異海の霊火

4章:終末の疫獣 - 9 -

 胸のあたりを押さえた愛海は、蒼白な顔でジンシンスと向きあう。
「怖がらなくていい。愛海が怖いと思うことは、決してしないから。約束する」
 ジンシンスはまるで小動物にそうするように、優しく囁いた。
 だが愛海の耳には届いていない。彼の声は遥か遠くから聞こえているようだった。早鐘を打つ己の鼓動しか聞こえない。
 どうしよう。どうすればいい? 彼はどこまで知っているのだろう? 
 混乱の極み、恐怖に駆られて、ぱっと船長室の扉に向かって走った。
「愛海!」
 ジンシンスは俊敏な動きで扉に手をつくと同時に、愛海の肩を後ろから抱き寄せ、彼女の逃亡を阻んだ。震えている肩を撫で摩りながら、短髪に頬を寄せて囁く。
「何が怖い? 着たくないのなら、着なくていいよ。悪かった。怖がらせるつもりはなかったんだ。逃げないでくれ」
 いつでも余裕綽々しゃくしゃくな彼らしからぬ、必死さの滲んだいだった。
「怖がらないで。こっちを向いて……愛海?」
 ゆっくりと振り向かされても、愛海は顔をあげることができなかった。この後彼がどんなことをいうのか、想像もつかなかった。
「ごめんなさい……っ」
 また逃げるとでも思っているのか、ジンシンスは愛海の両腕を優しく、だが力強く掴んだ。
「何に対してのごめんなさい?」
「勘違いされているって判っていたのに、訂正しなかったこと……打ち明けなくて、ごめんなさい」
 叱責を覚悟しながら謝罪した。これほど世話になっておきながら、ずっと性別を偽っていたのだ。責められても仕方がない。
 だけどジンシンスは、いいんだよ、と優しく肯定した。
「この船の在り様を思えば、愛海が怯えるのも当然だ。少年の格好をしていて良かったと俺も思っている。連中に知られていたら、どんな目にあわされたか……今までよく頑張ったな」
 大きな手で頭を撫でられると、目の奥が熱くなるのを感じた。焦って目を瞬いて、涙が流れぬよう目に力をこめる。
「これまでずっと、助けてくれて、力になってくれて、本当にありがとうございます。今こうして生きていられるのは、全てジンシンスさんのおかげです……っ」
 涙がもりあがり、視界はどんどんぼやけていく。零れ落ちる前にさっと指でぬぐった。
「よく頑張った」
 ジンシンスの声は優しかった。声にすると震えそうで、愛海はこくんと頷く。
 泣き顔を見られまいと俯く少女がいじらしくて、ジンシンスは無償に慰めてやりたくなり、長身を屈めて抱きしめた。
「本当に……よく頑張った。さぞ不安だったろうに」
 優しく抱きしめらると、愛海の目はたちまち潤み、ぽろっと涙が頬を流れおちた。こらえようもなく、せきを切ったように涙が溢れでてくる。
 ずっと辛かった。誰かに判ってほしかった。救いあげてほしかった。こんな風に――
 おずおずと首に腕を巻きつけ、愛海は熱い涙を流した。嗚咽を噛み殺そうとしたが、優しく、痛みをとりのぞこうとするように背中を撫でられると、どうしても嗚咽が漏れた。
「ふ、うぇ、えっ……」
 一度泣きだしたら止まらなくなった。
 次から次へと、涙が頬を濡らしていく。たくましい腕が愛海を包みこみ、震える背中や腕をさすりながら、頭のてっぺんにくちづける。瞼に、頬に、こめかみに、慈雨のごとくキスの雨を降らせる。優しい抱擁と慰めの言葉が、愛海の両目から涙をいっそう溢れさせた。
 泣きじゃくる愛海をジンシンスは膝に抱えあげて、子供をあやすようにその身をそっと揺すってやる。
「よく頑張った。本当によく頑張った」
 耳元で囁くと、柔らかい黒髪が頬をかすめた。愛海はしゃくりあげながら、知らず知らずジンシンスの胸に頬を寄せていた。
 ジンシンスを信頼して身をすり寄せてくる愛海の姿には、深く胸を打つものがあった。真っ赤な頬を涙が伝うたびに、万力で胸を締めつけられているように感じられた。
 初めてあった時から、とても内気で、自分の殻にとじこもった少女だった。彼女の全ての言動には、用心と自制、恐怖さえも滲んでいた。巨躯の男共に囲まれて、どれほどの緊張を強いられていたのか、ジンシンスには想像もつかぬ負担だったに違いない。
 彼女の心が落ち着くまで、ジンシンスは華奢な躰を抱きしめたまま、子供にするように軽く揺すっていた。
 やがて嗚咽も小さくなり、肩を震わせながら泣いていた愛海は、今は熱を帯びた瞼を眠たげに半ば伏せ、時折小さく肩を揺りあげるまでに落ち着いた。
「……君は、幾つなんだ?」
「もうすぐ十六……十四歳です」
 船での単位にあわせて十二進数換算でいい直した愛海は、ふと気まずい思いを噛み締めた。ジンシンスが愛海の頭の先から、あるかないかの胸の膨らみに目を走らせたのだ。まぎらわしいほど少年っぽい躰つきをしていることに、罪悪感を覚えてしまう。
「……ごめんなさい、黙っていて」
 ジンシンスは信じられないという顔で、口を掌でおおった。
「いや……おかしいとは思っていたんだ。しかし、俺は本当に間抜けだな」
 愛海は肩を縮めながら、頸を振った。最近はともかく、最初のうちは小さな子供に思われていた自覚はある。
「ごめんなさい」
「いや、俺の方こそ悪かった……色々と勘違いをして、配慮が足りていなかった」
 年端もゆかぬ少年と思っていたから、抱きしめ、抱きあげ、膝に乗せてあやしたり、あまつさえ自ら風呂に入れようとしたことすらある。
 数々の痛々しい勘違いを思い返すたびに、今でも呻きたくなる。大失態もいいところだ。謝らなければならないのは、ジンシンスの方だろう。
 つい抱きしめる腕に力が入ると、愛海はおずおずとジンシンスを仰ぎ見た。
「……ジンシンスさんは悪くありません。僕、わ……たしが、嫌われるかもしれないと思うと、怖くて、打ち明けられなかったんです……ごめんなさい」
 上目遣いに謝る様子があまりにもかわいらしくて、ジンシンスはほほえまずにはいられなかった。
「お前を嫌うものか。こんなにかわいくて愛おしいのに……好きだよ」
 愛海は真っ赤になり、なにかをいおうとして……いえなくて、おろおろと視線を伏せた。
 微笑する気配がして、顔をあげると、ジンシンスは笑いをこらえるように口を手で覆っていた。からかわれたのだと思って、愛海は頬はぷっとふくらませる。子供っぽい真似をしたかなと思ったが、熱心に見つめてくるので余計に恥ずかしくなった。
「……見ないでください」
 どうしていいか判らず両手に赤面を沈めると、前髪を軽く引っ張られた。
「そんなに照れるなよ」
 くすくすとジンシンスは微笑する。湯気がでそうなほど赤面している愛海を甘く見つめていたが、不意に笑みをおさめ、真剣な顔で愛海を見つめた。
「……俺に嫌われるのが怖かったのは、俺が庇護者だから?」
 碧い眼差しに、不断にはない熱がこもっている気がして、愛海の体温はさらに急上昇した。彼が絶対的庇護者であることは間違いないが、嫌われたくないと思ったのは、それ以上に――
「ジンシンスさんのこと、好き、だから……」
 赤面症が顕れている自覚はあったが、目を見つめてった。たどたどしい口調でも、愛海の精一杯だった。
 一瞬の沈黙があり、ぎゅっと抱き締めれた。濃厚な蜂蜜と柑橘の香り、うっとりするようなあたたかさに包まれる。
「嬉しいよ」
 ジンシンスの方も、そう囁くのが精一杯だった。
 驚くほどの歓喜が胸にこみあげ、衝動的にくちびるを奪いそうになったのだ。
 舌を搦めて深く貪りたい。そのような男の欲を、この心映え大人しい少女に露骨にぶつけたならば、酷く怯えさせてしまうだろう――そう己をいましめ、抱きしめることでやり過ごしたのである。
 永い生において、これほど誰かに惹きつけられたのは初めてのことだ。とうの昔に成人したはずなのに、まるで初恋のようだと思う。
 しかし想いをもらえたなら、これくらいは……と、ジンシンスは身を屈めて、触れるだけのキスをした。
「っ!!?」
 それでも、愛海には驚天動地の衝撃だったらしい。緋桃みたいに紅くなり、へなへなとくずおれそうになるので、慌てて腰に腕を回した。
「大丈夫か?」
 こくこくと頷いているが、声もだせないらしい。ここまで初心うぶとは――良かった、踏みとどまって。ジンシンスは内心で安堵する。
「ゆっくりでいいから、慣れてくれ」
「はぃ……」
 腕のなかで照れている娘が愛おしい。
 かわいい愛海。人目を引くような娘ではないのに、不思議なほど惹きつけられる。
 外見だけをいえば、ごく普通の娘だ。小柄で薄い顔立ちのなか、林檎のように赤い頬ばかりが目立つ、艶のない短髪といい、いわゆる美人とはいえないが、それにも増して豊かで眩しい感性に満ち溢れている。
 或いは自分の好意がそう見せるのか、愛海の稚ない純朴さが、いっそうかわいらしく見えるのだ。
 好きだと自覚してしまうと、急速に堕ちていく気がする。
 強くかき抱きたい。溺れるほど甘やかしたい。彼女の全てが欲しい。そして求める気持ちと同じくらい深く、大切にしたいと思う。
 そういった感情を、人間に抱くとは思っていなかったが、彼女は特別なのだ。
 結局、成長を見守るのも楽しみだから、まだしばらくは優しい庇護者でいよう……
 気がつくとジンシンスは、微笑を浮かべていた。愛海といると、気付かぬうちにほほんでいることがしばしばある。
 恐らく、これが幸せというものなのだろう。
 とても満ち足りた気分で、晴れた日の海のように心が温かい。いつもより鼓動は少しだけ速く、太陽みたいにさんと明るい感動が胸を浸した。