異海の霊火

4章:終末の疫獣 - 3 -

 海上の饗宴は十五日間に渡って続いた。
 たがのはずれた彼等は、互いの刃傷沙汰にんじょうざたを忘れて快活な無頼漢になり、陽がでているうちは狩や獲物の解体作業に励み、夜は船内で飲み明かした。
 しかし、十六日目の朝に混淆こんこう海域は、暴虐ぼうぎゃく暴風雪ブリザードに見舞われ、船内に籠ることを余儀なくされた。甲板にでることもできないので、殆どの船員は、休息をとっている。
 愛海は、よりによって、こんなときに初潮を迎えた。
 日本にいた頃、十五歳を迎えても生理がこないので、産婦人科で診てもらったことがある。異常なしと診断されて安心したものの、生理痛を訴える同級生を見るたびに、ある種の羨望を抱いていた。ひとりだけ取り残されてしまったような焦燥のなか、早く生理がきてほしいとすら願っていたが、今このときは勘弁してほしかった。
 うめきたくなるような激痛が、津波のように腹部に押し寄せてくる。
「お母さん……」
 半ば無意識に呟いていた。
 この場にいてくれたら、どんなに心強いだろう。お母さん、ちゃんと初潮がきたよ。報告できたら良いのに。愛海が気に病んでいたことを知っていたから、きっと我が事のように喜んでくれた。本人より喜んで、今夜はお赤飯ね! なんて本気でいいそうだ。
 今ここに、報告できるひとはいない。この窮地をひとりで乗り切らなくてはいけない。
 現実的に考えて、痛くて動けない今は停船は都合が良かった。色々な人に仕事を休む言い訳をせずに済んだ。シドの元で医療の手伝いをしていたこと、船長室にいられることも幸いした。ここには浴室も洗い場も暖炉もあるから、汚れものの始末に困ることもない。二日も乗り切れば、日常に戻れるはずだ。大丈夫、できる。きっとうまくやれる。今はただ休めばいい。
 嵐の咆哮を聴きながら、毛布にくるまっていると、小さな繭に包まれているような錯覚を覚える。この部屋こそが世界の全てであり、氷霧ひょうむに隠された外海は、果敢はかない存在なのだ。
 鈍い痛みを抱えながら、繭のなかで輾転てんてんとし、ときを過ごした。
 夜になると、ジンシンスが食事を運んできてくれた。具合が悪いからと断ろうとしたが、彼も譲らなかった。
「昨日も殆ど食べていないだろう。燃料を補給しないと、元気にならんぞ」
 そういって手ずから給仕を始めた。サイドボードに真鍮の盆を置いて、唐黍とうきび茶を淹れるのを見、愛海も緩慢な動作で身を起こした。
「愛海の好みを考えて、ウルブスが作ってくれたんだ。少しでいいから、食べてごらん」
 彼は料理を皿によそった。すりおろした檸檬を泡立てた卵白とまぜ、野菜や魚を覆うようにかけて蒸した料理で、いい匂いがした。
「美味しそう」
 食欲を刺激されて愛海は、匙に手を伸ばした。ジンシンスと目があうと、どうぞ、というように微笑する。
「……いただきます」
 丁寧な出汁の味といい、えもいわれぬ旨味がひろがり、躰の芯がぽかぽかと温まるようだった。
「美味しい」
 ジンシンスはにっこりした。
「良かった。ゆっくりお食べ。食器は籠に入れておいてくれ。後で片づけにくるから」
「アイ」
 彼がでていったあと、愛海は時間をかけて完食した。食器を籠にしまうと、再び横臥おうがする前に雑用を済ませることにした。血のついた下着をとりだし、洗面所に向かう。彼が戻ってこないうちに洗ってしまおうと、石鹸で洗っていると、物音が聴こえた。
「おい、具合が悪いなら寝ていた方が――」
「ジンシンスさんっ!」
 愛海は独楽こまのように振り向いた。洗っていた下着を背中に隠して、驚きに目を瞠るジンシンスを注意深く観察する。
「すみません、その……吐いてしまって、汚れものを洗っていました」
「大丈夫か?」
 彼が目の前にやってきた。肩に手が置かれて、けれども、はっとしたようにその手が離された。
「大丈夫です。すぐに部屋に戻りますから」
 お願い追及しないで――懇願の眼差しで見つめる。
 彼が何もいってくれないので、愛海は次第に不安になって肩を縮こまらせた。
 沈黙。
 愛海が震えている。早く何か言葉をかけて安心させてあげないと――そう思っても、ジンシンスは言語を忘れてしまったように口をかんしていた。
 不安のにじんだ幼げな顔の造作をつぶさに観察しながら、少年のごとき興奮と気後れを覚えると共に、疑問が確信に変わるのを感じた。
(まさか――いや――やはり女なのか!)
 初めて目にしたとき、淡い面輪おもわから性を判別できず、しかし娘にあるまじき短髪故に男だと思いこんでしまった。その後は、華奢な骨格や繊細で柔らかな肌に触れるたびに、女性めいた気遣いに胸の高鳴りを覚えたときに、男を篭絡するセイレーンの魔の手を逃れたときに、かすかな血の匂いを覚えたときに――ああ、気づくきっかけは幾らでもあったのに!
 幾つもの違和感を胸にめながら、この娘を少年と間違え続けた己が信じられない。
 ジンシンスは目を閉じて衝撃を抑えこむと、目を開けると同時に表情を和らげた。
「……判った。俺は少し船の様子を見てくるから、お前も用が終わったら衣装部屋に戻れよ」
「アイ」
 愛海は安堵したように頷いた。
 ジンシンスは船長室をでると、後ろ手に扉をしめて、口を覆った。
(女だった)
 早鐘のような動悸が鎮まらない。
 沈黙を不自然に思われただろうか? ジンシンスが気づいたことに、愛海も気づいたかもしれない。
 だとしても、愛海から打ち明けない限り、こちらは知らないふりをすべきだ。
 男しかいない、それも逃げ場のない船上で、愛海がなにを思い性別を偽ったのか理由は明白だ。その判断は正しい。
 このような船で性別を隠し、どれほど気を張っていたことだろう。男に襲われたときなどは、ジンシンスには想像もつかぬほど怖い思いをしたに違いない。強姦されたゴッサムをあれほど気にかけるのも、正義感だけではない、女としての恐怖や共感を覚えたからなのだろう。
 これまで気づけなかったことが悔やまれる。
 あの小さな躰で、どれほどの苦労を背負っていたことか。本当にか弱い存在なのだ。衣装部屋に閉じこもり、誰にも知られないように今も震えている姿を思うと、胸が苦しくなる。
 医務室に向かいながら、記憶の扉を一枚一枚開くように、愛海の笑顔や泣き顔を思いだしては、押し寄せる愛おしさや呵責かしゃくに襲われた。
 シドがひとりでいることを確認してから、ジンシンスは詰め寄った。
「おい、まさか知っていたんじゃないだろうな」
「何の話ですか?」
「愛海のことだ。あの子の性別を、お前は知っていたのか?」
 ジンシンスは声を落として訊ねた。医者の顔を注意深く観察し、片眼鏡モノクルの奥から、翡翠めいた眸が愉快げな光を放つのを見逃さなかった。
「もちろん、医者ですからね」
「なぜいわなかった?」
「マナミの為ですよ。本人も隠しておきたい様子でしたから」
「俺にまで隠す必要があるか?」
「そうですねぇ、すぐに気がつくと思いましたから」
 ジンシンスは苛立たしげに眉をひそめた。
「あれほど短髪で、まさか女だとは思わなかったんだ」
「確かに私も驚きましたが、異国の文化なのでしょう。それで、愛海と今後の話をされたのですか?」
「いや……いまさら暴くような真似はしない。あの子に月の障りが訪れたんだ。本人も指摘されたくないだろう」
 シドは相槌を打った。
「早々に船長室に匿ったのは正解でしたね。マナミがこれまで無事で済まされたのは、図らずも貴方が目をかけていたからですよ。過保護が功を奏しましたね」
 全くだ、とジンシンスは頷いた。
「少年と勘違いしていたが、あの神経の細さだからな……守ってやらなくてはと思っていた。無理もない、愛海はよく耐えている」
「そうですね。落ち着くまで医務室の仕事は休むよう、伝えてください」
「ああ」
「女性に入用な品々を渡したいところですが、どうしますか?」
 ジンシンスは腕を組んで、唸った。
「俺もそうしたいが……いきなり不自然だろう」
「私から話しましょうか? 医者なら抵抗は少ないでしょう」
「いや、それだと俺の知るところと察して気まずい思いをさせてしまう。折を見て俺から話すから、少し待ってくれ」
「判りました。着替えは不要ですか?」
「ひとまず、新鮮な海藻や石鹸と一緒に、男物だが繻子の下着の替えを渡しておく。それくらいなら、病人の面倒の範疇だよな?」
「ええ。洗面所に、綿布の入った籠も置いておくと良いですよ」
「そうしよう。部屋に洗面所も暖炉もあるし、あとは本人の工夫に任せよう。判っていると思うが、このことは、くれぐれも内密に頼む」
「もちろんです。船長も気をつけた方がいいですよ」
「判っている」
 シドはじっとジンシンスを見つめた。
「あまり構い過ぎない方がいいという意味ですよ」
「馬鹿をいえ。これまで以上に気を配ってやらないといけないだろう」
 ジンシンスは鼻を鳴らすと医務室をでていった。
「……今だって十分過ぎるくらいだと思いますがね」
 のこされたシドは、ため息まじりにこぼした。