燈幻郷奇譚

2章:桜降る蓬莱山 - 6 -

 蓬莱山にかかっていた雨雲は、十日後にようやく離れ、そのあとはからりと晴れた。
 久しぶりに外へ出てみると、やはり子供達も天狼の姿で外を走りまわっていた。追い越し、追い越され、楽しそうに駆けっこしている。
 遠目に眺めながら散歩をしていると、凛夜が草原でごろごろ背中をこすりつけているのを見つけて、思わず足を止めた。
「どうしたのー?」
 近寄りながら声を張り上げると、凛夜は顔を上げて尾を揺らしたものの、すぐにまた背中を地面にこすりつけ始めた。
「うがぁッ、痒くてたまらん!」
 どうやら、翼の下が痒いらしい。抜け落ちた羽毛が宙に舞っている。
「ちょっとみせて」
 慎重に傍へ寄ると、凛夜もうっかり亜沙子を押し潰さぬよう、腹を地面につけて伏せの姿勢をした。
「じっとしていてね。掻いてあげるから」
 亜沙子は袋包みから櫛を取り出すと、凛夜の翼を持ち上げてかしてやった。
「くあぁ~……いい気持ちじゃ。もちっと、上……そぉ、そぉ、そこそこ~」
「はいはい」
 凛夜は瞳を糸のように細めて、尾をわっさわっさと忙しなく振っている。
 そうするうちに、他の天狼も集まってきた。我も、我も、と催促してくる。あっという間に囲まれてしまい、亜沙子はその場を離れることができなくなってしまった。
「はいはい、順番にね」
 亜沙子は袖をまくって気合いを入れると、美容院よろしく、櫛を構えた。子供でも亜沙子の背丈を越える巨躯なので、梳かすのも一苦労だ。
 どうにか全員を梳かし終えると、すっかり疲れてしまい、野原に寝転がった。うとうと微睡み、数分ほど浅い眠りに落ちる。
「……ん?」
 草を踏みしめる音に目を開けると、顔の隣に息絶えた野兎が横たわっていた。
「ひぃっ」
 何事かと思ったら、傍にお行儀よく足をそろえて座る凛夜がいた。どうやら獲物を捕ってきてくれたらしい。
「……もしかして、くれるの?」
「お礼じゃ」
 彼等は時々、独りで獲物を捕れない亜沙子の為に、餌を捕ってきてくれる。
 気持ちは嬉しいのだが、不意打ちで持ってこられる度に心臓が止まりそうになる。
「ありがとう」
 頭を撫でてやると、凛夜は嬉しそうに尾を左右に振った。亜沙子の手をぺろっと舐める。
「姫様、僕もお礼です」
 ふり向くと、人の姿をした和葉が藤の籠を持ってやってきた。
「畑で採れた水茄子です」
 籠に入った、色鮮やかな野菜を見て、亜沙子は目を輝かせた。
「わぁ、美味しそう」
「良かったら、もらってください」
「嬉しいな。二人ともありがとう」
 ほくほく礼を告げると、他の子供達も入れ替わり立ち替わり、亜沙子に土産を持ってき始めた。
 新鮮な山菜、磯釣りした川海老。木の実。
 結構な量になり、持ち帰れるか不安になったところで、和葉が荷車を運んできた。
「これに乗せて、邸までお届けしますよ」
「ありがとう! 助かる」
「いえいえ」
 人の姿に変わった天狼達は、荷車に土産を積むのを手伝ってくれた。一方で天狼の姿のままでいる子供達は、荷車を押したがった。
 邸に戻ると、亜沙子は裏口から炊事場に入り、割烹着姿の灯里に声をかけた。
「灯里さん、子供達からお土産をたくさんもらいました」
 籠に入った野菜を見せると、灯里は菜箸さいばしを持ったまま顔を綻ばせた。
「あら、美味しそう。今晩は、お野菜の天ぷらにしましょうか」
「やった。今、凛夜達が荷車で運んできてくれたんですけど、こっちに持ってきていいですか?」
「はい。お運びいたしますね」
 炊事場にいた料理人達は、凛夜達から土産を受け取ると、代わりに饅頭を渡してやった。子供たちはほくほくした笑顔で、手を振って帰っていく。
 子供達と判れたあと、亜沙子は炊事場で料理人達と四方山話よもやまばなしに花を咲かせた。盛り上がっていると、夕餉の煙に誘われたのか、一世が顔を覗かせた。
「お帰り、亜沙子」
「ただいま戻りました」
 返事をして、炊事場から大廊下に上がると、靴下が汚れていることに気がついた。
 ちょっと恥ずかしそうにしている亜沙子を見て、一世は小さく微笑した。
「お転婆さん、今日はどこを転げまわってきたのかな?」
 お転婆、という言葉に亜沙子は軽い衝撃を受けた。
「……菜の花の原っぱです。凛夜達と遊んでいました」
 天狼達と野を駆けずり回ったせいで、綺麗な瑠璃色の扇面流せんめんながの着物には、葉や土がついていた。
「すみません、お着物を汚してしまって」
「気にしなくていい、洗えば済むのだから。楽しかった?」
「はい」
 ここへきてからというもの、自然の中で遊ぶことが本当に増えたと思う。
 一世は優しく眼を細めると、おもむろに顔を下げて、亜沙子の首筋にうずめた。
「ひゃぁ」
 吐息が肌にかかり、亜沙子は縮こまった。一世は顔を離すと、不服そうな顔で亜沙子を見下ろした。
「それにしても、随分と匂いをつけられたね。一体何をしていたのかな?」
「ちょっとグルーミングを……」
「グルーミング?」
「こう、櫛を使って梳かすんです」
 身振りで伝えると、一世は目を輝かせた。
「へぇ、私にもしてくれる?」
「いいですよ」
 亜沙子が快諾すると、約束だよ、と一世は嬉しそうに尾を揺らした。
 その日の夕飯は、兎肉の串焼き、春野菜の天ぷらが振る舞われた。
 新鮮な料理に舌鼓を打ったあと、一世は亜沙子の部屋にやってきた。いきなり天狼の姿に変わると、かしてくれといわんばかりに、交差した前脚に頭を乗せて床に伏せる。
「これでいい? よろしく頼む」
「はいはい」
 腕まくりをした亜沙子が梳り始めると、一世はうっとり目を細めた。
「……なるほど、これは気持ちがいい」
「本当? 良かった」
 日頃の恩返しとばかりに、亜沙子は腕を振るって奉仕した。一世の目はとろんとしていて、今にも眠ってしまいそうだ。
「……一世さん、眠い? わぷっ」
 顔を覗きこむと、舌で舐められた。
「ありがとう、とても気持ち良かった。今度は私がしてあげよう」
「え?」
 一世は人の姿に戻ると、攫うようにして亜沙子の身体を持ち上げた。
「わっ!?」
 寝椅子にかけて、膝の上におろされる。亜沙子は赤面しながら、あられもなくめくれている裾を、ささっと直した。
 一世は鼻歌混じりに、亜沙子の髪を櫛で梳り始めた。端正な顔がすぐ傍にあり、正面を向いていられない。さりげなく顔を背けていると、手の甲で頬を撫でられた。
「私のかわいい姫君。こっちを向いておくれ」
「ッ!」
 一世はわざわざ亜沙子の赤面を覗きこんでくる。
「そのように照れて、かわいらしいね」
「もぅ、見ないでください」
 膝から降りようすると、腰を引き寄せられて、ぴったりと抱きしめられた。首すじに一世の吐息がかかり、亜沙子は息を止めた。
「……うん、私の匂いしかしない」
「え?」
「毛繕いは親しい男女がするものだよ。亜沙子、もう他の天狼にしてはいけないよ」
「そうなんですか?」
 一世は亜沙子の手を持ち上げると、甲にそっと唇を落とした。
「……このなめらかな肌、小さくて華奢な骨格で一生懸命に尽くされたら、誰だってくらっときてしまう」
「変なことをいわないでくださいよ」
 亜沙子はさりげなく手を取り返すと、冷静を装って答えた。
「気をつけなさい。次に他の天狼の匂いをさせていたら、くまなく上書きするからね」
 膝から大腿の中腹をさらりと掌で撫でられて、亜沙子は慄いた。逃げようとする身体を、一世は容易く片手で支えると、もう片方の手で亜沙子の顎をしゃくった。
「判った?」
「はいっ! 判りました! よく気をつけますッ!!」
 慌てふためく亜沙子を見て、一世は声に出して笑った。