異海の霊火

3章:暗鬱な喚び声 - 8 -

 その夜、愛海は喉の渇きを覚えて目が醒めた。寝床に就いた時は手脚が冷えていたのに、今は全く燃えるように熱く、冷たい夜気に触れたいと思うほどだった。
 我慢しきれず起きあがると、衣装部屋をでて慎重に窓辺の卓まで歩いていき、水差しから杯に注いで飲み干した。ひと息ついたところで、ふと外を見ると、バルコニーの外が淡く光っていることに気がついた。不思議に思い、窓をあけて足を踏みだすと、歌声が聴こえてきた。
 一瞬、終末の疫獣リヴァイアサンかと恐れたが、すぐに違うと判った。
 女性の声だ。
 姿は見当たらないが、天然の蜂蜜を思わせる淡い金色に輝くような、美しく甘やかな歌声が聴こえる。
 夢見心地で室内に戻ると、ジンシンスを起こそうか迷い……疲れていた様子を思い浮かべて、断念した。
 確かめてみようと決意し、角燈ランタンを手に、静かに船長室をでた。
 空は白みはじめる頃で、甲板には突き刺すような寒さが遍満へんまんしていた。濃霧に覆われているので、星影はおろか甲板も見透せない。
 ほんの数刻前は篝火を囲んで騒擾そうじょうに興じていた船員の姿もなく、静謐のなかに、いつにない奇妙な空気が瀰漫びまんしているように感じられた。
 寒さに歯噛みしつつ、空いている片手で外套を強く引き寄せる。角燈ランタンを掲げながら船縁へ近づいていくと、女性の歌声は大きくなった。
 夢みるような美声だ。永遠にきらめくような、竪琴の全音階を奏でるような、人間の声域を超越した声。いつまでも聴いていたい、甘い甘い歌声。
 魔性かもしれない。
 首筋の毛が粟立あわだつのは、恐怖ではなく、日本への思慕しぼを掻きたてられたからだ。淡い灯と優しい旋律に、どうしたことか家族のことが思いだされて、愛おしい心悲うらがなしさが胸にこみあげてくる。
 涙ぐみながら聴き入っていると、すぐ近くで脚音が聞こえた。一気に覚醒世界に舞い戻り、振り向くと、蹌蹌踉踉そうそうろうろうたる足取りで歩いている数人の人影が見てとれた。
 咄嗟に明かりを消すと、その場に蹲った。気づかれやしなかったか肝が冷えたが、誰もこちらを見ようとしない。幽鬼のごとく、船縁に向かって歩いている。そのなかにグスタフを見つけた瞬間、心臓が大きく鼓動を打った。
 なぜ牢の外を歩いているのだろう? 
 もしかして、愛海を探しにやってきたのかと焦ったが、周囲には目もくれず、夢から醒めきれない阿片中毒者みたいに、ふらふらと歩いている。
 固唾を嚥んでグスタフの一挙一動を見守っていると、船縁の前で歩みを止めた。ぼぅっと佇立し、恍惚の表情で歌声に耳を傾けている。
 愛海もゆっくり立ちあがり、船縁から海を見おろした。海面は朧気(おぼろげ)に発光しており、驚くべきことに半裸の女性が浮かんで見えた。
(……人魚?)
 愛海は己がなぜ、突然たまらない哀愁に駆られたのか理解した。
 半身半魚の美しい歌声は、きっと不思議な精神作用を引き起こすのだ。苦痛や恐怖を凌駕する、強烈な恍惚感と郷愁感とを惹起じゃっきさせるに違いない。
 グスタフもすっかり歌声のとりこだ。心ここに在らず――茫然とした様子で船縁から身を乗りだし――そのまま海へ落ちた。
「あっ……」
 思わず声をあげたときには、飛沫があがっていた。
 海へ身を投げいれたが最期、美しい人魚は、鯨や鮫のように群がりりあい人肉を貪り始めた。
「ひっ」
 愛海は慌てて口を手で押さえ、悲鳴を飲みこんだ。
 なんて恐ろしい光景だろう。舷側から眺めていると、人間が人間を食べているように見える。時折、後ろ脚が海面からばしゃんと跳ねるが、想像していた光彩ある鱗でも尾ひれでもなく、甲殻の下半身に百足の如く多脚がうごめいていた。
 人魚というより蟲女むしおんなだ。
 おぞましい怪物に生きたまま喰われながら、グスタフは恍惚の薄笑いを浮かべている。甘い歌声の酩酊感で脳髄はまどろみ、もはや思考も苦痛も麻痺しきっているのだろう。
 愛海は、狂気の肉食行為から目を離せずにいた。慄然りつぜんとしながら、じっとグスタフが海面に沈みこむまでの一部始終を黙って見ていた。
「愛海!」
 心臓が喉から飛びだすかと思われるほど驚いた。振り向くと、ジンシンスが駆け寄ってくるところだった。
「何している! セイレーンの餌食になりたいのか!?」
「ごめんなさいっ」
 両肩を掴まれて、愛海は慌てて謝罪した。それから、震える指先で海をさし示した。
「今、グスタフさんが、そこから落ちて……」
「グスタフ? 誰が牢からだしたんだ?」
「判りません」
「とにかく船長室に戻るぞ。両手で耳を塞いでおけよ」
 ジンシンスは愛海の手を掴んで、両耳を塞がせた。それから愛海を片腕に抱きあげると、踵を返した。彼自身が淡い光を纏っているせいか、暗闇を見透しているみたいに足取りに迷いはなく、颯爽と歩いていく。
 船長室に入るなり、ジンシンスは真剣な口調で愛海に問いただした。
「愛海、意識が霞んだりしていないか?」
「大丈夫です」
「セイレーンの声は魔性だ。どれくらい聞いていた?」
「そんなに長くは……たぶん」
 ジンシンスは奇妙に片眉を寄せた。
「もし次にセイレーンの歌声が聞こえたら、迅速に耳をふさげ。でないとお前もグスタフのように、催眠にかけられて海へ飛び込んでいたかもしれないんだぞ」
「ぅ、はい……セイレーンは人間を食べるんですか?」
「そうだ。海の妖婦は船乗りが好物だからな。歌声でを惑わせ、海へ引きずりこみ肉をくらう」
「うぅ、人魚だと思ったのに……あんなに綺麗な声をしているのに……グスタフさんを食べていた」
「馬鹿な男だ、耳栓をつけ忘れたのだろう。セイレーンに喰われたなら、恍惚のなかで死ねる分だけましかもしれないがな」
 愛海がぶるっと震えると、ジンシンスはそっと肩を抱き寄せた。
「無事で良かった」
 愛海は泣きそうな顔で頷いた。
 胸中は複雑だった。グスタフの死に様にショックを受ける一方で、安堵もしていた。これで正体を暴露される心配はなくなったのだ。
 利己的な思考にかすかな嫌悪を覚えるが、隠蔽工作にみ疲れていた今は、安堵が凌駕した。
「あの、いわないといけないことがあって……報告なのですが、ゴッサムに暴行したのはクラムさんです。グスタフさんではありませんでした。ごめんなさい」
 もうひとつの胸のしこりを打ち明けると、ジンシンスは驚きに目を瞠った。
「謝る必要はないが、なぜ判った?」
「その、暴行しているところを見てしまって。抗議したら、宇宙崇拝だの浄化だのいいだして……何をいっているのか全く理解できませんでしたが」
「ふぅむ、シドもそれで連絡を入れてきたのか」
「はい……」
「判った、話してくれてありがとう」
 そういって彼は、連絡管から当直に繋ぎ、クラムを探して拘束するよう指示をだした。
 愛海はようやく、肩の荷がおりた気がした。
 しかし、ほっとしたのも束の間、これからも途方も無い綱渡りをしていかなければならないのだという、暗澹あんたんたるものがこみあげてきた。
 ぎゅっと目を閉じたら、人魚に喰われるグスタフの顔が脳裏に浮かびあがった。記憶のなかで深紅の眸――悪意の塊のような極めて原始的な欲望を宿した双眸と遭って、背中を悪寒が這いあがってくる。
 思わず小さな呻きを洩らすと、ジンシンスが傍にやってきて、愛海の顔を覗きこんだ。
「どうした?」
「すみません、ちょっと思いだしてしまって……」
 おこりにかかったみたいに細かく震える躰を、ジンシンスはぎゅっと抱きしめた。
「心配するな、もう大丈夫だ」
 優しく慰めながら、ジンシンスもまた安堵に駆られていた。 
 ――危ないところだった。
 あと一歩遅ければ、愛海もセイレーンに喰われていたかもしれない。
 魔性の歌声に、大抵の人間のは抗えない。とりこにされて、ふかが群れをなしたような猛々しい情熱の餌食にされる。
 耳栓もつけずに愛海が無事でいられたのは、運が良かったとしかいいようがない。終末の疫獣リヴァイアサンの喚び声にも耐性があるようだし、果敢はかない容貌に見えて意外と強運の持ち主なのかもしれない。
(他の連中より欲が薄いせいかもしれないな……)
 ふと、船内の廊下を幽鬼のように彷徨っていたゴッサムの姿が脳裏を過った。
 船底の大部屋で寝ていたはずだが、歌声に誘われてやってきたのだろうか?
 船長室と衣装部屋のしきいには、危険な念波を遮断する魔術をかけてあるが、一歩でも踏みだせば、船底の大部屋より大音量で聴こえたはずだ。船縁にあれほど近づいて、よく無事でいられたものだ。
(なぜ、愛海は無事でいられたのだろう?)
 その疑問は核心を突いていたのだが――奇妙に思いはしても、このときもジンシンスは、愛海の性別を疑うには至らなかった。
 奇妙に思うことが重なっていても、最初に抱いた印象は、あまりに強くジンシンスのなかに根をおろしていたのだ。