3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで
6章:エイミーとエミリオ - 4 -
翌朝も、快晴だった。
白い積雲 が、アイスクリームのように盛りあがり、青空には海鳥が自由に舞っている。
今日も、灼 けつくような暑さになりそうだが、家族そろって港町へと繰りだした。
地元の人と観光客の違いは、混血種 に限っては一目で判る。長くこの町に暮らす者たちは、陽射しに焼かれた小麦色の肌をしている。対して、白い肌の人々は旅の客。
そして黄金種 は、いかなる陽射しにも染まらず、まるで砂糖菓子のように白い。
今日のエイミーは、膝をのぞかせる黄色の衣装を纏 っていた。腰と肩にひとつずつ、濃紫 の大きな薔薇を飾り、耳には大ぶりの真珠を揺らしている。
頭には、昼顔と小薔薇をあしらった花冠 つきの白い麦わら帽子。エミリオから贈られた誕生日プレゼントだ。
弟のシドニーからも、極楽鳥 のピンバッジをもらい、麦わら帽子の片側にきらめく羽のように飾っている。
「似合っているよ」
「姉様、とても素敵です」
エミリオとシドニーが声をそろえ、褒めてくれる。
「ありがとう、ふたりとも」
エイミーは笑顔で礼をいった。
常日頃から貴族令嬢らしからぬ装いをしている自覚はあるが、寛容 な家族は咎 めたりしない。公爵家に引き取られた頃から、素行についてはともかく、恰好については叱られた記憶がなかった。
「この帽子のリボンがかわいいのよね」
クリーム色の綱飾りが施され、昼顔と薔薇の蕾が連なる花冠 。あごの下でリボンを蝶結びにしながら、ふと顔をあげると──
エミリオの頭上に、妖精の粉のような、金の粒子が舞っていた。
期待して見つめていると、やがて数字に変わった。
84%
──あがっている!
胸の奥が、ふわっと熱くなる。
誕生日のジンクスは健在だ。じわじわと喜びがこみあげてきて、頬が緩みそうになり、慌てて俯 いた。
「……エイミー?」
訝 しげな声に、心臓が小さく跳ねる。視線をあげた時には、もう数字は消えていた。
「なんでもないの」
恋心に蓋 をすべきか迷っているくせに、数字があがると嬉しいと思ってしまう。
(……このまま気持ちが育ってしまったら、どうなってしまうのだろう……)
幽 かな不安が胸に兆 したが、シドニーに手を引かれたことで霧散 した。
「いきましょう、姉様」
「ええ」
海辺の町は、陽炎 の沙膜 をかけたように眩しかった。
漆喰 の家々は色とりどりのパステルに彩 られ、窓辺には南国の花が揺れている。
通りの壁には、陶器の皿がいくつも飾られていた。どれも色鮮やかで、精緻 な模様の傑作ばかりだ。
そういえば、昨夜の晩餐でも似たような皿を見た。この地方の伝統的な意匠 なのだろう。
陽光が反射して、皿の模様が壁に舞っている。まるで小さな海の欠片 が跳ねているようだった。
昼食は、海辺のレストランでとることになった。
白いテラス席の向こうには、群青 の水平線がゆるやかに伸びている。
養親はシャンパン、エイミーたちはアルコールなしの炭酸飲料で乾杯した。
焼きたての胡桃パンをオリーヴ油にひたし、前菜の貝柱のマリネとともに口へ運ぶ。香草を添えた海老のグリル、冷たい檸檬 のスープ。
美味しい料理を味わいながら、爽やかな潮の香りを含んだ風に頬を撫でられる。
遠くから船の汽笛 がひと声、夏の青を渡ってきた。
これぞ港町ならではの醍醐味 だ。
昼食後、家族はふた手に分かれることになった。
両親とシドニー、そしてエイミーとエミリオ。
いつもは子供たち三人で行動させられることが多いので、エイミーは少し戸惑いながら義母を見た。
義母オリヴィアは、繊手 でつばの広い帽子をそっと押しあげ、光を映した碧眼 で、悪戯 めいたウィンクをよこした。
「夕方に合流しましょう。ふたりとも、楽しんでいらっしゃい」
(な、なにっ⁉)
自分の義母なのに、ドキマギしてしまう。彼女の実年齢は四十路過ぎなのだが、黄金種 はいつまでも若くて美しい。
(……お義母さま、どこまで知っているのかしら……気になるけど、聞くのが怖いわ……)
気まぐれな微笑の裏に、なにか含みがあるような気がするエイミーだが、義母は疑問に答えることなく、義父とシドニーを連れていってしまった。
残されたふたりは、顔を見あわせた。
互いの顔に、どうする? と書いてある。
「とりあえず、大通りを歩いてみる?」
エミリオの提案に、エイミーは笑顔で頷いた。
「いいわ」
ふたりだけで歩くのは、本当に久しぶりだった。
最近はいつもシドニーが一緒だったから、エミリオと並ぶと、どうしても意識してしまう。
すれ違う見知らぬ人ですら、エミリオにぽぅっと見惚れている。なかには二度見して振り向いた挙句 、後をつけてきそうな人までいる。
(……ちょっと、怖いな)
エイミーが俯 いて無言になると、エミリオは氷のような冷気を纏 い、背後をひと睨みした。それで煩 わしい気配は消えた。
彼といると、衆目を集めるのはいつものことだ。
そして、いつもにはないぎこちない緊張も、陽光のなかを歩くうちに自然と溶けていった。
夏の通りは、きらめきと香りの混ざりあう万華鏡 だ。
そよ風が吹くたびに、海の匂いと焼きたてのパンの香ばしさ、柑橘 の爽やかな香気がゆるやかに流れてくる。
軽やかな足どりで散策していると、ふと一軒の画廊 が目に留まった。
白壁に囲まれた古い建物で、扉は大きく開かれている。
なかを覗き見ると、壁にかけれた大きなキャンパスに、碧い海と港町の眺望 が描かれていた。
「寄っていく?」
エミリオに訊かれて、エイミーは頷いた。
どの絵も素晴らしいが、最初に目を引いた、碧い海の絵に心を奪われた。
立ち止まって見入っていると、隣にエミリオが並んだ。
「気に入ったの?」
「ええ……素敵だと思わない?」
「うん、いい絵だね」
「私、この絵なら何時間でも見ていられるわ……」
その言葉に、エミリオが小さく笑った。
「エイミーは、感動するのが上手だね」
笑みを含んだ菫色の瞳 に見つめられ、エイミーの心臓がとくんと脈打った。
──なんて澄んだ瞳 なのだろう……
危うく心を奪われそうになり、慌てて絵に視線を戻す。
「この絵、ほしいわ」
シルヴァニール邸の談話室に飾りたい。
皆がよく目にするところにかけておきたい。いつでもこの海を感じられるように。
そう思って、店員を呼び、値段を訊ねた。思ったよりも手ごろだったので、即座に決めた。
「いただくわ。公爵家に送ってちょうだい」
ゼラフォンダヤの名を聞いた店員は、一瞬目を瞠 ったが、すぐに表情を整え、恭 しく頭 を垂れた。
外へでると、通りの喧騒 はいっそう濃くなっていた。
往来 は人であふれ、肩が触れあうたびに、海風が香りを変える。
海と香水、果実と花びら。夏の匂い。その雑踏 のなかで、エミリオとはぐれそうになった瞬間、
「エイミー」
差し伸べられた手を、反射的に取った。
指先が触れた瞬間、胸の奥がきゅっと高鳴る。
手をつないで歩くのは少し気恥ずかしいけれど、迷子になるよりいい。
この港町は、岩壁に挟まれた細い路地が無数に枝分かれしており、うっかりよそ見をすれば、すぐに見失ってしまいそうだった。
風雪 の刻まれた岩壁の小径 を歩いていると、別の時代に脚を踏み入れたような気がしてくる。
どこからか、鐘の音が聴こえてくると、本当に時が巻き戻ったような錯覚がした。
(近くに礼拝堂があるのかしら?)
ほどなくして、拍手と笑い声が湧きあがった。
導かれるようにその方向へ進むと、白い花で飾られた錬鉄 の門が開かれ、礼拝堂の前で結婚式が行われていた。
音楽隊が高らかにラッパを吹き鳴らし、参列者たちはいっせいにピンクや白の花びらを浴びせかける。
花吹雪が舞うなかを、新郎新婦がゆっくりと歩みでてきた。
「おめでとう、どうか幾久しくお幸せに!」
エイミーも拍手しながら声をかけた。
視線があった新婦が、綻 ぶように笑みを返してくれる。
嬉しくなったエイミーは、エミリオの袖を引いて囁いた。
「お義兄さま、〈おめでとう〉って空に文字を描ける?」
「できるよ」
エミリオは穏やかに頷き、指先で空をなぞる。
すると、青空に白い雲のような光の筆跡が走り、やがて柔らかな〈おめでとう〉の文字が浮かびあがった。
その優しい祝福の魔法に、参列者たちは息を呑み──次の瞬間、ワァッ! と大きな歓声が広がった。
新郎の友人らしき青年が、笑いながら手招きしている。
──君たちも、おいで。
エミリオは一瞬、躊躇 いがちに足を止めたが、エイミーは笑顔で頷いた。
夏の陽光と花びらの舞うなか、ふたりは招かれるように歩みでる。
突然現れた、黄金種 のとびきり美しい少年に、参列者は目を丸くし、賛嘆 のため息をもらした。
だが、先ほどの祝福の魔法を描いた少年だと紹介されると、場の空気が一瞬で和らぎ、温かな笑みと拍手が広がった。
こうして、初めて出会う人々の結婚式に招かれ、ふたりは直接、お祝いの言葉を贈ることになった。
「「おめでとうございます、幾久しくお幸せに」」
声をそろえて祝福すると、花嫁はブーケから一輪の花を抜き取り、エイミーの帽子にそっと挿してくれた。
「ありがとう、お嬢様」
その声音 は、祝福の鐘と同じくらい澄んでいた。
果物とジュースをご馳走になり、笑い声と音楽が満ちるなかで、エイミーは幸せそうな花嫁の横顔を見つめていた。
祝福と、ほんの少しの羨望 が、胸の奥に滲 む。
──前世では、結婚を約束した男性に裏切られるまでは、笑美もまた幸福の絶頂にいた。
ウェディングドレスを試着し、白壁に蔦 の這う、個人邸宅のチャペルを下見に訪れた。祭壇のうしろではステンドグラスが輝き、午後の陽光が床に花模様を描いていた。
ふたりでバージンロードを並んで歩き、彼の手をとって笑いあった。ここで式を挙げようね、と。あの時は、確かにふたりの未来を信じていたのに……
「まさか、他人の結婚式に飛び入り参加するとは思わなかったな」
エミリオの声に、意識が現在に引き戻された。
「素敵な結婚式ね」
「うん……エイミーの社交力の高さに驚いたよ。初対面の人と、よくあれだけ打ち解けられるね」
「そ、そう?」
ほほほ、と口元に手をあてる。
それなりに波乱万丈の人生を経験しているので、今のエイミーは、実年齢よりコミュ力は高いだろう。
「……エイミーは、こういう式に憧れる?」
窺うような瞳 に見つめられ、エイミーはドキッとした。
(お義兄さまったら、なんて際どい質問をするの? 私が答えを間違えたら、ふたりの関係が変わっちゃうじゃない)
慎重に、そっと視線を逸 らした。幸せそうな新婦を眺めるふりをして。
「そうね、いつかは……」
ほほえんで返した声は、どこか覇気 がなかった。
笑美の感傷など遠い前世の残響にすぎない。それなのに、どうして今を生きるエイミーに、これほどの影響をもたらすのだろう?
けれども、祝福のざわめきと熱気が、そんな翳 をすぐに溶かしてしまう。
ここには、ただ幸福だけがあった。
視界に涙が滲んで、さりげなく指先で拭 っていると、気遣わしげな視線を感じた。
「……エイミー?」
「なんでもない。感動しただけ」
綺麗に折りたたまれた手巾 をさしだされて、エイミーは礼をいって受け取った。
──本当に、なんて美しい結婚式なのかしら……
やがて陽が傾き、海の向こうに金色の残照 が沈む頃。
時計塔のある広場で両親たちと合流したエイミーは、晩餐の席に着いた瞬間、思いがけない光景に息を呑んだ。
「「お誕生日おめでとう!」」
祝福の声と同時に、夜空が弾けた。
群青 の天蓋 に、鮮やかな花火が次々と咲いてゆく。
金、銀、紅、青、白──光の雨が流星のように降りそそぎ、世界が瞬 きのなかに溶けていく。
星のような浮遊魔導端末 が飛びたち、夜空のキャンパスに光の筆で文字を描きだした。
〈お誕生日おめでとう、エイミー〉
煌 めく文字が星座のように瞬 いて、まるで天そのものが祝福を与えているようだ。
通りの人々まで足を止め、楽しそうに夜空に手を振っている。
「「おめでとう、エイミー!」」
見知らぬ人々の声が波のように広がり、その笑顔が旧友のように温かく感じられた。
「こ、これは……」
嬉しいけれど、恥ずかしくて、頬が燃えるように熱くなる。
耳まで真っ赤になり、俯 いたまま胸の前で手を組んだ。
「花火は私のアイディアだけれど、浮遊魔導端末 はリオがいいだしたのよ」
義母の言葉に、エイミーはぱちりと瞬 き、エミリオを見た。
彼は少し照れたように目を伏せ、静かに囁いた。
「……結婚式でやったとき、思いついたんだ」
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
「ありがとう、お義兄さま」
心からの気持ちを告げると、エミリオは頬を染めて、嬉しそうにほほえんだ。
その笑顔は、花火よりも鮮やかで、どんな夜よりも優しかった。
(……気を遣わせちゃったかな。私が、結婚式で変なふうに泣いたから……優しいのね、お義兄さま)
胸を打たれていたエイミーだが、彼の頭上にまた、あの光が瞬 くのを見て慌てた。
「お義兄さまっ、もう十分よ! もう……お腹いっぱいだわ!」
勢い余った声に、エミリオが目を丸くしている。家族も、不思議そうに視線をよこした。
「お腹、空いてないの?」
エミリオは小首を傾げた。
「い、いえ! お腹はぺこぺこなの!」
あはは、と笑って誤魔化す。自分でも支離滅裂だと思いながら。
その間に、エミリオの頭上の光は消えていた。
ほっとしたような、残念なような……複雑な心境だが、自分がどうしたいかも決められないのに、彼の恋心を知るのは、今日はもうできそうになかった。
話題はすぐに他のことに移ったが、心臓の鼓動が、まだ跳ねている。
落ち着かない気分でいたが、海の幸のパエリアが運ばれてくると、いたく食欲を刺激された。
潮とオリーヴ油が溶けあう芳 しい香りが立ちのぼり、貝殻のひらく音さえ幸福の調べに聞こえる。
ほかにも、トマトのミネストローネ、香草をまぶした白身の焼魚、檸檬 を効かせた冷製パスタ、そして透明なグラスに盛りつけられたグレープ・フルーツのゼリー。
どれもエイミーの大好物ばかりだ。
今夜は特別に、シャンパンを一杯だけ許された。
泡が舌のうえで弾け、金の煌 めきが喉をすべり落ちていく。
夜凪 を迎えた漆黒の海に、鮮やかな花火が咲く。
光がグラスに映りこみ、星を閉じこめたように瞬 いている。
胸の奥が、じんわりと熱かった。
幸せは、きっとこんな風に、静かに、ゆっくりと沁 みていくものなのだろう。
(……私、幸せだわ)
そう思った瞬間、世界のすべてが優しく見えた。
風も、灯も、人の声も──
そのすべてが、まるで自分を祝福してくれているように感じられる。
海の彼方 で、ひときわ大きな花火が打ちあがった。
ぱっと光の花が咲き、続けざまに新しい花が夜空を彩 る。
幾千 の火花が緩やかに落ちていき、静かに、漆黒の鏡めいた海に溶けていった。
白い
今日も、
地元の人と観光客の違いは、
そして
今日のエイミーは、膝をのぞかせる黄色の衣装を
頭には、昼顔と小薔薇をあしらった
弟のシドニーからも、
「似合っているよ」
「姉様、とても素敵です」
エミリオとシドニーが声をそろえ、褒めてくれる。
「ありがとう、ふたりとも」
エイミーは笑顔で礼をいった。
常日頃から貴族令嬢らしからぬ装いをしている自覚はあるが、
「この帽子のリボンがかわいいのよね」
クリーム色の綱飾りが施され、昼顔と薔薇の蕾が連なる
エミリオの頭上に、妖精の粉のような、金の粒子が舞っていた。
期待して見つめていると、やがて数字に変わった。
84%
──あがっている!
胸の奥が、ふわっと熱くなる。
誕生日のジンクスは健在だ。じわじわと喜びがこみあげてきて、頬が緩みそうになり、慌てて
「……エイミー?」
「なんでもないの」
恋心に
(……このまま気持ちが育ってしまったら、どうなってしまうのだろう……)
「いきましょう、姉様」
「ええ」
海辺の町は、
通りの壁には、陶器の皿がいくつも飾られていた。どれも色鮮やかで、
そういえば、昨夜の晩餐でも似たような皿を見た。この地方の伝統的な
陽光が反射して、皿の模様が壁に舞っている。まるで小さな海の
昼食は、海辺のレストランでとることになった。
白いテラス席の向こうには、
養親はシャンパン、エイミーたちはアルコールなしの炭酸飲料で乾杯した。
焼きたての胡桃パンをオリーヴ油にひたし、前菜の貝柱のマリネとともに口へ運ぶ。香草を添えた海老のグリル、冷たい
美味しい料理を味わいながら、爽やかな潮の香りを含んだ風に頬を撫でられる。
遠くから船の
これぞ港町ならではの
昼食後、家族はふた手に分かれることになった。
両親とシドニー、そしてエイミーとエミリオ。
いつもは子供たち三人で行動させられることが多いので、エイミーは少し戸惑いながら義母を見た。
義母オリヴィアは、
「夕方に合流しましょう。ふたりとも、楽しんでいらっしゃい」
(な、なにっ⁉)
自分の義母なのに、ドキマギしてしまう。彼女の実年齢は四十路過ぎなのだが、
(……お義母さま、どこまで知っているのかしら……気になるけど、聞くのが怖いわ……)
気まぐれな微笑の裏に、なにか含みがあるような気がするエイミーだが、義母は疑問に答えることなく、義父とシドニーを連れていってしまった。
残されたふたりは、顔を見あわせた。
互いの顔に、どうする? と書いてある。
「とりあえず、大通りを歩いてみる?」
エミリオの提案に、エイミーは笑顔で頷いた。
「いいわ」
ふたりだけで歩くのは、本当に久しぶりだった。
最近はいつもシドニーが一緒だったから、エミリオと並ぶと、どうしても意識してしまう。
すれ違う見知らぬ人ですら、エミリオにぽぅっと見惚れている。なかには二度見して振り向いた
(……ちょっと、怖いな)
エイミーが
彼といると、衆目を集めるのはいつものことだ。
そして、いつもにはないぎこちない緊張も、陽光のなかを歩くうちに自然と溶けていった。
夏の通りは、きらめきと香りの混ざりあう
そよ風が吹くたびに、海の匂いと焼きたてのパンの香ばしさ、
軽やかな足どりで散策していると、ふと一軒の
白壁に囲まれた古い建物で、扉は大きく開かれている。
なかを覗き見ると、壁にかけれた大きなキャンパスに、碧い海と港町の
「寄っていく?」
エミリオに訊かれて、エイミーは頷いた。
どの絵も素晴らしいが、最初に目を引いた、碧い海の絵に心を奪われた。
立ち止まって見入っていると、隣にエミリオが並んだ。
「気に入ったの?」
「ええ……素敵だと思わない?」
「うん、いい絵だね」
「私、この絵なら何時間でも見ていられるわ……」
その言葉に、エミリオが小さく笑った。
「エイミーは、感動するのが上手だね」
笑みを含んだ菫色の
──なんて澄んだ
危うく心を奪われそうになり、慌てて絵に視線を戻す。
「この絵、ほしいわ」
シルヴァニール邸の談話室に飾りたい。
皆がよく目にするところにかけておきたい。いつでもこの海を感じられるように。
そう思って、店員を呼び、値段を訊ねた。思ったよりも手ごろだったので、即座に決めた。
「いただくわ。公爵家に送ってちょうだい」
ゼラフォンダヤの名を聞いた店員は、一瞬目を
外へでると、通りの
海と香水、果実と花びら。夏の匂い。その
「エイミー」
差し伸べられた手を、反射的に取った。
指先が触れた瞬間、胸の奥がきゅっと高鳴る。
手をつないで歩くのは少し気恥ずかしいけれど、迷子になるよりいい。
この港町は、岩壁に挟まれた細い路地が無数に枝分かれしており、うっかりよそ見をすれば、すぐに見失ってしまいそうだった。
どこからか、鐘の音が聴こえてくると、本当に時が巻き戻ったような錯覚がした。
(近くに礼拝堂があるのかしら?)
ほどなくして、拍手と笑い声が湧きあがった。
導かれるようにその方向へ進むと、白い花で飾られた
音楽隊が高らかにラッパを吹き鳴らし、参列者たちはいっせいにピンクや白の花びらを浴びせかける。
花吹雪が舞うなかを、新郎新婦がゆっくりと歩みでてきた。
「おめでとう、どうか幾久しくお幸せに!」
エイミーも拍手しながら声をかけた。
視線があった新婦が、
嬉しくなったエイミーは、エミリオの袖を引いて囁いた。
「お義兄さま、〈おめでとう〉って空に文字を描ける?」
「できるよ」
エミリオは穏やかに頷き、指先で空をなぞる。
すると、青空に白い雲のような光の筆跡が走り、やがて柔らかな〈おめでとう〉の文字が浮かびあがった。
その優しい祝福の魔法に、参列者たちは息を呑み──次の瞬間、ワァッ! と大きな歓声が広がった。
新郎の友人らしき青年が、笑いながら手招きしている。
──君たちも、おいで。
エミリオは一瞬、
夏の陽光と花びらの舞うなか、ふたりは招かれるように歩みでる。
突然現れた、
だが、先ほどの祝福の魔法を描いた少年だと紹介されると、場の空気が一瞬で和らぎ、温かな笑みと拍手が広がった。
こうして、初めて出会う人々の結婚式に招かれ、ふたりは直接、お祝いの言葉を贈ることになった。
「「おめでとうございます、幾久しくお幸せに」」
声をそろえて祝福すると、花嫁はブーケから一輪の花を抜き取り、エイミーの帽子にそっと挿してくれた。
「ありがとう、お嬢様」
その
果物とジュースをご馳走になり、笑い声と音楽が満ちるなかで、エイミーは幸せそうな花嫁の横顔を見つめていた。
祝福と、ほんの少しの
──前世では、結婚を約束した男性に裏切られるまでは、笑美もまた幸福の絶頂にいた。
ウェディングドレスを試着し、白壁に
ふたりでバージンロードを並んで歩き、彼の手をとって笑いあった。ここで式を挙げようね、と。あの時は、確かにふたりの未来を信じていたのに……
「まさか、他人の結婚式に飛び入り参加するとは思わなかったな」
エミリオの声に、意識が現在に引き戻された。
「素敵な結婚式ね」
「うん……エイミーの社交力の高さに驚いたよ。初対面の人と、よくあれだけ打ち解けられるね」
「そ、そう?」
ほほほ、と口元に手をあてる。
それなりに波乱万丈の人生を経験しているので、今のエイミーは、実年齢よりコミュ力は高いだろう。
「……エイミーは、こういう式に憧れる?」
窺うような
(お義兄さまったら、なんて際どい質問をするの? 私が答えを間違えたら、ふたりの関係が変わっちゃうじゃない)
慎重に、そっと視線を
「そうね、いつかは……」
ほほえんで返した声は、どこか
笑美の感傷など遠い前世の残響にすぎない。それなのに、どうして今を生きるエイミーに、これほどの影響をもたらすのだろう?
けれども、祝福のざわめきと熱気が、そんな
ここには、ただ幸福だけがあった。
視界に涙が滲んで、さりげなく指先で
「……エイミー?」
「なんでもない。感動しただけ」
綺麗に折りたたまれた
──本当に、なんて美しい結婚式なのかしら……
やがて陽が傾き、海の向こうに金色の
時計塔のある広場で両親たちと合流したエイミーは、晩餐の席に着いた瞬間、思いがけない光景に息を呑んだ。
「「お誕生日おめでとう!」」
祝福の声と同時に、夜空が弾けた。
金、銀、紅、青、白──光の雨が流星のように降りそそぎ、世界が
星のような
〈お誕生日おめでとう、エイミー〉
通りの人々まで足を止め、楽しそうに夜空に手を振っている。
「「おめでとう、エイミー!」」
見知らぬ人々の声が波のように広がり、その笑顔が旧友のように温かく感じられた。
「こ、これは……」
嬉しいけれど、恥ずかしくて、頬が燃えるように熱くなる。
耳まで真っ赤になり、
「花火は私のアイディアだけれど、
義母の言葉に、エイミーはぱちりと
彼は少し照れたように目を伏せ、静かに囁いた。
「……結婚式でやったとき、思いついたんだ」
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
「ありがとう、お義兄さま」
心からの気持ちを告げると、エミリオは頬を染めて、嬉しそうにほほえんだ。
その笑顔は、花火よりも鮮やかで、どんな夜よりも優しかった。
(……気を遣わせちゃったかな。私が、結婚式で変なふうに泣いたから……優しいのね、お義兄さま)
胸を打たれていたエイミーだが、彼の頭上にまた、あの光が
「お義兄さまっ、もう十分よ! もう……お腹いっぱいだわ!」
勢い余った声に、エミリオが目を丸くしている。家族も、不思議そうに視線をよこした。
「お腹、空いてないの?」
エミリオは小首を傾げた。
「い、いえ! お腹はぺこぺこなの!」
あはは、と笑って誤魔化す。自分でも支離滅裂だと思いながら。
その間に、エミリオの頭上の光は消えていた。
ほっとしたような、残念なような……複雑な心境だが、自分がどうしたいかも決められないのに、彼の恋心を知るのは、今日はもうできそうになかった。
話題はすぐに他のことに移ったが、心臓の鼓動が、まだ跳ねている。
落ち着かない気分でいたが、海の幸のパエリアが運ばれてくると、いたく食欲を刺激された。
潮とオリーヴ油が溶けあう
ほかにも、トマトのミネストローネ、香草をまぶした白身の焼魚、
どれもエイミーの大好物ばかりだ。
今夜は特別に、シャンパンを一杯だけ許された。
泡が舌のうえで弾け、金の
光がグラスに映りこみ、星を閉じこめたように
胸の奥が、じんわりと熱かった。
幸せは、きっとこんな風に、静かに、ゆっくりと
(……私、幸せだわ)
そう思った瞬間、世界のすべてが優しく見えた。
風も、灯も、人の声も──
そのすべてが、まるで自分を祝福してくれているように感じられる。
海の
ぱっと光の花が咲き、続けざまに新しい花が夜空を