3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

1章:マイナスって0より酷い - 0 -





 市村いちむら笑美えみは、八十二歳でこの世を去った。介護施設にいたはずの笑美は、ふと気がつけば、白い貫頭衣を纏い、素足で楽園のなかを歩いていた。
 ここは天国なのだろうか?
 暖かな春の陽気に包まれ、小鳥たちが楽しげにさえずっている。
 澄み渡る青空には、淡いオーロラが揺れて、もう一方には七色の大きな虹が架かっている。まるで夢のなかにいるかのよう。
 痛みも不安も消え去り、かつての生涯は遠い記憶の彼方へと霞んでいた。
 穏やかな心で歩みを進めると、目の前に光が集まり始めた。脚を止めてその光を見つめていると、それは次第に形を成し、やがて麗しい女神の姿となった。

 なんて美しいのだろう……

 波打つ豊かな金髪がそよ風に揺れて、澄み透った水色の瞳は、夢みるような輝きを放っている。
 笑美の心は静かな感動で満たされ、言葉を失ってただその姿に見惚れていた。女神のほほえみは暖かく、笑美を優しく包みこんでくれる。
 天国の静謐な美しさと女神の輝きのなかで、笑美は悟った。
 ここは永遠の安らぎの場所であり、生涯の終わりと新たな始まりの地なのだと。
 魂は穏やかに満たされ、無限の平和を感じる。
「わたくしは愛を導く女神、宇宙を掌握する諸神の一柱ひとはしらです」
 くちびるから零れる言葉は日本語でありながら、どこか異国的な節があり、美しい歌のように聴こえた。
「女神様でいらっしゃいますか?」
 笑美は驚きと敬意をこめて問いかけた。
「そうです。貴方が来世で、素敵な恋を見つけられるように、祝福を授けましょう」
「恋、ですか?」
 その言葉に、笑美の心は静かに波立った。
「そうです。貴方は前世も、前前世も、さらにその前も……不運に見舞われて独りきりでした」
 独りきり……
 その言葉は胸に突き刺さるように響き、一抹の寂しさが笑美の心を覆った。
 しかし、女神の全身から溢れだす暖かな光が笑美を包みこむと、その寂しさはたえなる感覚へと変わっていった。
 それはまるで、夢見がちな少女時代に戻ったかのようだった。くすぐったい胸の高鳴り、或いは切なさ、繊細な薔薇の花弁のように儚くて壊れやすい愛おしい感情が、笑美の心を満たしていく。
 笑美はその感覚に身を任せ、過去の寂しさや痛みが薄れていくのを感じた。
「辛いこと、寂しい時があっても、貴方はくじけませんでしたね。よく頑張りました」
 女神のほほえみは暖かく、清らかで、このうえなく美しい。
「ありがとうございます、女神様……」
 笑美の瞳に浮かんだ涙は、喜びと感謝の証だった。気が緩んで、あの、と思いつくままに言葉を続けていた。
「……結婚を考えていた人はいたんですけれど、うまくいかなくて……とても残念なことでした」
 そういって笑美は視線を落とした。
 前世のことは判らないが、笑美は独身主義者というわけではなかった。むしろ結婚したかったのだ。しかし、結婚を考えていた恋人に裏切られてから、恋愛に希望をもてなくなってしまった。積極的に婚活する気にもなれず、生きていくために仕事を続けるうちに、長い年月が流れていた。
「巡りあいは、笑美のせいではありません。貴方が精一杯生きたことは、わたくしがよく知っています」
「……ありがとうございます。でも、恋愛はもういいかなとも思うんです。おかげさまで自立した生活を送れましたし、こうして振り返ってみると、なかなか良い人生でした」
 達観したようにほほえむ笑美を、女神はじっと見つめた。
「笑美、どうか恋を諦めてしまわないで。来世こそ、きっと素敵な恋人にめぐりあえますよ」
「そうだといいのですが……」
 消極的な笑美に、女神はにっこり笑みかけた。
「本当ですよ。不運が続いている魂は、転生を優遇されるのです。貴方の場合は恋愛運を必要としているので、わたくしの加護があれば、きっと良い出会いに恵まれるでしょう」
「女神様のご加護をいただけるなんて、幸せです」
 嬉しそうに笑美がいうと、女神は優しくほほえんだ。
「自信をもちなさい、笑美。貴方はとても素敵なひとですよ。その魂の輝きを損なわなかったからこそ、わたくしの目に留まったのです。だから、わたくしはほんの少し力を貸すだけ。貴方はすぐに、自身の力で輝けるようになるでしょう」
「なんだか少し、勇気がでてきました」
 笑美は拳を握りしめてみせた。
「今度こそ素敵な出会いに恵まれ、恋をして、そしてその恋が成就するように、わたくしから祝福を授けます。相手の好意が一目で判るようにしてあげましょう」
「一目で?」
「そうです。この祝福は、来世の貴方の七歳の誕生日に、授けましょう」
「どうして七歳なんですか?」
「幼い心身では、神の祝福はかえって負担になります。かといって大人になり過ぎても、想像を超えた事象に戸惑うでしょうし、青春の盛りを逃してしまうのは惜しい。七歳なら情緒が育ち、わたくしの祝福も受け入れやすいでしょう」
「なるほど……そうなんですね」
「さぁ、目を閉じて。市村笑美の人生はここでおしまいです。貴方の来世に、光がありますように」
 女神の声が柔らかに響くなか、笑美は静かに目を閉じた。
 眼裏まなうらが白く輝いていく。
 女神の祝福は、笑美の魂を優しく抱きしめ、新たな希望と共に来世への期待を芽生えさせた。
 お疲れさまでした。お帰りなさい。そして、いってらっしゃい。
 長い旅を終え、新たな旅立ちが始まる――