PERFECT GOLDEN BLOOD
4章:黄金律の血 - 10 -
まる一日が経過した。
陽が昇り、射しこむ金色の光に雲が彩られる朝に、小夜子はルイの隣で目を醒ました。
「お早う、小夜子」
額にちゅっとキスをされて、小夜子は真っ赤になった。身体を起こすと、ルイも一緒に起きあがった。
「何か飲む? フレッシュジュース、紅茶、珈琲?」
「じゃあ、フレッシュジュース……」
「了解」
ルイは機嫌良さそうに返事すると、軽やかな足取りで歩いて部屋をでていった。昨夜は大怪我を負って、血を流していたはずなのだが、弱々しさは欠片もない。さすがはV、脅威の回復力を備えているらしい。血まみれの彼を見ていた小夜子は、元気な姿を見て心から安堵した。
間もなく、銀盆にジュースと料理を載せて、ルイは戻ってきた。果肉の浮いたフレッシュジュースを受け取りながら、小夜子はじっとルイを見つめた。
「ありがとうございます。ルイ、躰は平気?」
ルイはにっこりした。
「小夜子のおかげでね」
「良かった……」
「お腹は空いている?」
「あまり……」
腹を撫でながらいう小夜子を見て、ルイは案じる顔つきになった。
「ここ数日、まともに食べていないよね? 何か口に入れた方がいいはずだよ」
焼いたクロワッサンを少しちぎって、卵を上に載せて、小夜子の口元に運んだ。
「食べて」
小夜子が自分でパンをとろうとすると、ルイはその手を引いた。
「僕に食べさせて。手ずから食べてほしいんだ」
状況が判らず、小夜子はじっとルイの端正な顔を見つめた。彼の方も、月光のような銀色の瞳で小夜子をじっと見つめている。
「……小夜子、口を開けて」
小夜子は誘惑に屈し、おずおずと口を開いた。香ばしい味わいに、忽 ち心を奪われた。
「美味しい?」
「はい」
次は薔薇の香りのクリームブリュレをスプーンによそって、小夜子の口元に運ぶ。
これを少し、あれを少しと食べさせながら、彼は心の底から嬉しそうにほほえんでいる。その甘やかな眼差しに、小夜子の心臓は早鐘を打ち始めた。
「苺だよ。ほら、口をあけて」
唇についた雫を、ルイはひとさし指ですくって、自分の口に含んだ。
「ッ……」
甘すぎる。色んな意味で小夜子がお腹いっぱいになると、ルイは残った皿を全て平らげた。
「なんだか駄目な人間になりそう」
「どうして?」
「ルイにちやほやされすぎて、一人じゃ何もできなくなってしまいそう」
「そうなってほしいよ。僕がいないと生きていけないくらい、小夜子を愛したい。愛されたい」
小夜子は息をのみ、真っ赤になって俯いた。彼は本当に真っすぐに気持ちを伝えてくれる。小夜子の方は恥ずかしくて、なかなか言葉で返せないが、同じ気持ちだった。これから先も、彼とこんな風にして過ごしていきたい。
午後になると、小夜子はルイたちと共に地下へ降りて、ウルティマスの祭壇前に跪いた。
神を前に小夜子は恐れ畏 んだが、ルイは特に緊張していないようだった。
“おかえりなさい、小夜子”
小夜子は笑顔になり、お辞儀をした。
「ただいま戻りました。いただいた腕環が助けてくれました。本当にありがとうございました」
光の球体は、何度か明滅を繰り返した。その様子が、小夜子には鷹揚に頷いているように感じられた。
“大変な困難を、よく乗り越えましたね。そなたらの働きで、当面はナーディルニティも静かにしているでしょう”
神の労いの言葉に、ルイたちは厳かに頷いた。
“ですが、危険が去ったわけではありません。ルイと小夜子は、絆を結ぶ必要があります”
小夜子は即答しようとしたが、
「お待ちください」
と、ルイが遮った。
「僕たちに少し猶予をください。彼女には、僕の口から説明したい」
硬い口調でルイはいった。絆を結ぶというのがどんなものか判らないが、彼は躊躇っているのだろうか? 距離を置かれたように感じてしまい、小夜子は顔を俯けた。
ウルティマスはしばらく沈黙していたが、間もなく柔らかな光を発した。
“判りました”
ルイは安堵したように、深く呼吸をした。
Vたちは神と会話を続けていたが、小夜子の耳には届いていなかった。
先ほどのルイの返事を、心のなかで反芻していた。ルイと結ばれることに小夜子は一遍の躊躇もないが、ルイは違ったらしい。裏切られたような、苦々しい気持ちが胸に拡がる。だが、考えてみれば当然かもしれない。
彼ほどの輝かしい人が、無敵のVが、天に愛されている神の子が、絆を結ぶ相手に……もしかしたら、この先一生を過ごすような伴侶に、小夜子のような何の取り柄もない女子高生を選ぶだろうか?
両想いになれたと楽観的に思いこんでいたが……甘かったのだ。そもそも本当に両想いなのだろうか?
「小夜子? 部屋に戻ろう」
ルイに肩を引き寄せられ、小夜子は我に返った。ショックのあまり、放心していたらしい。力ない返事をする小夜子を、ルイはちらっと見たものの、黙って歩き始めた。
「部屋に戻ったら、話の続きをしよう。ちゃんと説明させて」
死刑宣告に聞こえて、小夜子はびくりと肩を震わせた。何をいうつもりだろう? もしかして、別れ話? まだ何も始まっていないのに?
小夜子は悲壮な顔で部屋に入った。半ば覚悟してソファーに座ると、ルイは隣に座り、いたわるように小夜子の手をとった。
「さて……絆を結ぶということだけど、どういうことか、判ってないよね?」
小夜子は無言で頷いた。
「先ず僕たちヴァンパイアは、小説や映画で描写されるような誕生の仕方はしないんだ。人間のように繁殖もしない」
小夜子は虚を衝かれた顔になった。じっとルイを見つめてしまう。彼は真剣な顔をしていた。
「……じゃあ、どうやって?」
「ウルティマスによって創られる。ただ、君の場合は例外で……神の秘儀により、同胞に迎えることになる。ただ、相応の対価を求められるよ」
「対価?」
「ウルティマスは天秤に例えられる神だ。何かを為す時に、必ず対価を必要とする。奪い、与えることを同時に行うんだ」
「……つまり?」
「君の身体に流れる黄金律の血は、僕と悪魔を同時に養い、力を与えてくれる。神の前で契約を結んだら、小夜子は庇護を受ける一方で、定期的に血をさしださなければいけなくなる……耐えられる?」
「はい」
小夜子は即答した。思ったほど怖くなかったし、むしろ甘美で心地良かったほどだ。
「制約は他にもある。小夜子は不死ではないけれど、不老になる。だから、世俗を切り捨てなければならない。家族と同じ時間を過ごせなくなるよ。小倉小夜子として歩んできた、人生の軌跡を捧げなくてはいけない」
「人生の軌跡?」
「家族、友人、顔見知りの人間、小夜子を知っている全ての人間の記憶から、永久に消え去るんだ。完全に赤の他人になる」
小夜子は言葉に詰まった。なぜ――そう思うが、理屈ではないのだろう。ルイを選ぶということは、そういうことなのだ。
蒼白になる小夜子を見て、ルイは宥めるように髪を撫でた。
「今すぐに決める必要はないよ。僕なら、いくらでも待てるから。小夜子は十分に考えて、答えをだしていいよ」
小夜子は傷ついたように、視線を半ば伏せた。彼の言葉が、小夜子への思い遣りからくるものだと判っていても、慎重に足踏みをするルイに落胆を感じてしまう。一にも二もなく賛成してくれるものだと信じていたのだ。
「最終的な決断をくだす前に、もっと僕たちのことを知ってほしい。小夜子にも、今の生活を見つめ直してほしい」
「……離さないって、いったのに」
泣きそうな顔で呟く小夜子を見て、ルイはほほえんだ。ちゅっと額にかわいらしいキスを落とす。
「離すつもりはないよ。ただ、聖婚を急ぐ必要はないというだけ。何度もいうけど、僕はいくらでも待てるから。だから、小夜子の人生を決めてしまう前に、もう少し自由を味わってほしんだ」
「……ルイは、私と絆を結ぶの、嫌?」
その声は、不安のあまり弱々しく掠れていた。ルイは小夜子の肩をぎゅっと抱きしめた。
「まさか! もちろん結びたいよ。ただね、聖婚を結ぶことで、小夜子の大切な青春を制限してしまうことが、忍びないんだ」
「……」
「忘れているようなら思いだしてほしんだけど、僕は何世紀も生きているからね。君より人生の経験値がちょっとばかり高いんだ」
小夜子はようやく顔をあげ、微笑みを浮かべた。
「そんな僕からのアドバイスだよ。堂々と陽のしたを歩けるということは、人間の特権なんだ。君を育んだ家族、親しい友人、慣れ親しんだ環境、街並み。そういった日常の貴さを、たくさん味わってほしんだ」
「ルイ……」
「僕の目には、今という貴さを、人はあまり感じずに生きているように見える。現代人は特にそうだ。自分がどれほど恵まれているか当たり前になってしまって、価値が判らなくなってしまっているんだ。もったいないことだよ。僕は一日でいいから、人間と躰を変わってほしいと思う。そうしたら、太陽のしたを小夜子と一緒に歩きたいよ」
小夜子は視界が潤むのを感じた。
「僕は小夜子を幸せにしたい。絆を結ぶことを前向きに考える一方で、僕と一緒になることで失うものがあることを、考えてほしんだ。家族との時間を大切にして、友人とたくさん遊んで、学校生活を楽しんでほしい」
「……」
「デジ・リュリュのプレスクールも始まっているよね。学んで損はないと思うよ。転化したあとでも、仕事をしたければ、在宅や委託といった雇用があるから、色々な可能性を検討してみるといい。もちろん僕も協力するから」
ルイは真っすぐに小夜子の瞳を見つめていった。
「これだけは判ってほしんだ。君を心から愛している。言葉ではいいあらわせないくらい、大切なんだ」
そういってルイは小夜子の瞳を覗きこみ、額や頬に唇を押し当てた。小夜子は、不安に波打つが心が凪いでいくのを感じた。好きという気持ちが先行してしまう小夜子より、彼は遥かに大人で、小夜子の未来を考えてくれている。
「だから、色々なものを与えたいんだ。僕にできることならなんでもしてあげる。陽のもとで暮らす生活だけは、あげることができないから……もうしばらく、今の生活を楽しんでほしい」
「……」
「もし、小夜子が人であることを選んだとしても、僕は小夜子の人生に寄り添いたいと思っているよ。種族は違っても、添い遂げることはできる」
迷子になったような顔でルイをじっと見つめる小夜子の頭を、ルイは優しく撫でた。
「もちろん、最終的に小夜子が血族になると決めたのなら、喜んで受け入れるよ。色々な選択肢があるということを知った上で、小夜子には決めてほしいんだ。ね?」
小夜子は逡巡し、頷いた。
「……判りました。ルイがそういうのなら、よく考えてみます」
「いい子だ」
ルイは小夜子を抱きしめ、髪にキスをしながら、あやすように身体を揺らした。小夜子もようやく強張りをほどいで、くすぐったさに声をあげて笑った。
+
二週間後。
世界は平穏を取り戻していた。
力を消耗した女王は身をひそめ、彼女の企みで地上に放たれた食屍鬼 たちも、ルイたち、そして教団により秘密裡に処された。
地球に暮らす人間たちは、自分たちの世界が崩壊寸前の危機に陥りかけていたなど微塵も感知せず、それぞれの日常を送っている。
小夜子は、正式に美しい館 に引っ越した。
切妻屋根から銀色の月が昇る頃、小夜子の歓迎会が催された。
天井には水晶を垂らした円環の燭台が吊るされ、天上は淡い青と珊瑚色を基調とした、幾何学模様で彩られている。
美しい広間では、世にも美しい、星の如し正装姿のVたちが、談笑している。
白い漆喰の壁の奥に、カウンターがあり、ルイと千尋、アラスターが歓談をしていた。ルイとアラスターは黒いジャケットを羽織って、千尋は藍紫の着物をきている。
テーブルには高価そうなウィスキーボトル。彼等が煙草を片手に、紫煙をくゆるらせる姿は、艶めかしくエロチックだった。
「よくきてくれたわね、小夜子」
乾杯のあとに、千尋がにこやかにいった。小夜子がほほみ返すと、アラスターがにやにやしながら続けた。
「さっさと、ルイと結ばれろよ」
「アラスター!」
と、ルイが叱るようにいう。
「ま、楽しくなりそうだよね」
ヴィエルが笑った。アンブローズは相変わらずの無言だが、席についてくれているだけでも、小夜子は嬉しかった。
楽しそうな様子の彼等を眺めながら、小夜子は、隣にいるルイに身を寄せて、
「好きですよ、ルイ」
そっと囁いた。目を丸くするルイを見て、朱くなりながらほほえむ。
「貴方はいつも言葉を惜しまないから、私もなるべく伝えようと思って。それに、お嫁さんにしてくださいって、説得もしないといけないから」
ルイは破顔すると、小夜子をぎゅっと抱きしめた。
「ようこそ、美しい館 へ。僕の小夜子。僕の花嫁 ……」
抱きしめたまま、左右にゆする。少し顔を離すと、愛おしそうに小夜子の瞳を見つめた。深い愛情と、崇敬の想いがこめられていた。
美貌がゆっくりおりてきて、小夜子は頬を染めながら瞳を閉じた。
ルイへの想いを噛み締めながら、これからの日々に思いを馳せた。賑やかで、刺激的な毎日が始まるのだろう。間違いない。
陽が昇り、射しこむ金色の光に雲が彩られる朝に、小夜子はルイの隣で目を醒ました。
「お早う、小夜子」
額にちゅっとキスをされて、小夜子は真っ赤になった。身体を起こすと、ルイも一緒に起きあがった。
「何か飲む? フレッシュジュース、紅茶、珈琲?」
「じゃあ、フレッシュジュース……」
「了解」
ルイは機嫌良さそうに返事すると、軽やかな足取りで歩いて部屋をでていった。昨夜は大怪我を負って、血を流していたはずなのだが、弱々しさは欠片もない。さすがはV、脅威の回復力を備えているらしい。血まみれの彼を見ていた小夜子は、元気な姿を見て心から安堵した。
間もなく、銀盆にジュースと料理を載せて、ルイは戻ってきた。果肉の浮いたフレッシュジュースを受け取りながら、小夜子はじっとルイを見つめた。
「ありがとうございます。ルイ、躰は平気?」
ルイはにっこりした。
「小夜子のおかげでね」
「良かった……」
「お腹は空いている?」
「あまり……」
腹を撫でながらいう小夜子を見て、ルイは案じる顔つきになった。
「ここ数日、まともに食べていないよね? 何か口に入れた方がいいはずだよ」
焼いたクロワッサンを少しちぎって、卵を上に載せて、小夜子の口元に運んだ。
「食べて」
小夜子が自分でパンをとろうとすると、ルイはその手を引いた。
「僕に食べさせて。手ずから食べてほしいんだ」
状況が判らず、小夜子はじっとルイの端正な顔を見つめた。彼の方も、月光のような銀色の瞳で小夜子をじっと見つめている。
「……小夜子、口を開けて」
小夜子は誘惑に屈し、おずおずと口を開いた。香ばしい味わいに、
「美味しい?」
「はい」
次は薔薇の香りのクリームブリュレをスプーンによそって、小夜子の口元に運ぶ。
これを少し、あれを少しと食べさせながら、彼は心の底から嬉しそうにほほえんでいる。その甘やかな眼差しに、小夜子の心臓は早鐘を打ち始めた。
「苺だよ。ほら、口をあけて」
唇についた雫を、ルイはひとさし指ですくって、自分の口に含んだ。
「ッ……」
甘すぎる。色んな意味で小夜子がお腹いっぱいになると、ルイは残った皿を全て平らげた。
「なんだか駄目な人間になりそう」
「どうして?」
「ルイにちやほやされすぎて、一人じゃ何もできなくなってしまいそう」
「そうなってほしいよ。僕がいないと生きていけないくらい、小夜子を愛したい。愛されたい」
小夜子は息をのみ、真っ赤になって俯いた。彼は本当に真っすぐに気持ちを伝えてくれる。小夜子の方は恥ずかしくて、なかなか言葉で返せないが、同じ気持ちだった。これから先も、彼とこんな風にして過ごしていきたい。
午後になると、小夜子はルイたちと共に地下へ降りて、ウルティマスの祭壇前に跪いた。
神を前に小夜子は恐れ
“おかえりなさい、小夜子”
小夜子は笑顔になり、お辞儀をした。
「ただいま戻りました。いただいた腕環が助けてくれました。本当にありがとうございました」
光の球体は、何度か明滅を繰り返した。その様子が、小夜子には鷹揚に頷いているように感じられた。
“大変な困難を、よく乗り越えましたね。そなたらの働きで、当面はナーディルニティも静かにしているでしょう”
神の労いの言葉に、ルイたちは厳かに頷いた。
“ですが、危険が去ったわけではありません。ルイと小夜子は、絆を結ぶ必要があります”
小夜子は即答しようとしたが、
「お待ちください」
と、ルイが遮った。
「僕たちに少し猶予をください。彼女には、僕の口から説明したい」
硬い口調でルイはいった。絆を結ぶというのがどんなものか判らないが、彼は躊躇っているのだろうか? 距離を置かれたように感じてしまい、小夜子は顔を俯けた。
ウルティマスはしばらく沈黙していたが、間もなく柔らかな光を発した。
“判りました”
ルイは安堵したように、深く呼吸をした。
Vたちは神と会話を続けていたが、小夜子の耳には届いていなかった。
先ほどのルイの返事を、心のなかで反芻していた。ルイと結ばれることに小夜子は一遍の躊躇もないが、ルイは違ったらしい。裏切られたような、苦々しい気持ちが胸に拡がる。だが、考えてみれば当然かもしれない。
彼ほどの輝かしい人が、無敵のVが、天に愛されている神の子が、絆を結ぶ相手に……もしかしたら、この先一生を過ごすような伴侶に、小夜子のような何の取り柄もない女子高生を選ぶだろうか?
両想いになれたと楽観的に思いこんでいたが……甘かったのだ。そもそも本当に両想いなのだろうか?
「小夜子? 部屋に戻ろう」
ルイに肩を引き寄せられ、小夜子は我に返った。ショックのあまり、放心していたらしい。力ない返事をする小夜子を、ルイはちらっと見たものの、黙って歩き始めた。
「部屋に戻ったら、話の続きをしよう。ちゃんと説明させて」
死刑宣告に聞こえて、小夜子はびくりと肩を震わせた。何をいうつもりだろう? もしかして、別れ話? まだ何も始まっていないのに?
小夜子は悲壮な顔で部屋に入った。半ば覚悟してソファーに座ると、ルイは隣に座り、いたわるように小夜子の手をとった。
「さて……絆を結ぶということだけど、どういうことか、判ってないよね?」
小夜子は無言で頷いた。
「先ず僕たちヴァンパイアは、小説や映画で描写されるような誕生の仕方はしないんだ。人間のように繁殖もしない」
小夜子は虚を衝かれた顔になった。じっとルイを見つめてしまう。彼は真剣な顔をしていた。
「……じゃあ、どうやって?」
「ウルティマスによって創られる。ただ、君の場合は例外で……神の秘儀により、同胞に迎えることになる。ただ、相応の対価を求められるよ」
「対価?」
「ウルティマスは天秤に例えられる神だ。何かを為す時に、必ず対価を必要とする。奪い、与えることを同時に行うんだ」
「……つまり?」
「君の身体に流れる黄金律の血は、僕と悪魔を同時に養い、力を与えてくれる。神の前で契約を結んだら、小夜子は庇護を受ける一方で、定期的に血をさしださなければいけなくなる……耐えられる?」
「はい」
小夜子は即答した。思ったほど怖くなかったし、むしろ甘美で心地良かったほどだ。
「制約は他にもある。小夜子は不死ではないけれど、不老になる。だから、世俗を切り捨てなければならない。家族と同じ時間を過ごせなくなるよ。小倉小夜子として歩んできた、人生の軌跡を捧げなくてはいけない」
「人生の軌跡?」
「家族、友人、顔見知りの人間、小夜子を知っている全ての人間の記憶から、永久に消え去るんだ。完全に赤の他人になる」
小夜子は言葉に詰まった。なぜ――そう思うが、理屈ではないのだろう。ルイを選ぶということは、そういうことなのだ。
蒼白になる小夜子を見て、ルイは宥めるように髪を撫でた。
「今すぐに決める必要はないよ。僕なら、いくらでも待てるから。小夜子は十分に考えて、答えをだしていいよ」
小夜子は傷ついたように、視線を半ば伏せた。彼の言葉が、小夜子への思い遣りからくるものだと判っていても、慎重に足踏みをするルイに落胆を感じてしまう。一にも二もなく賛成してくれるものだと信じていたのだ。
「最終的な決断をくだす前に、もっと僕たちのことを知ってほしい。小夜子にも、今の生活を見つめ直してほしい」
「……離さないって、いったのに」
泣きそうな顔で呟く小夜子を見て、ルイはほほえんだ。ちゅっと額にかわいらしいキスを落とす。
「離すつもりはないよ。ただ、聖婚を急ぐ必要はないというだけ。何度もいうけど、僕はいくらでも待てるから。だから、小夜子の人生を決めてしまう前に、もう少し自由を味わってほしんだ」
「……ルイは、私と絆を結ぶの、嫌?」
その声は、不安のあまり弱々しく掠れていた。ルイは小夜子の肩をぎゅっと抱きしめた。
「まさか! もちろん結びたいよ。ただね、聖婚を結ぶことで、小夜子の大切な青春を制限してしまうことが、忍びないんだ」
「……」
「忘れているようなら思いだしてほしんだけど、僕は何世紀も生きているからね。君より人生の経験値がちょっとばかり高いんだ」
小夜子はようやく顔をあげ、微笑みを浮かべた。
「そんな僕からのアドバイスだよ。堂々と陽のしたを歩けるということは、人間の特権なんだ。君を育んだ家族、親しい友人、慣れ親しんだ環境、街並み。そういった日常の貴さを、たくさん味わってほしんだ」
「ルイ……」
「僕の目には、今という貴さを、人はあまり感じずに生きているように見える。現代人は特にそうだ。自分がどれほど恵まれているか当たり前になってしまって、価値が判らなくなってしまっているんだ。もったいないことだよ。僕は一日でいいから、人間と躰を変わってほしいと思う。そうしたら、太陽のしたを小夜子と一緒に歩きたいよ」
小夜子は視界が潤むのを感じた。
「僕は小夜子を幸せにしたい。絆を結ぶことを前向きに考える一方で、僕と一緒になることで失うものがあることを、考えてほしんだ。家族との時間を大切にして、友人とたくさん遊んで、学校生活を楽しんでほしい」
「……」
「デジ・リュリュのプレスクールも始まっているよね。学んで損はないと思うよ。転化したあとでも、仕事をしたければ、在宅や委託といった雇用があるから、色々な可能性を検討してみるといい。もちろん僕も協力するから」
ルイは真っすぐに小夜子の瞳を見つめていった。
「これだけは判ってほしんだ。君を心から愛している。言葉ではいいあらわせないくらい、大切なんだ」
そういってルイは小夜子の瞳を覗きこみ、額や頬に唇を押し当てた。小夜子は、不安に波打つが心が凪いでいくのを感じた。好きという気持ちが先行してしまう小夜子より、彼は遥かに大人で、小夜子の未来を考えてくれている。
「だから、色々なものを与えたいんだ。僕にできることならなんでもしてあげる。陽のもとで暮らす生活だけは、あげることができないから……もうしばらく、今の生活を楽しんでほしい」
「……」
「もし、小夜子が人であることを選んだとしても、僕は小夜子の人生に寄り添いたいと思っているよ。種族は違っても、添い遂げることはできる」
迷子になったような顔でルイをじっと見つめる小夜子の頭を、ルイは優しく撫でた。
「もちろん、最終的に小夜子が血族になると決めたのなら、喜んで受け入れるよ。色々な選択肢があるということを知った上で、小夜子には決めてほしいんだ。ね?」
小夜子は逡巡し、頷いた。
「……判りました。ルイがそういうのなら、よく考えてみます」
「いい子だ」
ルイは小夜子を抱きしめ、髪にキスをしながら、あやすように身体を揺らした。小夜子もようやく強張りをほどいで、くすぐったさに声をあげて笑った。
+
二週間後。
世界は平穏を取り戻していた。
力を消耗した女王は身をひそめ、彼女の企みで地上に放たれた
地球に暮らす人間たちは、自分たちの世界が崩壊寸前の危機に陥りかけていたなど微塵も感知せず、それぞれの日常を送っている。
小夜子は、正式に
切妻屋根から銀色の月が昇る頃、小夜子の歓迎会が催された。
天井には水晶を垂らした円環の燭台が吊るされ、天上は淡い青と珊瑚色を基調とした、幾何学模様で彩られている。
美しい広間では、世にも美しい、星の如し正装姿のVたちが、談笑している。
白い漆喰の壁の奥に、カウンターがあり、ルイと千尋、アラスターが歓談をしていた。ルイとアラスターは黒いジャケットを羽織って、千尋は藍紫の着物をきている。
テーブルには高価そうなウィスキーボトル。彼等が煙草を片手に、紫煙をくゆるらせる姿は、艶めかしくエロチックだった。
「よくきてくれたわね、小夜子」
乾杯のあとに、千尋がにこやかにいった。小夜子がほほみ返すと、アラスターがにやにやしながら続けた。
「さっさと、ルイと結ばれろよ」
「アラスター!」
と、ルイが叱るようにいう。
「ま、楽しくなりそうだよね」
ヴィエルが笑った。アンブローズは相変わらずの無言だが、席についてくれているだけでも、小夜子は嬉しかった。
楽しそうな様子の彼等を眺めながら、小夜子は、隣にいるルイに身を寄せて、
「好きですよ、ルイ」
そっと囁いた。目を丸くするルイを見て、朱くなりながらほほえむ。
「貴方はいつも言葉を惜しまないから、私もなるべく伝えようと思って。それに、お嫁さんにしてくださいって、説得もしないといけないから」
ルイは破顔すると、小夜子をぎゅっと抱きしめた。
「ようこそ、
抱きしめたまま、左右にゆする。少し顔を離すと、愛おしそうに小夜子の瞳を見つめた。深い愛情と、崇敬の想いがこめられていた。
美貌がゆっくりおりてきて、小夜子は頬を染めながら瞳を閉じた。
ルイへの想いを噛み締めながら、これからの日々に思いを馳せた。賑やかで、刺激的な毎日が始まるのだろう。間違いない。