燈幻郷奇譚
4章:天狼と見る夢 - 1 -
黎明の空に白い満月が浮かんでいる。
約束通り、天から迎えがやってきた。蒼闇を縫って走る雅な飛車 が、ゆっくりと空の高いところから、緋桜邸 の庭に降りてくる。
天狼達は、寂しそうに亜沙子を見守っている。後ろ髪を引かれつつ、亜沙子は天帝に仕える天上人、笹良の前でお辞儀をした。
「準備はいいかえ?」
「はい、よろしくお願いいたします」
飛車に乗りこもうとする亜沙子の手をとり、一世は優しく抱き寄せた。
「辛いことがあれば、この香を焚いて知らせなさい。すぐに迎えにいくから」
手に握らされた黒くて丸い香を、亜沙子は大切に胸に抱きしめた。
「はい。ありがとう、一世さん」
「三日を過ぎても亜沙子が戻らねば、こちらから迎えにいくからね」
一世は亜沙子の髪を優しく撫でながら、冷たい一瞥を笹良に投げた。その鋭い視線を正面から受け留めて、笹良は鷹揚に頷いた。
「判っておる。天地神明に誓って、三日経ったら亜沙子を迎えにいくよ」
「その言葉、忘れるなよ」
空気が緊張を帯びるのを感じて、亜沙子は二人に笑みかけた。
「いってきます、一世さん、皆さん」
亜沙子が皆の顔を見回して笑むと、笹良は琺瑯 のように白い手を差し伸べた。
「いくかえ?」
「はい……」
ほっそりした手に、そっと自分の掌を重ねて、亜沙子は梯子に足をかけた。
飛車に乗る前にもう一度振り返り、集まった天狼達、一世の顔を視界に収めた。いつもはぴんとしている三角の耳が、心無し元気なさそうに横に伏せている。
いよいよいくのだと思うと、不安に押し負けそうになる。
本音をいえば、郷を離れるのは怖い。きちんとお役目を果たせるのか。何が起こるかも判らない……けれど、一世は迎えにきてくれるといった。
「いってきます」
迷いを断ち切るように、亜沙子はほほえみ、御簾 の中へ入った。
シャン、と鈴が鳴る。
窓越しに、一世に向かって手を振ると、一世も手を軽くあげて応えた。心細さが顔に出ないよう、亜沙子はつとめて明るく笑った。
飛車は揺れることもなく宙に浮くと、瞬く間にお山を見下ろした。
オォーン……別れを惜しむ天狼の遠吠えが聴こえてくる。
亜沙子は小窓を覗くと、耳を欹 て、郷の方角を見つめた。
「大切にされているのう」
笹良は好ましい者を見るような眼差しで、亜沙子を見た。
「滅多にお山を出ないから、皆も私も少し不安で……たった三日なのに」
「案ずるな。ちゃんと帰してやる。主上も、亜沙子と天狼主 を引き放つつもりはないよ」
「……私が一世さんの傍にいることを、天帝は快く思っていないのではありませんか?」
「いいや。主上は、亜沙子のことを気にかけていらっしゃる」
「……」
「三日後には、また御幸 の迎えにくる。心おきなく、お役目を果たすが良い」
「……本当に、私にできるのでしょうか?」
「その時になれば判る。人の身で、天狼に愛されている亜沙子だからこそ、双方の橋渡しとなれると主上も期待しておられる」
亜沙子は微妙な表情で頷いた。
「私、偏 っていますよ。人の暮らす彩国より、天狼のいる幻燈郷の方が大切なんです」
笹良はくすりと微笑した。
「構わぬ」
「期待に応えられるといいけれど……大王のご病気や天災は、天帝の仕業ではないのですよね?」
「そうともいえるし、違うともいえる。この世で起こるあらゆる出来事には起因があり、その全てを天帝は把握されているが、全てに干渉されるわけではない」
「……」
困惑する亜沙子を見て、笹良は瞳を和ませた。
「主上は、小さき者にも慈しみを傾けられる。故に亜沙子に彩国の訪 いをお命じになられたのじゃ」
答えになっているようで、何一つ判らないような気もする。
「天帝は、どのような御方なのでしょう?」
「知識と命の泉じゃ。この世の森羅万象に通ずる、尊い御方にあらせられる」
「尊敬していらっしゃるんですね」
亜沙子の言葉に、笹良はほほえんだ。
「わたくしの主上だもの」
嬉しそうに告げる天女の表情は、あどけない少女のようで、亜沙子は始めて彼女に親しみを覚えた。
間もなく、眼下に彩国が見えてきた。
美しい都だ。網目のように家々が並び、とても整然としている。通りは広く、大きな菩提樹が往来の左右に連なっている。
歴史を感じさせる楼閣 の瓦 が、日差しを弾いて金色に輝く様が、なんとも美しい。
飛車は、彩国の中枢である凌雲宮 の敷地内に舞い降りた。笹良と亜沙子が姿を現すと、集まっている人々は恭しく首を垂れた。その中には彩国の大王、旭宮 暁暉 の姿もある。
冷たい木枯らしが吹いて、亜沙子は忘れかけていた冬の寒さを思い出した。悠久の春を謳歌する燈幻郷と違い、下界には季節の移ろいがあるのだ。
手に持っていた猩々緋 の外套を羽織ると、こちらを見る銀色の眼差しと目が合った。
「お待ちしておりました。彩国を代表して、御礼を申し上げます」
暁暉の丁寧な口上に、亜沙子は恐縮しながら会釈をした。
「ご丁寧にありがとうございます。三日間、お世話になります」
「御礼を申し上げるのはこちらの方です。心を尽くしてお仕えさせていただきます」
真摯な銀色の瞳が、亜沙子を映す。
成り行きを見守っていた笹良は、そっと亜沙子の肩を抱き寄せると、人の王に向かって居丈高にいい放った。
「判っておうろが、この娘は、蓬莱山 の天狼主 の大切な寵姫 である。傷一つつけてはならぬぞ」
「承知しております」
大王は恭しく首を垂れた。
「三日後に迎えに参る。亜沙子の身に何かあれば、身の破滅と心得よ」
「しかと承りました」
「心をこめて尽くすように……亜沙子、心穏やかに待つがよい」
「はい」
輿に乗りこむ笹良を、亜沙子は心細い思いで見つめた。美貌の天女は、扇を閃かせ、万人を魅了するであろう笑みを浮かべた。
「亜沙子、またくる」
「はい。お迎えをお待ちしております」
「うむ。三日後にな」
雅やかな鈴の音を鳴らして、飛車は宙に浮きあがった。高雅な香りを漂わせ、黒塗りの車は空へ昇っていく。
天上人の一行が見えなくなると、亜沙子は改めて大王に向き直った。
視界の凄まじさに圧倒される。
大王を始め、集まった彩国の貴顕 達は、亜沙子を前にして一様に首を垂れている。
大王の病を本当に治すことができるのだろうか?
敬虔な人々に傅 かれながら、亜沙子の胸は不安でいっぱいだった。
約束通り、天から迎えがやってきた。蒼闇を縫って走る雅な
天狼達は、寂しそうに亜沙子を見守っている。後ろ髪を引かれつつ、亜沙子は天帝に仕える天上人、笹良の前でお辞儀をした。
「準備はいいかえ?」
「はい、よろしくお願いいたします」
飛車に乗りこもうとする亜沙子の手をとり、一世は優しく抱き寄せた。
「辛いことがあれば、この香を焚いて知らせなさい。すぐに迎えにいくから」
手に握らされた黒くて丸い香を、亜沙子は大切に胸に抱きしめた。
「はい。ありがとう、一世さん」
「三日を過ぎても亜沙子が戻らねば、こちらから迎えにいくからね」
一世は亜沙子の髪を優しく撫でながら、冷たい一瞥を笹良に投げた。その鋭い視線を正面から受け留めて、笹良は鷹揚に頷いた。
「判っておる。天地神明に誓って、三日経ったら亜沙子を迎えにいくよ」
「その言葉、忘れるなよ」
空気が緊張を帯びるのを感じて、亜沙子は二人に笑みかけた。
「いってきます、一世さん、皆さん」
亜沙子が皆の顔を見回して笑むと、笹良は
「いくかえ?」
「はい……」
ほっそりした手に、そっと自分の掌を重ねて、亜沙子は梯子に足をかけた。
飛車に乗る前にもう一度振り返り、集まった天狼達、一世の顔を視界に収めた。いつもはぴんとしている三角の耳が、心無し元気なさそうに横に伏せている。
いよいよいくのだと思うと、不安に押し負けそうになる。
本音をいえば、郷を離れるのは怖い。きちんとお役目を果たせるのか。何が起こるかも判らない……けれど、一世は迎えにきてくれるといった。
「いってきます」
迷いを断ち切るように、亜沙子はほほえみ、
シャン、と鈴が鳴る。
窓越しに、一世に向かって手を振ると、一世も手を軽くあげて応えた。心細さが顔に出ないよう、亜沙子はつとめて明るく笑った。
飛車は揺れることもなく宙に浮くと、瞬く間にお山を見下ろした。
オォーン……別れを惜しむ天狼の遠吠えが聴こえてくる。
亜沙子は小窓を覗くと、耳を
「大切にされているのう」
笹良は好ましい者を見るような眼差しで、亜沙子を見た。
「滅多にお山を出ないから、皆も私も少し不安で……たった三日なのに」
「案ずるな。ちゃんと帰してやる。主上も、亜沙子と
「……私が一世さんの傍にいることを、天帝は快く思っていないのではありませんか?」
「いいや。主上は、亜沙子のことを気にかけていらっしゃる」
「……」
「三日後には、また
「……本当に、私にできるのでしょうか?」
「その時になれば判る。人の身で、天狼に愛されている亜沙子だからこそ、双方の橋渡しとなれると主上も期待しておられる」
亜沙子は微妙な表情で頷いた。
「私、
笹良はくすりと微笑した。
「構わぬ」
「期待に応えられるといいけれど……大王のご病気や天災は、天帝の仕業ではないのですよね?」
「そうともいえるし、違うともいえる。この世で起こるあらゆる出来事には起因があり、その全てを天帝は把握されているが、全てに干渉されるわけではない」
「……」
困惑する亜沙子を見て、笹良は瞳を和ませた。
「主上は、小さき者にも慈しみを傾けられる。故に亜沙子に彩国の
答えになっているようで、何一つ判らないような気もする。
「天帝は、どのような御方なのでしょう?」
「知識と命の泉じゃ。この世の森羅万象に通ずる、尊い御方にあらせられる」
「尊敬していらっしゃるんですね」
亜沙子の言葉に、笹良はほほえんだ。
「わたくしの主上だもの」
嬉しそうに告げる天女の表情は、あどけない少女のようで、亜沙子は始めて彼女に親しみを覚えた。
間もなく、眼下に彩国が見えてきた。
美しい都だ。網目のように家々が並び、とても整然としている。通りは広く、大きな菩提樹が往来の左右に連なっている。
歴史を感じさせる
飛車は、彩国の中枢である
冷たい木枯らしが吹いて、亜沙子は忘れかけていた冬の寒さを思い出した。悠久の春を謳歌する燈幻郷と違い、下界には季節の移ろいがあるのだ。
手に持っていた
「お待ちしておりました。彩国を代表して、御礼を申し上げます」
暁暉の丁寧な口上に、亜沙子は恐縮しながら会釈をした。
「ご丁寧にありがとうございます。三日間、お世話になります」
「御礼を申し上げるのはこちらの方です。心を尽くしてお仕えさせていただきます」
真摯な銀色の瞳が、亜沙子を映す。
成り行きを見守っていた笹良は、そっと亜沙子の肩を抱き寄せると、人の王に向かって居丈高にいい放った。
「判っておうろが、この娘は、
「承知しております」
大王は恭しく首を垂れた。
「三日後に迎えに参る。亜沙子の身に何かあれば、身の破滅と心得よ」
「しかと承りました」
「心をこめて尽くすように……亜沙子、心穏やかに待つがよい」
「はい」
輿に乗りこむ笹良を、亜沙子は心細い思いで見つめた。美貌の天女は、扇を閃かせ、万人を魅了するであろう笑みを浮かべた。
「亜沙子、またくる」
「はい。お迎えをお待ちしております」
「うむ。三日後にな」
雅やかな鈴の音を鳴らして、飛車は宙に浮きあがった。高雅な香りを漂わせ、黒塗りの車は空へ昇っていく。
天上人の一行が見えなくなると、亜沙子は改めて大王に向き直った。
視界の凄まじさに圧倒される。
大王を始め、集まった彩国の
大王の病を本当に治すことができるのだろうか?
敬虔な人々に