霧雨の降る、蓬莱山。
 亜沙子は日課の月胡を手にしたものの、欄干らんかんで弾く気になれず、部屋に籠っていた。
 あの晩、宴で笹良と一世の共演を聴いてから、人前で、とりわけ一世に聞かせるのが恥ずかしくなってしまったのだ。
「誰かと比べても、しょうがないのだけれど……」
 亜沙子は憂鬱なため息を零した。
 気分は晴れず、音にまるで魅力を感じられない。
 ふと、どこからか、雨の音にまじって月胡の調べが聴こえてきた。
 亜沙子の好きな曲だ。
 雨滴を地面が吸うように、その音色は、不思議なほど亜沙子の心に染みとおった。
 聴き入っていると、ぱたりと旋律が止んだ。少し間を置いて、簡単な和音が聴こえてきた。
「あ……」
 これは音遊びだ。お互いの音を真似する遊び。音に誘われて、亜沙子も和音を鳴らした。
 また別の音の並び。同じように真似をして、今度は亜沙子が音を鳴らした。一世も同じように音を真似る。
「ふふ」
 繰り返すうちに、自然と笑みがこぼれた。言葉はなくても、音が教えてくれる。
 もっと遊ぼう。楽しもうよ、と。
 音楽を分かち合うのに、言葉なんていらないんだってことを、改めて実感した。
 音遊びを繰り返し、やがて美しい旋律を共に奏で始めた。先日の笹良と一世のように。
 いや、もう人と比べるのはやめよう……今こうして、共に弾くことが楽しいのだから。
 清々しい気持ちで、亜沙子は月胡を弾いた。
 一曲を弾き終えると、音が止んだ。もう少し遊びたくて、亜沙子の方から部屋を出た。
 欄干へ向かうと、おとないを知っていたかのように、一世はそこにいた。
「亜沙子。久しぶりだね」
 一世は眼を優しく細めて、憂いを含んだほほえみを浮かべた。
「……はい。こんにちは」
「こんにちは。とてもいい音だったよ」
「ありがとうございます」
「寂しかったよ。ここのところ、私の前では月胡を弾いてくれなかったものだから」
「すみません……」
 亜沙子は気まずげに視線を落とした。
「こっちへきて、お座りよ。そうしたら許してあげる」
「はい」
 隣に座ると、心得たように、灯里が茶を運んできた。
 しとしと降る雨を眺めながら、亜沙子は湯呑茶碗を手にとった。
 斜めに突き出たひさしから、降りしぶく雨は水晶の連なりのように滴り落ちていく。灰色の石畳に落ちては弾け、濡れそぼったまま貼りつく若葉色の木の葉を、いっそう鮮やかに見せている。
 風情のある情景を見ているうちに、心は凪いでいった。
「……雨もいいものですね。癒されます」
「私は亜沙子に癒されるよ」
「……」
 甘い台詞に、亜沙子は赤面して言葉を失った。
「雨の音をお聴きよ」
 そういわれて顔をあげると、しとしと降る、優しい雨の音に耳を澄ませた。
「心の安らぎに技巧の有無は関係ないことを、教えてくれる。私にとって、亜沙子の月胡そのものだよ」
 一世は目を細めると、強く亜沙子を抱き寄せた。覆い被さるように端正な顔を寄せて、そっと唇を重ねた。
「好きだよ、亜沙子」
 胸が、じんと甘く痺れた。
「……私も好きです」
「これからも、傍にいてくれる?」
「許される限り」
 祈るように告げると、一世は怖いくらいに真剣な瞳で亜沙子を見つめてきた。
「亜沙子をつがいにしたい」
 しとしと、雨の音が聴こえる。
「……他にも番はいる?」
 衝撃にそなえて、心を無にしながら亜沙子はそっと訊ねた。
「何をいう? いないよ」
 え、と亜沙子は目を瞠った。一世もまた、驚いたように亜沙子を見ている。
「……天狼は長寿だから、番うのが遅いんだ。その分、愛情深い。生涯ただひとりと添い遂げる」
「でも……」
 本当に、生涯ただひとり? 答えを探すように見つめていると、額に柔らかく唇を押し当てられた。
「おかしいな。かなり率直に、態度で示したきたつもりなのだけれど」
「……え、でも、恋人はいるでしょう?」
 首を傾げる亜沙子を見下ろして、一世は不機嫌そうに眉をひそめた。
「……私は亜沙子に求婚しているのだが? なぜ、他の女の存在を疑われねばならぬ」
 視線を泳がせると、顎に手をあてがわれた。顔を背けられない。
「いいから、私の番になりなさい。不安に思うことなど何もないから」
「……はい」
 亜沙子もようやく、素直に返事をした。一世の言葉を疑う気持ちより、喜びの方が遥かに大きい。
 見つめ合ったまま、一世は、おもむろに陶製の酒瓶の口をあけた。
 馥郁たる香りが辺りに漂う。
 ぐいっと煽ったかと思えば、亜沙子の腕を引いて、胸の中に抱き寄せた。端正な顔が降りてきて、唇を塞がれた。
「んっ!?」
 唇をしっとりとふさがれる。隙間なく唇が重なり、冷たい酒が喉に流れこんできた。
 亜沙子は慌てて腕を突き出そうとするが、びくともしない。
 観念して喉を鳴らした。
 酒の香のたえなること。
 馥郁たる芳香が口いっぱいに広がり、まろやかな酒精が舌の上を転がっていく。ゆっくりと嚥下すれば、五臓六腑にしみこんでいく。いつまでも味わっていたい、夢のような酒だ。
 しばし陶然としていた亜沙子だが、濡れた唇を優しく指でぬぐわれて我に返った。
「一世さんッ」
「ふふ」
 額に、ちゅっ、とかわいらしいキスが落ちた。亜沙子の胸は、はちきれんばかりに高鳴ったが、誤魔化すように平坦な表情を装った。
「いきなり何するんですか!」
 諫めると、一世はおかしそうに笑った。
「怒る亜沙子もかわいい」
「信じられない! 口移しで飲ませるなんて」
 亜沙子は睨みつけたが、一世はどこ吹く風だ。
「もっと飲ませてあげようか?」
「自分で飲め……ン――ッ」
 再び唇が重なり、酒を流しこまれた。
「もうやめて……」
 喘ぐように小声でささやくと、一世はぴたりと止まった。探るように亜沙子の顔を覗きこんだ。
 青と金の双眸に、心の底まで見透かされそうで、亜沙子は目を合わせることができなくなった。
「……かわいい、亜沙子」
 耳元でささやかれて、亜沙子は息をのんだ。
 かわいい、という言葉に、これまでにない甘さが含まれていることに気づく。
 焦燥と喜びを同時に感じながら、もう、と抗議を唇に乗せる。
「亜沙子、好きだよ。どうかずっと傍にいて」
「……いますよ。口移しで与えなくても、自分で飲みます」
 青と金の双眸を見つめて亜沙子が告げると、一世は安堵したように、肩から力を抜いた。最近、万能不死の霊薬を口にしていなかったことを灯里から聞いて、心配していたのだろう。
「驚かせて、ごめんね」
「私も、ごちゃごちゃいってごめんなさい……好きです。こちらこそ、どうか傍にいさせてください」
 そっと頬に口づけると、一世は眼を瞠った後、花が綻ぶようにほほえんだ。
(なんて嬉しそうに笑うんだろう……)
 胸がいっぱいになり、たちまち視界は潤んだ。
 懸命に笑おうとしたが、諦めて、亜沙子は両手で口を被った。幸せで、胸がいっぱいで、笑いたいのに、咽の奥が熱くなる。ぽろぽろと涙が零れた。
「ふ、ぅ、ぅぅ……っ」
 一世は蕩けそうな笑みを浮かべると、しゃくりあげる亜沙子を胸の中に抱き寄せた。
「どうしたの、私のお姫様」
 しがみつく亜沙子をあやしながら、唇で優しく涙を拭きとる。尽きぬ泉のように、次から次へと、涙は溢れてくる。
 泣いて、泣いて、気が遠くなりそうになりながら、亜沙子は心を洗われていくような、不思議な心地を味わった。

 一世と出会えた縁を、ただの偶然とは思わない。
 蓬莱山に辿る神仏の功徳というものかもしれない。
 この先もずっと、彼の傍で生きていきたい。強い想いが、滾々こんこんと胸の底から湧き上がってくる。
 閉じた瞼の奥に蘇る、美しい燈幻郷。
 萌ゆる緑、清らかな山河、さえずる小鳥の啼き声、土の香り、木々の香り、花の香り、雨の匂い……淡雪のように風に舞い散る桜。
 仏様の蒼い蒼い、空の世界。
 暖かな腕の中で、亜沙子は声をあげて泣いた。これ以上はないという、幸せをかみしめて。