異海の霊火

3章:暗鬱な喚び声 - 10 -

 長く混淆こんこう海域を漂流している彼らにとって、その光景はまさしく天の恵み、極楽浄土だった。
 氷と共に、水禽すいきん海豹あざらしもやってきたのだ。
 ジンシンスは繋留した戦艦を調査する間、船員に自由行動と下船を許可したので、彼らは喜色満面の笑みを浮かべ、いそいそといかりをおろした。
 錨地びょうちともいえぬ氷原だが、幸い海は凪いでいるので危険はない。縮帆して船を固定すると、船員は狩人よろしく猟銃を担いで、凍てつく平らな広がりに上陸した。
「虎の親子がいるぞ!」
 発見とほぼ同時に銃声が響いて、獣の断末魔のあと、歓喜の雄叫びが雪原を震わせた。
 間もなく獲物を乗せた橇が船に戻ってくると、白銀の美しい毛並みの巨大な氷虎をとり囲み、船員は踊りあがった。
「こりゃ、見事な毛皮だ!」
「久しぶりに肉が食えるぞぅ!」
 義足のウルブスと薬中のドーファンがそれぞれ叫んだ。
 母虎の足元に子供が二匹いて、きゅうきゅう鳴いている。憐憫など微塵も感じずに、ドーファンは容赦なく首に輪縄をかけて引っ張った。
「へへへ、見ろよ。氷虎の子供を捕まえたぞ。これは高く売れるぞぅ」
「どこに売るんだよ」
 ウルブスが呆れたようにいった。
「見世物小屋でも動物園でもいい。混淆こんこう海域産の獣だ。きっと高値がつくぞぉ」
「どうだろうな。陽がでてるうちに、母親の方はバラしちまおう」
 ウルブスたちは、子虎の前で母親の解体作業に入った。皮剥ぎ用の短剣で見事な虎皮を剥いでいく。たちまち分厚い氷の塊は血生臭い屠殺場と化した。
 檻にいれられた子虎たちは、さっきまで怒り狂い暴れていたが、船員たちが母虎を剥ぎ、裂き、切りわける様をもはや躰を震わせてただ見守っている。
「しかし虎の肉ってうまいのかぁ?」
 ドーファンが訊ねると、ウルブスは肩をすくめてみせた。
「どんな肉だって、人間よりましだろう」
「ハハハ……違いねぇ!」
 ぞっとするような会話が聞こえて、甲板から眺めている愛海は思わず眉をしかめた。ちっとも笑えないが、男たちは楽しそうに笑っている。
 額の汗をぬぐおうとしたウルブスは、甲板で見学している愛海に気がついて手をあげた。
「オーイ!」
「こんにちはー、ウルブスさん」
 愛海も声を張りあげた。凍てつく空気が肺に流れこみ、むせそうになる。
「マナミも降りてこいよ。陸じゃないが、氷の大地もなかなか乙だぞ」
「いいんですか?」
「錨泊中は自由行動だ。構わないだろう」
 愛海は左右を伺い見て、誰からも咎められなそうと判ると、舷側から垂らされた梯子に脚をかけた。ゆっくり氷原におりると、えもいわれぬ氷の感触に密かに感動した。
 解体作業の片づけをしている彼の傍に近づいていき、血に染まった氷の手前で足を止めた。
「ウルブスさん、その子虎は売るのですか?」
「ドーファンはそのつもりらしいが……ま、無事に混淆こんこう海域を脱して、虎がその時まで生きていればの話だな」
「お母さんもいないし、怖くて寂しくて、死んでしまうかも……」
 その言葉が聴こえたのか、剥いだばかりの毛皮をなめしている船員がくるっと振り向いた。扁平な顔立ちの大工だ。腕は肘まで紅く染まり、深靴とズボンにも血糊がこびりついている。彼は愛海を見て、殺人鬼よろしくにたっと笑った。
「虎の子も、我が身がかわいいもんさ。母親より餌をくれる飼い主だ」
「そうだぞぅ、愛で腹が膨れるかってンだ」
 檻の前に屈みこんでいるドーファンが、振り向いていった。
「世話してりゃ、じきになつくさ」
 大工も相槌を打つ。
 野生の虎が、そんな簡単に人間になつくだろうか?
 愛海は疑問を覚えたが、苦笑いを浮かべるに留めた。余計な口出しはせずその場を離れると、氷原を見回して、船員が集まっているあたりに目が留まった。
 分厚い氷に丸い穴が穿たれていて、何人か釣り糸を垂らしている。
 傍に寄って大きな氷穴から海を覗きこむと、運よく遊泳する立派な甲羅の亀が見えた。
「わ、すごい……」
 大きな亀は、氷穴のしたをいったりきたりしている。海神の遣いのように見えて、どこか厳粛な気持ちで見守っていたが、傍にやってきたシドにより打ち壊された。
「おや、良い海亀ですね。誰か、あの亀を仕留めてください」
 よしきた、と船員のひとりが網を掴んで早速漁を始める。
 神格めいた美しい亀が狩られる様を、愛海は複雑な気持ちで見ていることしかできない。
「甲羅は薬の材料になるのだよ。肉も美味だしね」
 心からの満足の微笑をたたえた翡翠の眸を向けて、シドは愛海にいう。
「やっぱり食べるんですね」
 笑み返しながら、愛海はちょっと残念そうに答えた。
 彼らは動いているあらとあらゆるものを食料にしてしまう。生きるためなのだから文句はいえないが、なんだか遣る瀬無い気持ちになる。
「マナミ!」
 振り向くと、舷側にかけられた梯子のしたで、ウルブスが手を振っていた。
「後で厨房にこいよ! 新鮮な虎肉を食わせてやる」
 まだ温かい重量のある肉を肩に担いで、ウルブスは活き活きと陽気にいった。その後ろを、同じく肉を担いだホープがいいとして従っている。
 散弾銃に頭を打たれた彼は、シドによる神懸かりの穿孔せんこう手術のおかげで一命をとりとめたものの、爾来じらい、一つの作業に没頭することになってしまった。
 甲板を磨けと命じれば朝から晩まで磨いているし、芋を洗えと命じれば然り。哀れといえばそうだが、因果応報の天罰覿面てきめんともいえる。弱者を嬲ってきた“長包丁”は、未来永劫、精神的に死んだのだ。
「はい! 後で寄らせてもらいます」
 愛海は手を振り返すと、ふたたび氷原を散策し始めた。
 見渡す限りの氷の平原が広がっている。空が晴れていれば、夜には極光オーロラが拝めそうだが、残念ながらここは幽暗の混淆こんこう海域である。
 それでも船のそとを歩けるのは良い気分転換だった。少し浮足だっていたせいか、間もなく盛大に転んで、膝を痛めてしまった。
 ぎこちない足取りで船内に戻ると、屠殺の光景を思い浮かべながら食堂へ向かった。
 残された子虎を憐れに思うが、いざ肉が調理場に運ばれて撞球くらいの肉団子になり、よく味付けをした香料を混ぜてからっと小揚げにして供されると、素晴らしく美味で、罪悪感もいっぺんに吹き飛んでしまった。
 フライドチキンに味が似ており、しかも愛海がこれまでの人生で食べてきたどんな唐揚げよりも美味しかったのである。
 その正体は子虎の母親と知っていても、手が伸びる。
「どうだ、美味いだろう?」
 ウルブスが自信ありげに訊いてくる。褐色の隻眼が期待に輝くのを見、愛海は複雑な心境ながらも、美味しいですと答えるほかなかった。