3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

3章:だけじゃなかった - 1 -

 一月三日。冷たく澄んだ空気のなか、エミリオはシルヴァニールの公爵邸へと帰還した。
 年末から降り積もった雪は、全てを静寂の銀世界へと変貌させている。車道は切り立つ雪壁の回廊となり、公爵邸の尖塔から緩やかに傾斜する屋根、広大な庭園の樹々までが純白のヴェールを纏っていた。
 昼を僅かに過ぎたころ、邸内の大広間は優雅な賑わいに満ちていた。エミリオの十二月二十五日の誕生日と新年を寿ことほぐ小宴が催され、血縁の近しき者と心許せる友人が招かれているのだ。彼らは三日余りを邸に滞在し、ゆったりとした時を共に過ごした。
 大広間の片隅では壁一面に映画が映され、それを囲むように笑顔が弾ける。アンティークな暖炉の前では、グラスを傾けながら柔らかな笑声が交錯している。窓辺で静かに雪景色を眺める者もいれば、夜空に揺らめく極北光オーロラを静かに仰ぐ客人の姿もあった。
 エイミーもまた、エミリオとラドガ湖の岸辺で極北光オーロラを鑑賞した。
 月光は無垢な雪面に反射し、凍りついた湖面を天にあまねく無数の星がそっと照らす。無限の夜空には、揺蕩う光のとばりが優雅に踊っていた。天空の奇跡は息を呑むほど壮麗で、蒼碧そうびゃくの光が織りなす幻想の舞に、しばしふたりとも言葉を忘れて見入っていた。

 一月七日、晴天の蒼穹そうきゅう
 客人たちは昨夜までに皆帰り、今朝は清冽な静寂が薄絹のように公爵邸を包んでいた。
 いつもの談話室で、エイミーは胡桃のブレッドに黄金色のバターを滑らせ、窓の外に広がる銀世界に目を細めた。朝陽に照らされた雪景色は、まるで無数のダイヤモンドを散りばめたかのように輝いている。
「お義兄さま、この後スケートにいかない? 湖が凍ったみたいなの」
「いいよ」
 エミリオは珈琲を口に運びながら、柔和な微笑を浮かべた。
 エイミーがちらりとマイヤ夫人を伺うと、夫人は厳格な表情を和らげ、鷹揚に頷いた。
「近頃はお行儀も良いし、よろしいでしょう」
「ありがとうございます、マイヤ夫人」
 エイミーは声を弾ませた。以前はどれほど懇願しても、凍りついた湖に近寄ることは固く禁じられていたのだ。
「ごちそうさまでした。準備してくる」
 椅子を軽やかに引き、エイミーは部屋をでていく。と、背中越しにエミリオが穏やかな声をかけた。
「帽子と手袋も忘れずにね」
「うん」
「玄関で待ってる」
「わかったー!」
 元気いっぱいに返事をして、階段を駆けあがり自室に飛びこむと、メイドのサアラが支度を整えてくれた。銀糸で縁取られた水色のケープコートに身を包み、スケート靴を手に取る。玄関へ急ぐと、アンティークのソファに腰掛けて水晶版をいじっていたエミリオが顔をあげた。
「早かったね」
「急いだの」
 エイミーは笑顔で答えた。
「スケートは初めて?」
「実はそう」
 エイミーは頷いた。笑美はかつて何度か滑ったことあるが、この躰では初めてだ。
 今日は侍従の操る浮遊駆動車が送迎を担った。降雪の海原を裂くように進み、湖畔で降りると、眩いばかりの銀世界が眼前に広がった。
 湖面は見渡す限り凍りつき、碧空へきくうを反射して、澄き透った碧色に輝いている。光の戯れは、まるで冬の精霊たちが舞い遊ぶ物語の一幕のよう。水晶のように透明な氷床の下には、深い闇が静かに佇んでいた。
 凍結した湖に心を躍らせながら、エイミーはスケート靴を履くと、期待に満ちた眼差しでエミリオを見あげた。
「手を引いてあげる、一緒に滑ろう」
「ありがとう」
 エイミーは、さしのべられた手に掴まり、氷上に脚を滑らせた。足元が覚束おぼつかず転びそうになる。
「わ、わ!」
 ふらつくエイミーを、エミリオはしっかりと抱きとめた。
「大丈夫だよ、支えているから。足元を見ないで、顔をあげてごらん」
「うん」
 エミリオの腕に掴まって、少しずつ氷上を滑りだす。視線を前方へ固定すると、彼のいった通り、不思議と躰の軸が安定した。次第に滑る感覚を掴み、エイミーの顔に笑みが広がる。
「その調子」
「コツが掴めてきたかも」
 最初はエミリオに手を引いてもらっていたエイミーも、次第に自分ひとりで滑れるようになった。氷面を恐る恐る進んでいた足取りは、今では少しずつ軽やかさを増し、茶色の瞳には喜びと自信の光が浮かんでいる。
 エミリオはそんなエイミーを見守りながら、ふと滑りを変えた。優雅に弧を描くように舞い始めた彼の姿に、エイミーは思わず立ち止まる。
 雪の精霊を思わせる動きだった。
 氷上に描くその軌跡は、風の詩にあわせたように滑らかで、軽やかで、見る者を夢幻の世界へ誘う。彼は優雅に跳び、空中で一回転してからふわりと着氷した。
「すごい……!」
 エイミーは拍手喝采で応えた。明るい笑い声が、凍てつく湖面に響き渡った。
「そんな風に滑れたらいいのにな」
 真似をして、片足を浮かせたエイミーだが、バランスを崩して尻餅をついた。それでも笑顔のまま、エミリオに助け起こされる。
「大丈夫?」
「平気!」
 エイミーは笑って、エミリオの背を押して再び滑りだした。すると、追いかけっこが始まる。氷上で抜きつ抜かれつしながら、笑い声が冬空に響き渡る。捕まるものかと夢中で滑っていると、ふいに鋭く名前を呼ばれた。
「えっ?」
 振り返ると、エミリオと距離が開いていた。彼はもうスピードをだしていない。疲れたのかな? と、エイミーは無邪気に笑う。旋回して戻ろうとした時、不気味な音が聞こえた。
 ピシッ……
 氷面に亀裂がはしった。一刹那、足元が崩れ落ち、湖の冷たい闇が牙を剥くように小さな躰を呑みこもうとした。
 冷水がつま先に触れる、その瞬間――
「エイミー、動かないで!」
 鋭くも冷静なエミリオの声が空気を切り裂いた。同時に、目には見えない魔力が炸裂する。無詠唱の魔法が発動し、氷上に煌めくような魔力の糸が紡がれる。
 エイミーの躰は宙に浮かび、凍てつく水の牙を免れた。その全身は柔らかでありながら堅牢な魔力の繭に包まれ、揺るぎない軌跡を描きながらエミリオの元へと引き寄せられる。
 彼の手が、エイミーの腕をしっかりと掴んだとき、冷たい恐怖は暖かい安心へと一瞬で変わった。
「大丈夫かい?」
 エミリオの声は優しく、けれどわずかに緊張が滲んでいる。
「うん……ありがとう」
 エイミーは小刻みに震えながらも頷いた。
 彼の腕に支えられながら、後ろを振り返ると、今も細く広がる亀裂が、不気味に深い闇を覗かせていた。
「平気? 濡れていない?」
 エミリオは、エイミーの全身に素早く視線を走らせた。
「大丈夫、靴のつま先が少し濡れただけ」
 恐怖の余韻におののきつつ、エイミーは笑みを繕った。胸元を押さえる手はわずかに震えている。
「お嬢様!」
 視線の先で、慌てたように侍従が駆け寄ってきた。雪上を踏みしめる音とともに、彼の礼儀正しい声が耳に届いた。
「お怪我はありませんか?」
 その穏やかな問いかけに、エイミーは深く息をつき、首を振った。
「大丈夫です。ごめんなさい、驚かせてしまって……」
 謝罪の言葉に、侍従は安堵の色を顔に浮かべてほほえんだ。
「いえ、大事に至らず何よりです。さすがはエミリオ様、素晴らしいご判断と反射神経でございました」
 侍従の言葉を受け、エミリオは軽く礼を返す。魔力を行使した名残で、菫色の虹彩はまだ強く輝いていた。
「真ん中の氷は、どうやらまだ薄いみたいだ。もう少し慎重にしておけばよかったね」
 その声に責める色はなく、ただエイミーを安心させる穏やかさがあった。
「もう滑らない方がいいだろう」
 エイミーはしょんぼりと肩を落とした。もう少し遊んでいたいけれど、これ以上騒ぎを起こすわけにはいかない……
「……じゃあ、休憩する?」
 新たな提案に、ぱっとエイミーの表情が輝いた。
「うん」
 白銀の湖畔に戻ると、侍従がすでに毛織の敷物を広げ、焚火の用意を整えていた。燃えあがる炎は冷えた空気を柔らかく溶かし、パチ、パチッ……と薪の爆ぜる音が心地よく耳に響く。
 エイミーは敷物の上に腰をおろすと、侍従が差しだした湯気の立つココアを手に取った。給仕を終えた彼は静かに席を立ち、少し距離を置いて警護の姿勢に戻った。
 真鍮のカップから立ちのぼる甘い香りが、心をゆっくりとほぐしていく。躰にしみ渡る温もりに、エイミーは静かに息を吐いた。
「冬景色を眺めながら飲むココアって、本当に格別ね……アンも誘ったら、来てくれるかしら」
「アンは滑れるの?」
 エミリオが訊ねた。
「どうかなぁ、あまり外にでない子だけど……この雰囲気はきっと気に入ると思う」
「それなら、誘うときは僕みたいに最初は手を引いてあげるといいよ。もし滑るのが無理なら、雪遊びやそりでも楽しめるだろうし」
「そうね、それが良いかも」
「この間、お茶会をしたんだよね?」
「うん、とっても楽しかったわ」
 エイミーの顔がぱっと明るくなった。その無邪気さに、エミリオは少し首をかしげながら訊ねた。
「話を聞く限り、内気な子みたいだけど、どうやって仲良くなったの? 通信制って、基本的に個別授業なんだろう?」
「そうなんだけど、クラブ活動やVRイベントもあるし、自由リンクメッセージもあるのよ。私は、映画や小説の感想を時々投稿しているのだけど、アンが、返信してくれたのがきっかけ。ウィスプの連絡先を交換してからは、毎日のように連絡している」
「なるほど……最初からお互い気があったんだね」
「そうかもしれないわ。アンに会えて本当によかった」
 アンのことを思い浮かべながら、エイミーの顔には優しい笑みが浮かんだ。アンは、内気で穏やかな少女だ。その吃音もまた彼女の個性であり、決して魅力を損なうものではない。そうエイミーは断言するが、そう思わない子もなかにはいる。
 グラスヴァーダム魔法学院の初等部に通っていた頃、アンは同級生に吃音を嘲笑され、それ以来人前で話すことが難しくなったという。その結果、彼女は学院を退学し、通信制へと切り替えた。
 エイミーとの交流も最初は文字だけのやりとりだった。打ち解けてきた頃に、アンの方から音声会話を提案し、そこから二人の絆はより深まったのだった。もし、エイミーがグラスヴァーダム魔法学院に通っていた頃にアンと話せていたら、今でも学院に残っていたかもしれない……
 エイミーは、ふとエミリオを見あげた。
「お義兄さまは? 仲のいいお友達はいる?」
 エミリオは考える素振りを見せた。
「どうだろうな。研究仲間はいるけれど……君たちみたいに親しい友人とはいえないかな」
「研究仲間って、大学の?」
「そうだよ」
「初等部の同級生は? 今でも連絡をとっている?」
「生徒会のメンバーとは時々ね。ただ、ほとんど業務連絡だけど」
「お義兄さま、ずっと生徒会にいたものね」
「飛び級で卒業試験と入学試験を受けたかったからね。高い内申点がほしかったんだ」
「高い内申点……」
 身も蓋もない言い草に、エイミーは苦笑する。社交的に見える彼だが、生来、自閉的な性格をしており、他社を寄せつけないタイプだ。同年代であっても、友人を作りつらいのかもしれない。
「まさか、僕に友人がいるかどうか心配している?」
 エミリオの問いに、エイミーははっと息をのんだ。その声色にはかすかな冗談めいた響きがあったものの、彼のプライドを傷つけたのではないかと焦る。
「いえ、違うの。ただ気になっただけで……もし気を悪くされたなら、ごめんなさい 」
 かしこまるエイミーに、エミリオはふっと笑みをこぼした。柔らかくも、どこか飄々とした微笑だ。
「謝らなくていいよ。別に気を悪くしたわけじゃない。それにしても、君に心配される日が来るとはね」
 軽やかな声色に、エイミーは肩の力を抜いた。少しぎこちないながらも笑みを浮かべて、言葉を継いだ。
「お義兄さまの毎日が、楽しいといいなと思って。それだけ気になったの」
 そういうと、エミリオの表情が一瞬揺らいだ。すぐに柔らかな微笑に戻ったが、どこか儚さを滲ませているように見えた。
「ありがとう、エイミー」
 囁きとともに、彼は身を寄せ、エイミーの頬にそっと唇を触れさせた。その温もりは、冬の冷気を溶かす焚火のように優しく、そして一瞬の出来事だった。
「え……?」
 エイミーは目を丸くし、頬に残された柔らかな感触に動けなくなる。心臓の鼓動が胸を打ち、何か言葉を返そうとしても、うまく声がでない。
 エミリオは、うろたえるエイミーを見つめて、小さく笑った。
「嫌だった?」
「ううん。嫌じゃない……」
 エイミーは頬を押さえながら、そっと俯いた。頬が熱い。きっと赤くなっている顔を見られるのは恥ずかしいが、飛びあがりたいほど嬉しい。嬉しくてたまらない。
 おずおずと視線をあげると、エミリオもまたどこか照れくさそうに視線を逸らしている。その仕草が妙に愛おしく映り、エイミーの胸はさらに温かくなった。
 そのときだった。彼の頭上に、浮かびあがる光の数字が目に入る。

 52%

 ついに50%を超えた!
 最後に見たときは、確か41%だった。
「楽しいよ。大学生活も、こうしてエイミーと過ごす休日も」
「お義兄さま……」
 胸がじんわりと熱くなる。赤くなった頬を両手で挟んだまま、エミリオの整った横顔を見つめていると、菫色の瞳にふと、自嘲めいた影が射した。
「正直にいうと、前は楽しくなかった」
 エミリオの声が少しだけ低くなる。
「早く大人になりたくて、最短で大学を卒業して国立魔光学研究所に入るつもりだった。でも、最近はもう少し、遠回りしても良いかなと思うんだ」
 後半の言葉は明るい響きを帯びていたが、エイミーは、ひんやりとした罪悪感に浸された。
 過去の自分が犯した愚かな言動が、彼を苦しめ、無理に早熟さを押しつけてしまったのではないか――そんな思いに駆られたのだ。
「僕は十四歳になったら、魔導転移資格を取得する。そうすれば、公爵邸から毎日通えるようになる」
 静かな声には、確かな決意がこめられていた。彼は、うかがうようにエイミーを見つめた。
「僕がそうしたら、エイミーは嫌?」
 その問いに、エイミーはすぐさま首を横に振った。
「嫌じゃない」
 声にだした途端、胸に満ちる感情が溢れそうになった。彼の存在が、どれほど自分にとって大切で、どれほど安心をもたらしているか。顔がさらに赤くなるのを感じながら、エイミーはもう一度そっとつぶやく。
「嫌じゃないよ」
 二度目の返事は、どこか温かな響きを帯びていた。
 エミリオは、くすぐったそうに微笑した。菫色の瞳に、さっきまで漂っていた物憂い影はもうない。
「前なら猛反対しただろうに。僕の血筋や才能を示すと癇癪を起こしていたのに、もう気にならないの?」
 エミリオが少し意地悪そうに問いかける。エイミーは、ほんの少しばつが悪くなって眉をさげた。
「気にならないよ。純粋にすごいなぁって思うだけ。卑屈になるのは、もうやめたの。今の自分がけっこう好きだから」
 かつての問題児エイミーは、いろんなことが不満だった。両親がいないこと、養族と容姿が似ていないこと、自身の髪や瞳の色、魔導の才がないこと――それらすべてが、世界が彼女に非情である証拠だと思っていた。
 けれど、七歳の誕生日に世界が一変した。
 なにひとつ不自由なく暮らしていられる。優しい養親と、自慢の義兄。世話をしてくれるメイドたち。五体満足で、未来があり、好きなことを自由に学べる。そう実感できるようになったのだ。
 過去の振る舞いに反省すべき点は多いが、それでも、エイミーのすべてを否定してしまうのは悲しいことだ。エイミーは個性的で、行動力があり、感性が鋭い。そして、周りがどう思おうと、自分のスタイルを貫く芯の強さがある。
「エイミーの……私の、良いところを大事にしながら、思いやりのある大人になりたい」
 決意をこめて、静かに告げるエイミーに、エミリオは少し驚いたような顔を見せた。そして、どこか感心したようにエイミーを見つめる。
「そう、思えるようになったんだね。本当に……なんだか、エイミーじゃないみたいだよ」
 その言葉に、エイミーはドキッとした。笑みを取り繕い、肩をすくめてみせた。
「えへへ……さっき湖に落ちかけたけどね」
 エミリオは思わず吹きだし、首を横に振る。
「やっぱり、エイミーだった」
「私はいつだってエイミーです」
 エイミーは胸を張って答えると、照れたような笑みを浮かべた。その屈託のない笑顔に、エミリオも釣られるように笑みを返した。