燈幻郷奇譚

2章:桜降る蓬莱山 - 1 -

 蓬莱山の緋桜邸。
 小春日和の午下ひるさがり、雲雀ひばりが歌い、空には桜の花びらが旋回ピルエットを踊っている。
 亜沙子は庭に面した勾欄こうらん風の欄干らんかんで、月胡をつま弾いていた。
 最近、午前中はいつもここで月胡を奏でている。
 目の前には藤の棚、すぐ下は池になっており、水辺の風雅な光景を楽しめるのだ。
 独りで練習していると、みやびやかな衣擦れの音をさせて、紅桔梗べにききょう色の紋羽二重もんはぶたえを羽織った一世がやってきた。
「あれ、今日はお出かけしないのですか?」
 月胡を構えたまま訊ねる亜沙子を見て、一世は優しくほほえんだ。
「するよ。少し時間が空いたから、亜沙子の様子を見にきたんだ」
「あら。じゃあ、お茶でも煎れましょうか」
 亜沙子が楽器を置こうとすると、よい、と一世は手で制した。侍女を呼びつけて茶を持ってくるよう命じると、亜沙子の隣に腰を下ろす。
「月胡の音が聴こえてきて、思わず誘われてきてしまった。いい音を出すようになったね」
「本当ですか?」
「うん。上達したと紫蓮も褒めていたよ」
「ありがとうございます」
 亜沙子がはにかむと、一世は優しげに瞳を細めた。
「この時間、欄干の傍をうろつく者が増えたと灯里が零していたよ」
「え?」
「亜沙子がここで弾いていることを知って、耳をそばだてているのだろう」
「あら」
「弾いてごらん。見てあげる」
「いいんですか?」
「もちろん」
 天狼は音楽を好むという。実際、郷には歌舞音曲に通暁つうぎょうしている者が多く、手の空いている侍女や、時には、今日のように一世に亜沙子は師事していた。
 亜沙子は月胡を構え直すと、一呼吸してから弦を弾いた。ギターに似た楽器は、つま弾くと素敵な音色を響かせる。高音は水晶を転がしたような、低音は身体を震わせるような響き。
「うん、本当にいい音を出すようになったね」
「ありがとうございます!」
「譜面のここ、少し音が走りすぎているかな。指を見せてごらん」
 一世は亜沙子の背に回り、後ろから抱きしめるようにして、亜沙子の指に触れた。
「ほら、指はここに」
「……こうですか?」
 平静を装っているが、亜沙子は内心で悶えていた。基本となる手の形を教えてくれているのだが、意識がおかしな方に逸れてしまう。
「弦を押さえる指は、基本的に決まっているものだよ。もちろん、曲によって変化はするけれど」
 首を傾げる亜沙子を見て、一世は手本を見せてくれた。同じ楽器で、同じ曲を弾いているとは思えぬほど、深みのある音が響く。
「やってごらん」
「はい」
 見た通りに弦を弾くが、何かが違う。何度か繰り返し、亜沙子は肩を落とした。
「……永遠に、一世さんに追いつけない気がする」
「そんなことはない。亜沙子は、良い耳をしているよ」
「耳?」
「私の音を聞いただけで、再現しようとする。音を聞き分ける才能があるんだ」
「……そうでしょうか」
「技巧を凝らした演奏や指遣いよりも、天性の音感は尊い。学ぼうと思って、学べるようなものではないからね。亜沙子は、良い弾き手になるよ」
「……ありがとうございます」
「ほら、弾いてごらん」
「はい」
 音を紡ぐと、一世は演奏する亜沙子の指を注視した。その視線の強さは、亜沙子の胸を甘く震わせる。
 彼は、微に入り細に穿ったような指導はしない。それよりも、弾くことの楽しさを教えてくれる。
 教わる度に、もっと、もっと弾けるようになりたい――自然とそう思わせられるのだ。
「疲れた?」
 亜沙子は手を休めた。少し、と答えて楽器を置いた。つい夢中になってしまい、指も肩も、腰まで痛くなっている。
「頑張ったね。休憩にしようか」
「はい」
 見計らったように、灯里がたっぷりの湯でてたお茶を盆で運んできた。筒茶碗を手に持ち、息を吹きかけていると、一世に髪を撫でられた。
「本当に上達したね、亜沙子。この先が楽しみだな」
「えへ……」
 子供の頃にピアノを習っていた時はすぐに飽きてしまったが、月胡は毎日弾いていても飽きることがない。
 音に魅了されることもあるが、上達する度に、一世が褒めてくれるからかもしれない。