異海の霊火

2章:グロテスク - 7 -

 その日は、甲板掃除の前に葬儀が執り行われた。
 昨晩は終末の疫獣リヴァイアサンが喚んでいた。声に誘われた者が、甲板から身を躍らせて消えたのだ。
 弔う遺体はすでに海の底だが、“牧師”のクラムは船の流儀にのっとって、甲板から祈祷を諳んじた。
「我らの仲間、勇敢な船乗りの罪を赦し、その魂を憐み給え。あらゆる苦しみから解放し、安らかなる眠りを与え給え」
 穏やかな声が、白い吐息と共に薄靄に溶けて消えていく。
 クラムは、大陸では信者数万人を従える宇宙宗教の教祖として崇め奉られ、千をこえる信者を集団自殺に導いた罪で、死刑判決を受けている。禍々しい経歴の持ち主だが、船上では天使長然と道徳を説き、死者への弔いを唱えているのだった。
 葬儀が終わる頃になってジンシンスが甲板に姿を見せると、彼を見た船員たちは、そろって背筋を伸ばした。敬意というより畏怖によるものだ。
 極寒のなか、海水青色かいすいせいしょくをまとう青年の、上半身を露わにして悠々と歩く姿は、誰の目をもひかずにいない。
 しかし彼は、船員の視線に構わず、日課である船の状態を丁寧に確認し始めた。するとほかの船員たちも顔をひきしめて、朝の甲板磨きを始めた。
 いつもの朝の光景だが、そこに愛海の姿はない。
 暴行された日から、愛海は船長室からでられなくなっていた。
 朝起きて防寒服に着替えようとしても、心も躰も鉛のように重たくて、一歩も動けなくなってしまったのだ。
 緘黙かんもくとざす愛海を、ジンシンスは責めたりしなかった。それどころか過保護に拍車がかかり、彼の方も愛海を部屋からだそうとしなかった。仕事の合間に船長室にやってきては、愛海をあれこれと気遣う。夜は愛海が寝つくまで傍から離れようとしなかった。
 実際、愛海の神経衰弱は深刻だった。
 仕事を免除されて、シドに鎮静薬を処方されて、ジンシンスが傍にいてくれても、目が醒める度に落胆した。
 夢のなかで家族に会えたあとは余計に辛くて、血と苦悩、心労に満ちた現実に打ちのめされた。慰めるジンシンスに、日本に帰りたいと泣いてすがって、どうして助けたのだと八つ当たりをしたあとなどは、心底自分が厭になって死にたくなる。考えることに疲れて眠っては、また故郷の夢を見た。
 子供の頃から、家の近くの小松川境川親水公園で遊んでいた。小さい頃は、水上アスレチックで全身ずぶ濡れになって遊び、やがて水遊びをしなくなっても、季節の折々、気ままに散策をしていた。
 青空に照り映える桜を眺めながら、土も見えないほど降り積もった桜の絨毯を歩くのが好きだった。
 夜闇のなか、清冽せいれつなせせらぎに耳を澄ませながら、輝く桜を見るのもすきだった。
 入学式、卒業式、何かあるたびに、家族と桜並木のしたで写真を撮ったものだ。
 もうすぐ冬が終わる。
 また桜の季節がやってくる。真新しい高校の制服を着て、家族と写真を撮るはずだった。満開の桜並木を仰ぎながら、皆で歩くはずだったのに――普遍的な光景のなか、愛海だけがそこにいない。
 どことも知れぬ異海にいるのだと意識するたびに、息をすることが、生きることが、途方もなく辛くなる。
 晦冥かいめいを漂う愛海を見かねたジンシンスは、愛海にシドの診察を受けないかと提案した。しかし愛海が小さく頷くと、心配性を刺激されたのか、今度は思案気な顔つきになった。
「無理はしなくていい」
「大丈夫です。いきます」
 ぎこちない笑みを浮かべる愛海を、ジンシンスはまだ心配そうに見ている。
「私もシドさんに会いたいです。医務室に連れていってください」
「そうか」
 ようやく、ジンシンスは微笑を浮かべた。慎重に手を伸ばして、愛海の海栗うにのような短髪を撫でる。
 しばらくは、ジンシンスが相手でも震えていた愛海だが、日毎夜毎ひごとよごと傍にいるうちに、彼に触れられるのは平気になっていた。
 いつまでも逃げてはいられない。それは愛海にもよく判っていた。
 外へでることは、先ず第一歩だ。
 船長室をでる瞬間、愛海は心のなかに湧きあがった恐怖と闘った。男たちの顔、悍ましい冷凍庫が脳裏に閃いて、躰が震えそうになる。
「平気か?」
 青い肌の力強い腕が、愛海の肩をぎゅっと抱きしめる。活力を注ぎこまれて、愛海はゆっくり息を吐いた。
「平気です」
 感謝をこめて仰ぎ見ると、碧い瞳が煌めいた。
 彼がこんなにも傍にいてくれる――勇気づけられた愛海は、しっかりした足取りで医務室へ向かった。
 今日も隙のない、教授めいた身なりのシドは、穏やかな笑顔で歓迎してくれた。
「久しぶりですね、マナミ。体調はどうかな?」
「お久ぶりです。おかげさまで、大分よくなりました」
 つられて愛海も笑顔になる。自分でも意外なほど、シドにあえたことが嬉しかった。
「それは良かった。さあ、かけて。少し話そうか」
「はい」
 愛海が丸椅子に落ち着くと、ジンシンスは小首を傾げた。
「実は、ウルブスとジャンがお前を心配していてな。見舞いにいきたいといっているんだが……ここに連れてきても平気か?」
 愛海は少しばかり逡巡したが、はっきり頷いた。ふたりのことは愛海も気になっていた。
 やってきたふたりは、愛海を見て、ほっとした顔を浮かべた。その偽りのない表情を見た瞬間、愛海は心の奥処おくかがじんわり温まるのを感じた。
「久しぶりだな、マナミ。具合はもういいのか?」
 茶色の瞳を和ませて、ウルブスが訊ねた。
「お久ぶりです。おかげさまで、大分よくなりました」
 愛海がぺこっと頭をさげると、ジャンも真似をして、ぺこっと頭をさげた。いつもの調子を思いだして、思わず愛海は笑顔になる。するとジャンもにかっと笑って、ウルブスも安心したように笑った。
 挨拶が終わると、ジンシンスは壁際によって腕を組み、ウルブスとジャンは空いている丸椅子を寄せて座った。ふたりとも体格がいいので、椅子がやたらと小さく見える。
「良かったよ。姿が見えないから心配していたんだ」
「すみません、何日も厨房の仕事を休んでしまって」
 罰の悪い思いで愛海が謝ると、ウルブスは優しい笑みを浮かべた。
「いいさ、マナミが元気で良かった」
 ウルブスの隣で、ジャンも大きく頷いている。
「調理場は、変わりありませんか?」
 少し緊張気味に愛海が訊ねると、ウルブスは皮肉な微笑を浮かべた。
「豚野郎なら、おとなしいもんだよ。この間、義足を蹴られそうになったけどよ、逆にあっちがこけていやがる。船長のまじないが効いているんだな」
 愛海は安堵に胸を撫でおろした。あの冷酷な、芯まで腐った精神病質者は、本当に二度と人を傷つけることができないのだ。
「そうそう、ホープに代わって俺が調理長になったんだ」
「えっ、本当ですか!?」
 きこんで訊ねる愛海に、ウルブスは悪戯っぽい笑みを見せた。
「おうよ、新メニューを考案中だから、完成したら試食してくれよ」
「はいっ!」
 愛海が満面の笑みで返事すると、ウルブスとジャンの、それにシドとジンシンスの顔にも笑顔が浮かんだ。
 部屋の隅で耳を傾けていたジンシンスは、明るい空気に安心して、愛海に近づいた。
「少しはずしても平気か?」
 愛海もシドも頷いた。
「すぐに戻る。シド、愛海を頼んだぞ」
 ジンシンスは、愛海の髪を撫でながらシドを見た。シドは珍しそうにこちらを見ながら、頷いている。愛海は少々気恥ずかしかったけれども、気にかけてもらえることが嬉しかった。
 扉がしまり、一瞬、部屋が静かになる。少しばかりの沈黙の後で、シドはくすりと笑った。
「大切にされているんだね」
 シドの言葉に、愛海は赤くなった。ウルブスとジャンを見れば、ふたりとも驚いた顔をしている。
「あのひと本当に変わったなぁ。マナミのために船員を殺……厳罰に処したんだもんな。よっぽどお前が大事なんだな」
 ウルブスは控えめな表現にいい直したが、愛海は反応に困ってしまう。青くなるべきなのか、赤くなるべきなのか判らない。
「確かに、マナミには随分と庇護欲を抱いているようだね。克己的な海底人で、他人に興味のないひとだと思っていたが、例外もあるらしい。ひとつの奇跡だ」
 シドから意味深長な視線を送られて、愛海は気まずげに俯いた。
「照れるなよ。相変わらず初心うぶだなぁ」
 ウルブスがからかう。愛海がさらに赤くなると、今度はシドがからかった。
「思えば、マナミに対しては最初から彼はああだったね」
「おかげさまで、親切にしていただいています」
 かしこまった口調が面白かったのか、ウルブスは笑った。
「マナミは危なっかしぃからな。しかし浅慮な連中も、今度ばかりは、愛海に手をだすと船長の逆鱗に触れるのだと理解しただろう」
 そうだと良いのだが……苦い思いが胸に射して、愛海は視線を半ば伏せた。
「大抵の船員は、混淆こんこう海域に連れてこられたことを恨んでいるが、一方で、自分たちが今も生きていられるのは、船長のおかげだと理解しているのだよ。彼こそが自分たちの命綱だとね」
「命綱?」
 シドの言葉に、愛海は鸚鵡返しに訊ねた。
「そうだよ。航海から既に船員の半分は死んでいる。自死、病気、怪我、喧嘩、理由は色々とあるが、餓死と大嵐は除外される。海底人である船長が、燃料や食料を補給し、嵐に旧時代の帆船が破壊されないよう、守ってくれているからね」
 愛海が相槌を打つと、彼はさらに続けた。
「船員は皆死刑囚だ。陸に戻れば死刑が待っている。だから、先日の彼の演説は覿面だったよ」
「演説?」
 そんなことあっただろうか、と愛海は視線を斜め上に動かしながら考えた。
「無事の寄港と王への恩赦進言だよ」
「ああ……」
 あの処罰の日の最後に、ジンシンスが放った言葉だ。
「生き残っている連中は、生に貪欲で狡猾な者ばかりだ。生還して死刑を免れる為に、今後は船長に従うだろう」
「……そうですかね」
「少なくとも、私はそう思うよ。それにしても、船長は海底人でありながら、人間社会とその心理をよく理解している。実に興味深いから、一度解剖させてほしいね」
 愛海が頬を引きつらせると、クックッとシドは肩をゆすって笑い、冗談だとつけ加えた。しかし前科のある彼がいっても、ちっとも冗談に聞こえないのである。
「いや、失礼。久しぶりに楽しい会話をしたから、少し饒舌になったようだ」
 同じ気持ちで、愛海はほほえんだ。額に死刑囚烙印があろうと、愛海にとって彼は、機知きちに富んだ聡明な話し相手だ。
「良かったら、これからも時々、医務室に顔をだしてくれないかね? ちょうど助手がほしいと思っていたのだよ」
 戸惑う愛海に、シドはおだやかな表情で続けた。
「無理のない範囲で構わないよ。たまに気分転換くらいの気軽さで、顔をだしてくれたらいいから」
「……はい」
 おずおずと愛海が頷くと、シドは優しくほほえんだ。親切なひとだと思う。きっと、この話がしたくて、彼は愛海を医務室に呼んだのだ。
「安心しろよ、もう誰もマナミにちょっかいをだそうとしないさ」
 ウルブスも優しい目をしていった。
「……遠巻きにされているみたいです」
 愛海が小声で答えると、隻眼の海賊男はにやりと笑った。
「そりゃ、あんな制裁を見た後ではな」
「強烈でしたね」
「ああ、強烈だ」
 そういってウルブスが笑うと、愛海も、なんだか肩から力が抜け落ちて、アハハと笑った。久しぶりに声にだして笑いながら、心のおりがすーっと流れていくように感じられた。
 しばらくして、ジンシンスが迎えにやってきたとき、愛海はごく自然に、明るい笑顔で彼を出迎えることができた。
 すると彼も安堵の笑みで応え、シドたちに礼を口にしてから、愛海をつれて船長室に戻った。
「何を話していたんだ?」
「厨房のこととか、ウルブスさんの考えているメニューとか……あと、シドさんから助手を頼まれました」
「なんだと?」
 険しい顔で立ち止まるジンシンスに、愛海は慌てた。
「いえ、籠っている僕を心配して、声をかけてくれたんです。時々でいいそうですし、前向きに考えてみようかと」
 考えこむジンシンスを見て、愛海はつけ加えた。
「今日は皆と話せて楽しかったです。いい気分転換になりました。これからも、こういう機会を増やせると嬉しいのですけれど」
 久しぶりに部屋の外を歩いて、大した話はしていなくても、シドたちと喋ったことで、自分でも意外なほど気分転換になったのだ。
 心を覗きこむように、ジンシンスは愛海の目を覗きこんだ。澄み透った碧い瞳を見つめながら、愛海はじっとしていた。
「判った、愛海の好きにしていい。だが無理はするなよ」
 彼が表情を緩めたので、愛海はほっとして、ほほえんだ。
「はい! ありがとうございます」