部屋に戻ると、亜沙子は灯りも点けずに窓辺でぼぅっとしていた。
窓から門を照らす烽火が見える。夜闇にゆらゆら揺れて、静謐で幻想的な空気を醸している。
遠くから宴の音が漏れ聞こえてきて、なんだか夏の終わりの夢を見ているような気分になる。
ぼんやり過ごしていると、灯里が一世の訪いを告げた。
宴はもう終わったのだろうか?
疑問に思いながら扉を開くと、おろし髪の一世がいた。湯を浴びてきたのか、絣の織物に着替えて、髪はしっとりと濡れている。
妖しい色香に亜沙子は眩暈を覚えた。動けずにいると、一世は亜沙子の髪に触れて、優艶にほほえんだ。
「こんばんは、入れてもらえる?」
「はい、どうぞ……」
部屋の中ほどに進み、亜沙子は寝椅子を勧めた。手持ち無沙汰で、茶を煎れようとする腕を取られた。
「亜沙子」
大きな手に指を搦め捕られて、身体に電流が走った。全神経が指先に向かう。
「あ……」
為すすべもなく立ち尽くしていると、腕を引かれて、一世の腕の中に転がりこんだ。気品のある伽羅が香る。
あの晩、この場で濃密に交わったことを思い出して、身体が火照り始めた。
「あの、宴はいいのですか?」
咄嗟にいい繕うと、一世は微苦笑を零した。
「私がいてもいなくても、連中は朝まで騒いでいるよ」
「……笹良さんは?」
「知らぬ。満足したら、勝手に帰るだろう」
気遣うように訊ねておきながら、一世のぞんざいな口調に、亜沙子は仄暗い悦びを覚えた。
「こうされるのは、嫌?」
優しい腕の中で、亜沙子はかぶりを振った。
「……平気?」
耳に吐息を吹きこむように囁かれて、亜沙子の全身に熱い漣が拡がった。伽羅が香る。
「一世さん」
不意に理性が頭をもたげて、身体を離そうとすると、逆に腰を引き寄せられた。優しい檻から抜け出すべきか迷う。答えを出す前に、もう一度首筋に吐息がかかった。
目と目が合う。
神秘的な蒼と金の瞳の奥には、烈しさと静けさを宿して、渾然一体となって溶け合っているような、そんな光がうかがえた。
「……ねぇ、亜沙子」
「はい?」
「さっき沈んだ顔をしていた理由は、私が考えている通りでいい?」
「――……」
何もかも見透かされているようで、眼を合わせることができない。俯きがちに視線を足元に落としていると、一世は腰を屈めて、亜沙子の目の高さと同じにした。
「ッ」
「亜沙子?」
視線を泳がせる亜沙子の肩に手を置いて、一世は顔を覗きこんでくる。
「……すみません。大人げのない態度でした。お恥ずかしい」
観念して白状すると、一世は虚を突かれたように目を瞬かせた。
「そんなことはないよ。拗ねる姿も愛らしい。もっと甘えてほしいくらいだよ」
甘い台詞に、亜沙子の心臓は宙返りした。
恋など、するものではないのに。
胸を焦がす、この煮えたぎる恋情を捨てられたら、どれほど楽だろう。何万遍も思った。
でも、一目見るだけで、どうしようもないほど惹かれてしまう。優麗な立ち居振る舞い、優しい腕も声も、全てに魅了される。
ちっとも、想いを抑えることができない。
俯く亜沙子の顎にそっと手をあてがうと、一世は端正な顔を近づけた。
「亜沙子はかわいいよ。いとけないと思っていたけれど、今は違う……」
艶を含んだ掠れ気味の声に、背筋がぞくっと慄えた。
「この小さなふっくらした唇が、私を誘うんだ」
唇に視線が落ちたと思ったら、一世がぐっと迫ってきた。焦って、押しのけようとした手を搦め捕られた。
「あ……」
目を合わせたまま、掌の柔らかいところを優しく吸われる。
こんな風に、彼に誘惑された女はどれだけいたのだろう……刺すような痛みが胸に走ったが、指を甘噛みされた瞬間に霧散した。
そっと眼を閉じると、狂おしいほどの口づけと抱擁に襲われた。
「んぅ」
忽ち官能的な唇に夢中になった。お互いの荒い吐息が、耳朶に反響する。
帯が解かれて、襦袢の襟が緩んだ。
衣擦れの音を立てながら、亜沙子は露になった腕を一世の首に搦めた。
刹那的であっても、身体を重ねている間は、あらゆる悩みや不安から遠ざかっていられる。
唇をついばみながら、一世は亜沙子の裸身を抱き上げ、寝室の扉を開いた。亜沙子の身体を優しく寝台に横たえ、膝をついて覆い被さる。
窓から斜めに入る月明かりが、一世の上半身を銀色に照らしている。
服を着ている時は、一見、ほっそりとして見えるが、しなやかな筋肉を纏った鋼のような肉体だ。
永遠に衰えることのない、美しい身体。
引き締まった腹筋に手を這わせると、ドクンッ、と掌の下で強く脈打った。一世は端正な顔を欲望に歪ませ、唸るように亜沙子を組み敷いた。
「あぁっ」
密やかな夜の静寂に、あえかな声が響く。
乳房や腰や太ももを熱い掌になぞられ、身体の芯に欲情の焔を灯されていく。熱い身体が亜沙子を包み、揺さぶって、貫いた。
花宵は更けてゆく。
窓の向こうに、満月が浮いている。蒼い炎に身を任せて、亜沙子はそっと瞳を閉じた。