのだ。ほんの少しでも、力の加減を間違えれば、取り返しのつかないことになる。破壊の塊のような悪魔が、気まぐれに指で突くだけで、小夜子の華奢な骨格は砕けるだろう。
 制御できるのか?
 この身に宿した悪魔も、小夜子を欲しがっているのだ。奴が小夜子に相対した時、彼女が無事で済まされる保証はどこにある?
(――だめだ……とても望めない。命よりも大切なんだぞ。僕のせいで、あの子を傷つけたらどうするんだッ)
 吸血鬼ヴァンパイアの身を今ほど呪ったことはなかった。小夜子とは生きる世界が違う。人間とは寿命も日々の糧も違う。戦いに身を置くルイと違って、平和な世界に生きている小夜子。一緒に外を歩くこともできない。他のVと違って、ルイは陽射しが弱点ではない。灰になることはないが、特別な現象が起きて人目を引かずにはいられない。いくら頑丈な躰を持っていても、当たり前のことができない。彼女を幸せにしてやれない。
 この呪われた血で、小夜子を穢すのか?
 日射しを愛する女性に、永遠の闇夜を生きようといえるのか? 子供を産ませてやれるのか?
 ルイは血を糧にしている。闇のなかでしか生きられない――永遠に。小夜子に、それを強いるというのか。
「とても望めない……」
 手遅れになる前に、手放さなければならないのかもしれない。彼女を危険な目にあわせるくらいなら、自分が死んだ方がマシだ。