PERFECT GOLDEN BLOOD

4章:黄金律の血 - 8 -

「血の渇き?」
 小夜子は困惑して訊ねた。
「Vにとって血は日々の糧なんだ。特にルイは――」
 アラスターは途中で言葉を切った。痙攣を起こし始めたルイの腕を押さえる。ルイの呼吸は乱れて、弱弱しく、手足の先や唇がチアノーゼを起こし始め、目の周囲やこめかみに、静脈が透けて見えていた。
「ルイッ」
 小夜子は涙のいりまじった声で呼んだ。ルイに縋りつきたかったが、救急処置をするヴィエルに場所を譲った。彼はルイの傍らに跪き、首筋に指を添えて脈を測っている。
「搏動が弱すぎる」
 ヴィエルは深刻げに呟くと、鞄から注射器をとりだし、正確な手つきで特殊調合されたnalophineを投与した。その効果は劇的で、ルイの容態はたちまち落ち着きを取り戻した。
「ルイは大丈夫なんですか?」
 応急処置を終えたヴィエルは、心配でたまらないといった顔の小夜子を振り仰ぎ、
「これは一時凌ぎだ。戻って適切な処置をしなければ、彼の命が危ない」
 訴えるようにいった。
「適切な処置って?」
「小夜子の血が必要だ」
「ッ、判りました」
 おののきつつ、小夜子は即答した。
「ともかく邸に戻りましょう。早くしないと、夜が明けてしまうわ」
 千尋の言葉に、全員が空を見た。地平線が仄かな朱に染まり、光の矢が大地から暗闇を追いやっていく。
 アラスターは小夜子の前に立つと、抱きあげるぞ、と宣言してから横抱きにもちあげた。
「きゃっ……」
 小夜子は全身を強張らせたが、ぎこちなくアラスターの肩に手を置いた。しかし、シャツの下の鋼のような筋肉が掌にダイレクトに伝わってきて、余計に落ち着かない。恥ずかしくて目をあわせられない。彼の端正な顔がすぐ傍にあるのだ。
「一気に東京まで飛ぶから。目をつむってな」
「ッ、はい」
 いわれた通りに、小夜子はぎゅっと目をつむった。高所から落下する時のような、腹のあたりがスッと冷える感覚に見舞われ、思わずアラスターの首に両腕を回してしがみついた。
 一瞬の浮遊感のあと、アラスターに腰を支えられながら地面におろされた。目を開けると、驚くべきことに景色は一変していた。蒼古な美しい館ベル・サーラに戻ってきたのだ。
 と、威嚇するような唸り声が聞こえた。小夜子が振り向くと、アンブローズとヴィエルに左右から支えられているルイと目が遭った。一瞬、睨まれているのかと身構えたが、彼は小夜子の腰を支えているアラスターを睨みつけていた。
「そう怒るなよ。運んでやっただけだ」
 アラスターは降参するように両腕をあげてみせた。小夜子はぺこっとお辞儀をして、アラスターに礼をいう。
「治療室に連れていくよ」
 ヴィエルはそういって、ルイを引っ張ろうとしたが、彼は抵抗してみせた。ところが小夜子が傍によると、ピリピリしていたルイの表情が和らいだ。
「小夜子も付き添ってやってくれ」
 アラスターにいわれて、小夜子は力強く頷いた。小夜子が傍にいるせいか、ルイはそれ以上は暴れようとせず、おとなしく地下にある治療室へ運ばれた。
「小夜子はそとで待っていて」
 ヴィエルにいわれて小夜子は廊下へでた。待っている間、治療室からルイの苦痛に満ちた唸り声が聴こえてきて、生きた心地がしなかった。どうにかしてあげたいのに、何もできず、祈ることしかできないことがもどかしい。
「小夜子」
 アラスターに呼ばれて、はっと小夜子は涙に濡れた顔をあげた。
「悪い、手伝ってくれるか?」
「はいっ!」
 小夜子は立ちあがり、彼のうしろに続いて部屋に入り、絶句した。
 頑丈そうな治療椅子の上で、ルイは四肢を椅子の手すりと脚に結ばれ、拘束されていた。
「酷い」
 思わずつぶやく小夜子を、アンブローズは冴えた瞳で見下ろした。
「ルイがそうしろといったのです。そうでもしないと、部屋を飛びだして小夜子に襲いかかるからと」
「そんな」
 ルイの瞳は爛とかがやき、異妖なほどだった。無表情だが、視線は小夜子だけを捕らえている。射抜くような視線の強さだ。だが、不思議と小夜子は怖いとは思わなかった。
「……ルイ?」
 彼は、黙っている。だが小夜子が近づいてくることを、待ち望んでいるように見えた。
 いよいよ目の前に立つと、小夜子は躊躇いながら腕を伸ばした。そっと頬に触れると、ルイは掌に頬を押し当て、瞼を閉じた。
「……小夜子」
 再び目を開いた時、瞳の異妖な光は和らぎ、銀色の優しさが戻っていた。
「ここにきてはいけないよ」
「貴方が苦しんでいると聞いたから」
「無様なところを見せてしまったね。心配しないで、ちゃんと打ち克ってみせる。すぐに君の傍にいけるよ」
「……私の血を飲めば楽になりますか?」
 ルイは困惑を顔に浮かべて、アラスターを睨みつけた。
「なんで、小夜子を連れてきた」
「必要だからだ」
 ルイは低い唸り声を発した。
「余計なことをするな!」
 空気を震わせるような大喝。小夜子は怖かったが、勇気をだして襟に手をかけた。ルイはぎょっとしたように小夜子を見た。
「何してる?」
「……血を吸う時って、首から?」
「やめろ」
 いつになく強い口調に、小夜子は少し怯んだ。だが、躊躇いつつボタンを外す。素肌が覗くと、ルイは舌打ちをしてアラスターを見た。
「小夜子を連れてでていけ!」
 アラスターは動かない。
「くそッ」
 ルイは四肢に力をこめて、戒めを外そうともがいた。硬質な音が鳴ったが、彼の自由は奪われたままだ。小夜子が恥じ入るようにシャツを脱ごうとすると、ルイは悪態をついた。
「アラスター、小夜子を連れていってくれ!」
「断る。彼女の血をもらえ」
「ちきしょう」
 ルイは小夜子の露わになった首筋を見つめて、喉を鳴らした。瞳孔が縦長になり、虹彩に金の粒子が散った。
「あぁ、小夜子……頼むから僕から離れて……堪えられそうにない……っ」
「嫌です」
 小夜子がシャツを脱ぐと、ルイはアラスターに方に顔を向けて、威嚇するように牙を見せて唸った。
「彼女を見るなッ」
 無粋と感じたのか、アラスターたちは背を向けた。
「外にいる。小夜子、何かあれば声にだせ」
 そのまま部屋の外へでていった。小夜子は髪を右側に流して、首を傾けた。
「血を飲んでくれますか?」
 ルイは苦悶に歪んだ表情で呻いた。
「やめよう、小夜子。本当に危険なんだ。僕が牙を立てて、君が無事でいられるとは思えない」
「怖いけれど、貴方が私を傷つけるとは、どうしでも思えないんです。貴方がどんなふうになったとしても」
「全く根拠のない希望的観測だ。君は知らないから、呑気にそんなことがいえるんだよ」
 小夜子は手を胸の前で重ねて、すがるようにいった。
「私は、ルイを助けたいんです」
「ありがたいけど、僕は一人で対処できる。この状況の方が、責め苦だ」
「そんなに大怪我をしたのは、私のせいなんですよね? 私の血を飲んで、少しでも楽になるなら、飲んでくださいっ」
 ルイが苦しげにうめく。小夜子は思いきってルイに跨り、頬を両手で包みこんだ。
「私なら大丈夫だから。吸って」
 銀色の瞳に渇望が燃えあがる。紫のいりまじった輝きを見て、小夜子は決心が鈍らぬうちに自ら首を露わにし、彼の口元に近づけた。吐息が首に触れると、本能的に仰け反りそうになったが、意志の力でねじ伏せた。それでも彼がなかなか行動に移らないので、恐怖と焦りが募る。
「ッ、早く、吸ってください」
「……ごめん」
 ルイは観念したように呟いた。
 いよいよ小夜子は身構えたが、啄むように首筋に何度もキスされるうちに、身体の強張りは自然とほどけていった。
(いい感じ……大丈夫、リラックス……ルイを助けるためよ)
 次の瞬間、ちくりとした痛みが走った。
「んっ……」
 未知の体験だった。痛みは一瞬で、すぐに蕩けるような感覚に襲われた。押し寄せる波に翻弄されて、小夜子はルイにしがみついた。
 えもいわれぬ恍惚感のなか、何もかもが明瞭に感じられた。
 ルイの体温、鼓動、皮膚の下の硬い筋肉、その身体に流れる血の息吹。宙を舞う塵までも、くっきりと視界に捕らえることができた。
「ん、ぁ……っ」
 あえかな声が唇から漏れた。血を吸われるたびに、君は僕のものだ――そういわれているような気がする。心にも体にも、ルイの印を刻まれているように感じられた。
 牙を立てながら、ルイもまた驚いていた。
 薔薇のように香る血が、灼熱のように臓腑を炙る。なんと甘美な味わいであることか。砂漠すなはらで一滴の水に餓える遭難者になった気分だった。これほど渇望を掻き立てられる血は、これまでに味わったことがない。
 血を飲むごとに、強烈な感情が迸る……彼女の全てが欲しい。ありとあらゆる方法で自分のものにしたい。華奢な身体を組み敷き、唇を味わい、身体中にキスをして、舌で味わい、全てを暴いて、貫き、全身に自分のものだという痕を残したい。
(僕のものだ)
 全身を駆け巡る血流を感じながら、恐ろしいまでの欲望に支配されていた。鎖が悲鳴をあげる。四肢の戒めがなければ、とっくに小夜子を組み敷いていただろう。
(――だめだ。これ以上吸ってはいけない)
 腰を押しつけないよう、理性を総動員しているが、そろそろ危うい。下半身の際どい昂りに気がついたら、初心で臆病な小夜子は震えあがるだろう。
 ルイはそっと口を離した。牙が抜ける瞬間、小夜子が甘い息を吐いて、下腹部を刺激した。が、どうにかやり過ごした。
「……ありがとう。助かったよ」
 欲望に忠実な悪魔はもっと欲しいと囁いているが、それは小夜子に危害が及ばない範囲での、どこか甘えた感情だった。
(これ以上はだめだ)
 ルイが強く思えば、悪魔も残念そうにしつつ、大人しく引き下がった。全くもって意外だが、危惧していたような暴走の気配はなかった。それどころか、過去最高に制御できていたといっていい。
「大丈夫?」
 しっとり汗ばんだこめかみにキスをすると、小夜子は我に返ったように、ぱっと身を起こした。真っ赤な顔をしている彼女は、金粉の舞うような光をまとっていた。
「ごめん、結構吸っちゃったけど、気分はどう?」
「平気です」
 そういって小夜子は、弱々しい動作で椅子からおりると、シャツの釦を留めようとし、己からこぼれでる光に気づいて動きを止めた。
「……大丈夫、一時的なものだよ。すぐに消える」
「ルイも、きらきらしている」
 ルイはほほえんだ。
「黄金律の血を飲むと、こうなるんだ。ほら、釦をちゃんと留めて」
 ルイが指摘すると、小夜子は思いだしたように手の動きを再開した。きっちり上まで釦を留めるのを見届けてから、ルイは頷いた。
「……本当にありがとう、小夜子は僕の命の恩人だ」
 ルイは、小夜子の目を見つめていった。すると彼女は、照れたように視線をそらした。さっきは野獣化しかけていたルイを恐れることなく、堂々と接していたのに、もういつもの小夜子に戻っている。いじらしくて、かわいらしくて、賞賛に価する勇気を秘めた女性。思い切り抱きしめてキスしたい衝動に駆られたが、理性を呼び戻して、扉に目を向けた。
「アラスターたちを呼んでくれる?」
「はい」
 小夜子が扉を開けると、廊下の壁にもたれていた男たちが一斉に視線を向けてきた。きらきら、光の粒子が瞬くのを見て驚いている。何をしていたのか一目瞭然だと思い、小夜子は羞恥に顔を伏せた。
「終わったのか?」
 アラスターが真面目な顔で訊いてくるので、小夜子は慌てて頷いた。
「はい、終わりました。ルイが呼んでいます」
 彼等はなかへ入ると、ルイを見てほっとしたような表情を浮かべた。アラスターはすぐに悪戯っぽい顔つきになり、身動きのできないルイをからかった。
「いい趣味だな」
「煩いよ、早く解けよ」
 ルイがうんざりしたように命じると、彼等は笑いつつも強固な鎖を一つ一つ外していった。自由を取り戻すと、ため息をついて、小夜子を見つめた。
「ありがとう、小夜子。部屋に戻ろうか」
 ルイは憔悴した声でいった。ぐったりして見えるが、銀色の眼差しはとろりと甘く、満足しているようだった。