異海の霊火

2章:グロテスク - 10 -

 その日の晩、愛海は迷った末に、医務室での出来事をジンシンスに話して聞かせた。理非善悪りひぜんあくただしてほしい。哀願の眼差しを向ける愛海を見下ろし、彼は数秒ほど黙考した後、では尋問してみるかと頷いた。
 有言実行のひとである。その後すぐに、応接間にゴッサムを呼んだ。
 相変わらずの平坦な表情で顕れた少年を見て、愛海の方が緊張に強張った。
「悪いな、呼びだして。単刀直入に訊くが、強姦されたというのは本当か?」
 あまりにも直球すぎる。愛海は卒倒しそうになったが、そっとゴッサムの顔色を窺うと、なんの痛痒も感じていなさそうに見えた。
「尻を怪我したそうだが、誰にやられた?」
 沈黙。
 待てども少年が答えようとしないので、愛海はやきもきした。無表情がいっそ、ふてぶてしく見える。これは無言の抗議であり、感情の剥落した表情の裏に、実は仏頂面を隠しているのだろうか?
「お前は腕が立つだろう。気に喰わない相手なら、ぶちのめせるはずだ。そうしなかった理由はなんだ?」
 それでもゴッサムが何もいわないので、愛海はとうとう我慢できずに、一歩前に進みでた。
「ゴッサムさん。僕が口だしできることじゃないけど、船長にいえばきっと助けてくれますよ」
 それでもゴッサムは、表情一つ変えずに、何もいわなかった。彼が何を思い、沈黙を貫いているのか、愛海には理解不能だった。
 膠着した沈黙が流れたあと、ジンシンスは小さくため息をはいた。
「もういい、さがれ」
 ゴッサムは無言でお辞儀をすると、背を向けた。愛海は素早く少年とジンシンスの顔を見比べたが、どうにもならなかった。やがて扉のしまる音が聴こえると、正体不明の敗北感に見舞われ、力なく肩を落とすしかなかった。
「……どうして、何もいってくれないのでしょうか」
 医者には自ら診てもらいにきたのに、なぜ、事情を話そうとしないのだろう? 萎縮しているから? それとも報復を恐れている?
 相手が誰であれ、ジンシンスならきっと解決してくれる。彼をジンシンスに引きあわせさえすれば、どうにかなると思っていた。それなのに、貝のようにとざしてしまうなんて、救済を自ら放棄しているとしか思えない。
 しかし――いえない心境――というものには愛海も覚えがある。
 だからこそ、あの少年が同じ轍を踏んでいるかもしれないと疑問に思うと、もどかしくてたまらなくなる。
「肉体より、心の方が壊れていそうだな。愛海が想像しているような苦痛を感じていないかもしれないぞ」
 大きな手が、ぽんと愛海の頭に置かれた。
「そんな……」
「シドも話していたが、あいつは心の疾病しっぺいを患っている。少なくとも、分裂症と暴力癖があるようだ。普段表にでているのは無痛・・担当で、攻撃する際は、他の人格に変わるらしい」
「多重人格なんですか?」
 愛海は驚いたように訊ねた。
「そう見える。前に食堂で流血沙汰を起こした時とは、まるで別人だ」
 そんなことがあったのか、と愛海は内心で驚く。
「でも、それじゃあ……虐待している人は、ゴッサムさんより強いのかも」
「いや、ゴッサムは人間にしては・・・・・・強い。この船のなかでは一、二を争うかもしれん」
「そんなに?」
「ああ」
 黙りこむ愛海を見て、ジンシンスは結論を告げた。
「ゴッサムが何を考えているのかは知らないが、強姦が事実なら、犯人はしかるべき罰を受けなければならない」
 彼もシドも冷静だ、と愛海は思う。当事者であるゴッサムもあの調子で、愛海ばかりが熱くなり、徒労している気がしてしまう。
 けれども、慰めるように頭を撫でられると、不貞腐れている己が子供に思えて、愛海は反駁はんばくを控えて頷いた。
 翌朝、ジンシンスは約した通り、甲板に船員を集めて宣告した。
「先日、この船で若年者を強姦した奴がいると報告を受けた。合意の上でなら、お前らがどんな趣味に走ろうが構わないが、そうでないなら見過ごせない。順番に面談を行うから、喚ばれたやつは応接間にこい」
 甲板はざわめいた。
 強姦という言葉に、ひとりの男に視線が集中する。甲板長のグスタフだ。児童強姦殺害の罪で死刑囚の烙印を押された男で、航海中も何度か流血沙汰を起こしている。
 しかし、視線が集中しても、彼は鷹揚に肩をすくめるだけだった。
「いっておくが、俺じゃねぇぞ」
 当然というべきか、彼は嫌疑を否定した。
 しかし、面談はグスタフから始まった。人払いした応接間に、ジンシンスとシド、そしてグスタフが呼ばれた。
「服を脱げ」
 ジンシンスが命じると、グスタフは当惑と憤懣ふんまんをさっと顔にのぼらせた。
「なぜです?」
「強姦の痕跡を調べるのさ。互いに不快なのだから、さっさと終わらせよう。早く脱げ」
「俺はやってねぇ!」
 屈辱をおぼえるかのように、紅い眸が怒りで光る。
「身の潔白を晴らす為だよ。強姦した相手には、性病の疑いがある。悪いが確かめさせてもらうよ」
 シドが穏やかにいうと、グスタフは渋々脱ぎ始めた。
 全裸になった彼の下半身を、シドが検める。ゴッサムの肛門に潰瘍の跡が見られたので、強姦した犯人から性病を移された可能性があるのだ。
 しかし、グスタフの性器に潰瘍かいようは見られなかった。馬鈴薯ばれいしょのような陰嚢いんのう、だらんと垂れた陰茎、大きくて艶のある亀頭にも、性病の兆候は見られない。
 少年が抗ったとすれば痕跡があるはずの裂傷や打撲も、グスタフのたくましい四肢のどこにも見つけられなかった。黒い体毛と刺青に覆われているばかりで、擦り傷もない。
 それでいったん、彼に対する嫌疑は保留になった。
 船員の面談は数日かけて行われることになったが、その間にグスタフが私刑で殺されかねないため、身の安全のために独房に入れることになった。
 彼は讒訴ざんそするような真似はしなかったが、何度質問されても、身の潔白をきっぱりと主張した。
 一連の騒動に責任を感じている愛海は、給仕の手伝いを申し出た。ジンシンスはあまりいい顔はしなかったが、愛海の意を汲んで、昼だけならと承諾した。
 それで、愛海が食事をグスタフの独房に運んでいくと、彼は扉の窓のところまでやってきた。
「俺をここからだせ。強姦なんてしていない」
「……船長に相談してください」
 愛海が答えると、グスタフは鼻で笑った。
「告げ口魔め。お前のせいで、やってもいない罪で牢に囚われの身ときた」
 言葉の刃がぐさりと愛海に突き刺さる。他の船員からも、今回の件で陰口を叩かれていることは知っていた。正しいことをしているつもりでも、船員の目に愛海は、なんでもかんでも船長に話す厭な奴と映っているのだ。彼等に好かれたいとは思わないが、嫌悪を向けられるのはやはり辛い。
 目を伏せる愛海を、グスタフは底意地の悪い目で見つめた。
「お前、女だろう」
 愛海の顔から、血がさっと退いた。
 紅く濁った瞳が、愛海の表情の変化を注意深く見つめている。
 すぐに否定すれば良かったのかもしれない。けれども今この瞬間、どんな言い訳も思い浮かばなかった。
 とうとう知られてしまった――よりによってこんな奴に――絶望の念に浸されて、胸底で心臓が跳ね狂いだす。
「はじめて見た時から、そうじゃないかと思ったんだ。やっぱり女なんだな」
「……どうして」
 掠れた声で訊ねる愛海を見て、グスタフは鼻で嗤った。
「へっ、匂いで判る。ここをでたら、真っ先にお前を犯してやるよ。覚えていろよ、この御礼はたっぷりしてやるからな」
 青褪めている愛海を睥睨したあと、グスタフは部屋の暗がりへと消えた。
 ぞぞぞっと全身が総毛立ち、愛海は独楽こまのように踵を返した。
 その後、どうやって船長室に戻ったのかよく覚えていない。
 ただひたすら、グスタフに言われた言葉と、どうにかしてこの窮地を脱せないか、そればかりを考えていた。