異海の霊火

2章:グロテスク - 2 -

 十五日目。
 愛海は重い上掛けをめくり、素足で箱型の寝台をおりた。毛足の長い絨毯を踏みしめながら衣装箪笥の前にいき、両開きの扉を開いて、白とだいだい色の防寒服を取りだす。
 着替えて衣装部屋をでると、ジンシンスの姿はなかった。彼はいつも夜遅くまで仕事をして、朝も早くから活動を始める。本人も話していたが、人のように睡眠時間を必要としないらしい。
 結局、厨房での出来事を彼には話さなかった。
 夕餉を一緒した際に、よっぽどいってしまおうか迷ったが、ホープの脅しが怖かったのと、もう少しだけ頑張ってみようと思い踏みとどまったのだ。
 しかし、厨房に向かう愛海の足取りは重たい。
 調理長のホープは極めて最悪な上司だ。たったの一日で、彼がどれほど最悪な人間か判ってしまった。
 今日はどんな陰湿な嫌がらせを受けるのだろうと身構えていたが、幸いなことに杞憂に終わった。
 昼時、食堂にジンシンスがやってきたのだ。
 彼が顕れた瞬間、騒々しい罵声や笑声がぴたりとやんだ。
 彼も白鑞しろめの盆を手に、列に並んで、愛海の配膳をうけとった。愛海が緊張気味に笑みかけると、彼も笑み返してくれた。
「大丈夫か?」
 そのとき愛海は、突然の感動に胸をしめつけられたような気がして、涙が溢れでそうになった。
「大丈夫です。きてくださって、ありがとうございます」
 きてくれた――厨房の出来事を話したわけではないのに、忙しいひとなのに、食堂は煩いから嫌いといっていたのに、愛海の様子を見にきてくれた。昨夜の沈んだ様子を気にかけてくれていたのだ。
「頑張れよ」
 海のように碧い瞳が優しく細められた。
「頑張ります!」
 まさに勇気凛凛りんりん、今ならどんなことでも頑張れそうな気がした。
 昨日はあんなに煩かった船員たちが、愛海の配膳に文句をつけることもなく、粛々と列をなし、席について食事をしている。
 手掴みで餓えた狼の如くがつがつ喰っているが、昨日の窒息しそうな空気を思えば、涙がでるほど行儀が良い。
 ジンシンスは食事を終えると、空になった容器を片づけにやってきて、愛海に笑みかけた。
「ごちそうさま。美味かった」
「ありがとうございます」
 はにかみながら愛海がいうと、彼は腕を伸ばして黒髪をくしゃっと撫でた。そのまま背後を振り向いて、
「無礼な奴がいたら、遠慮なく俺にいえよ。海に沈めてやるから」
 全員に聞こえる声でいい放つと、静かな食堂がさらにしん……と静まり返った。
「お前たち、俺が何も知らないとでも思っているのか? 口頭訓戒で済ませてやっているうちに、態度を改めろよ。次はないぞ」
 鋭さを増した碧い瞳は、玲瓏れいろうな刃物の輝きを宿している。睥睨された無頼漢たちは誰も反駁はんばくを唱えることはできなかった。
 彼が食堂をでていったあと、畏怖するような幾つもの視線が愛海に集中した。
 足元に視線を落とす愛海のそばに、ウルブスが近づいてきて、小声で話しかけた。
「驚いたぞ。お前、えらく船長に気に入られているんだな」
「そ、そうでしょうか?」
「おう。船長が誰かを気にかけるところなんざ、初めて見たぞ」
 この瞬間こそ居心地の悪い思いをした愛海だが、ジンシンスのおかげで、陰湿なからかいはやんだ。
 告げ口を恐れられていると思うと微妙な気もするが、標的にされるよりずっといい。
 それからの日々、ジンシンスのおかげで厨房の労働は、絶対に堪えられないものから、なんとか頑張れる程度に落ち着いた。
 とはいえ、調理長が最悪なことに変わりはなかった。
 真に性根の腐った男で、意地が悪く、残酷で陰険。少しでも気に入らないことがあると、静かに執拗に追い詰めるのだ。毒蛇のように。
 だからこそ、調理長でいられるのかもしれない。
 娯楽の少ない船の上で、酒や食事を振る舞う食堂では、諍いが起きやすいのだと、愛海も身をもって知ることとなる。厨房に立つようになって数日のうちに、味つけに文句を垂れた船員が、その顔面をホープに長包丁で切りつけられたのだ。
 愛海は心の底から震えあがったが、船員たちは野次を飛ばして笑っていた。混沌の極である。死人がでなかったことが奇跡だ。
 己でも不思議だが、そのような流血沙汰を目の当たりにしても、まだ厨房で働いている。
 二〇日、いつものように厨房にいくと、大量のじゃがいもを洗うよう命じられた。ここでは、いちいち皮を剥いたりしない。表面の汚れをたわしで磨いておしまいだ。だが水は冷たいし、数が多いと骨が折れる。
「手伝ってやるよ」
 厨房仲間のウルブスがやってきた。
「ありがとうございます!」
 愛海が笑顔でいうと、ウルブスの迫力のある顔面が、にっと笑みにほころぶ。
 一見すると怖い男だが、面倒見が良くて頼りになる。それは陥没頭のジャンも同じで、愛海が厨房で右往左往していると、ふたりともよく助けてくれる。彼らは躰に障害はあっても、弱弱しさは微塵もなく、たくましくて、力強い。身のこなしは敏捷で、厨房仕事も実に手際がいい。
 明るい気持ちで芋荒いを再開した愛海だが、狙ったようにホープがやってきた。
「おい、勝手な真似するな。新入りの仕事だ」
「だがこのままじゃ、仕こみが終わらないぞ」
 ウルブスがいい返すと、ホープは眉を潜めた。次の瞬間、彼の義足に脚をひっかけた。
「あっ!」
 愛海は驚いて手を伸ばしたが、ウルブスは器用に平衡を保ち転倒を免れた。
「なら、さっさとやれ」
 調理長は横柄にいい捨てたあと、やおら踵を返して、歩いていった。
 愛海は唖然としていた。義足に脚をひっかけて転ばせようだなんて、人として信じられない。どういう神経をしているのだ?
 拳を握りしめてぶるぶる震えている愛海を見て、ウルブスは肩を叩いた。
「“長包丁”のことは気にするな。機嫌がいいことなんてない、糞野郎だからな」
 ウルブスも口の悪さは負けていない。凪いだ暗褐色の瞳を見て、愛海もいくらか落ち着きを取り戻した。
「さ、やっちまおう」
 にっと笑うウルブス。
「脚は大丈夫ですか?」
「平気だよ、ありがとな」
 愛海は頷いた。彼はどうして義足なのだろう、という疑問を察したように、ウルブスは芋を洗いながら口を開いた。
「俺はアッカブル帝国の国境線を守る部隊長だったんだ。紛争で脚を失ったんだよ」
 思わず愛海の手が止まる。
「……いつですか?」
「十五年前。ジャンは俺の部下だった。俺をかばって、散弾銃で頭を撃たれちまった。それで喋れなくなった。口をきけないのをいいことに、上層部はあいつを軍法会議にかけて、戦犯にしたてあげやがった。誰かが責任をとらないといけないってな」
「酷い……」
 愛海が呟くと、ウルブスも頷いた。
「全くだ。俺は、ジャンの恩赦を上層部に申し入れたが、その返事がこれだ」
 ウルブスは額の死刑囚の烙印を指差した。
「……どういうことですか?」
些細な問題・・・・・容喙ようかいするなといわれたよ。つまり反逆罪だ」
「そんなっ」
 愛海はことばを詰まらせた。またしても手が止まってしまい、手を動かしながら聞け、とウルブスに注意された。
「戦地に送られる兵士は、強力な麻薬を投与されて、恍惚状態で殺人強要の作業を繰り返さなければならない。勝っても負けても、誰かは戦犯にされる。国防に命を賭して戦って、薬漬けにされて、脚や頭を吹き飛ばされた挙げ句に、死刑囚にされるんだからありがたいよな」
 愛海は暗澹あんたんとなって視線を伏せた。愛海には想像もつかない苦しみだ。ホープはともかく、ウルブスやジャンを邪悪な人間とは思わない。死刑囚烙印の定義が判らなくなる。
「……戦争も、終末の疫獣リヴァイアサンが関係しているのですか?」
「ああ。終末の疫獣リヴァイアサンを崇める連中や、混乱に乗じて帝国を乗っ取ろうとする近隣諸国と争いが絶えなかった。内陸の連中は、あれ・・の恐ろしさを知らないから、聖なる法則だの、神の啓示だのと頓珍漢な説諭を垂れるのさ」
「どうして内陸の人は、終末の疫獣リヴァイアサンを恐れないのですか?」
「海から離れているからな」
 戸惑った顔の愛海を見て、ウルブスは続けた。
「帝国は海に面しているから、最初に異変に気がついたのさ。曇天が覆うようになって、魚が浜に大量に打ちあげられた。海鳥も落ちてきた。かもめ信天翁あほうどりが競うみたいに落っこちてきて、港にぷかぷか浮いていやがる。次に幻聴をきく者が増えた。海の向こうから、得体のしれぬ獣の唸り声が聴こえてくるんだ」
「獣の唸り声……」
 愛海は茫然と呟いた。異海へ落ちる際に聴こえた声が、耳の奥に蘇ったのだ。
「マナミも聴いたことあるだろう?」
「はい……ここ・・に落ちたときに」
「気ぃつけろよ。声を聴くだけで死ぬ奴もいるからな」
「えっ!?」
「まぁ、そこまで運の悪い奴はあまりいない。皆、少しずつおかしくなっていくんだ。反応が鈍くなって、空を仰ぎ見るようになる。馬鹿みたいに突っ立って、空を仰ぎ見てるんだ。日がな一日中だぞ」
「……夢遊病ですか?」
「最初は疫病も疑われたが、医者には治せねえし、海洋調査隊が何隻も沖合にでていったが、誰も戻らなかった。ある日、遠洋漁船が霧のなかに巨大な影を見た。唸り声も聞いた。それでようやく疫病の正体は、終末の疫獣リヴァイアサンだって判ったのさ」
「疫病……」
「終末を告げる伝説の生き物さ」
「船長は、旧神だといっていました」
 ウルブスは鼻を鳴らした。
「神さまなものか。人間を蹂躙する悪魔だ。浜辺に住んでいる奴からおかしくなっていった。互いに殺しあいを始めたんだ。自分の家族や恋人や子供、見境なく殺しちまう」
「そんな……」
 愛海が深刻げに呟くと、ウルブスは手を休めた。
「希望を打ち砕くようだが、これまで戻ってきた討伐船は一隻もない。皆、魔海に嚥みこまれてお陀仏さ」
 暗褐色の隻眼で愛海をじっと見つめて、彼はいった。愛海の手も止まっていたので、その言葉は妙に響いて聴こえた。
「……ウルブスさんは、どうしてこの船に?」
 彼は肩をすくめると、再び手を動かし始めた。
「こんな片道切符の船に、誰も好きで乗ったりしない。牢獄は今満員だから、溢れた囚人を混淆こんこう海域の討伐船に送るのさ。“蝋人形”は例外だがな」
「シドさんをご存じなのですか?」
「帝国じゃ有名な殺人鬼だよ。貴族で高邁こうまいな外科医だからか、死刑は免れた。生涯幽閉か船医か選べといわれて、船医を選んだらしい。果たして正解だったのか俺には判らないがな」
「……シドさんは、船に乗っていれば解剖被検体に困らないといっていました」
 ウルブスは芋を洗いながら、肩を揺り動かした。
「いえてる」
「でも僕は、シドさんを怖いと思えないんです。とても親切ですし」
「親切かぁ? ……まぁ、お前は船長に目をかけられているしな。藪医者も滅多なことはできないのだろう。だが、寝首をかかれないように気ぃつけろよ」
 愛海が苦笑いで応じると、ウルブスは悪戯めいた光を瞳に灯して訊ねた。
「マナミは船長室で寝ているんだよな? 実のところ、船長とどこまでいっているんだ?」
「どこにもいっていませんよ。怪我していたから、療養しやすいようにって、衣装部屋を貸してくれたんです」
「もう治ったんだろう?」
「はい、おかげさまで」
「それでもマナミを船長室に置いているんだから、お前のことをよっぽど気に入っているのだろう」
 愛海が紅くなって口ごもると、ウルブスはにやにやした。
「気ぃつけろよ」
「……何にですか?」
 藪蛇を予感しつつ、愛海は訊ねた。
「船長に手ぇだされないように」
「ないですよ! ……僕は男だし」
「お前小さいし、男に見えねぇんだよ」
 愛海が顔を強張らせると、ウルブスは困ったように笑った。
「いや、悪かった。船に乗っていれば、じきにたくましくなるさ」
 それはないと思いつつ、愛海はごまかすように笑みを浮かべた。
 調理長が睨みをきかせにやってきたので、そのあとはふたりで黙々と作業に没頭した。