奇跡のように美しい人
1章:女神 - 0 -
What does not kill me, makes me stronger.
(私を殺しえぬ苦痛は、私をより強くする)
Nietzsche.
年の終わりの一二月二二日。雪の降る東京。金曜日の黄昏。
とある建設現場。
四方を柵で囲まれた解体途中のデパートは、現在立ち入り禁止になっている。点々と明かりは灯っているが、殆ど真っ暗だ。
誰もいない建設現場を、陰気臭い、昏い瞳をした少女――羽澄佳蓮は歩いていた。
少女と呼ぶには大柄で、縦にも横にも迫力がある。そばかすの散った団子鼻、丸顔の二重顎。筆で引いたような一重は眼光鋭く、常に睨んでいるように見える。背に垂らした長い三つ編は、荒縄のように重たく、歩くたびに鈍い影を揺らした。
お世辞にも、器量が良いとは言えない。
外見に深い劣等感を抱く佳蓮は、幼い頃から〝金太郎〟や〝地蔵〟と散々からかわれてきた。
成長するにつれて、露骨な中傷は減ったが、誰も積極的に佳蓮に近づこうとはしなかった。
学校は吐くほど嫌いで、毎朝震える足を叱咤して通ったけれど、とうとう心が音をあげてしまった。
――もう、疲れた。
この日の為に、何度も下見を繰り返し、飛び降りる場所を予め決めてあった。
肩からさげた鞄を地面におろすと、立ち入り禁止の札がかけられた扉を、両手で押し開いた。
軋んだ音が鳴った。
白い息を吐きながら、大柄な躰を、その隙間へと無理矢理ねじこむ。
瓦礫の積もった非常階段を一二階まで黙々と上り、踊り場で息をつく。その先に続く、崩れかけた階段を踏みしめ、半壊した最上階に辿り着いた。屋上にでると、冷たい冬の風が容赦なく吹きこんできた。
凍えそうな寒さだったが、手袋もコートもマフラーも、全てはずした。靴も脱いで、ローファーの靴底に遺書を挟む。
素足になり、宙へと張りだした鋼鉄の狭い床に、足を乗せた。
何度も頭でシミュレーションしてきたけれど、本番は足が竦む。命など欠片も惜しくないのに、恐怖とはなんと厄介な生き物だろう。
冷たい鋼鉄の上を、素足のまま歩いていく。
暗くて、地上までの距離感は曖昧だが、優に三〇メートルはあるはずだ。明かりが少なくて良かった。視界が悪いから、かえってまっすぐに歩ける。
一歩、また一歩と深淵に続く道を踏みしめる。
先端に辿りつき、両足を揃えた。
――さぁ、飛べ。
下は剥きだしのコンクリートだから、きっと、即死できる。
「……」
暗闇の瀑布に視線を落として、生唾を呑みこんだ。
大丈夫……怖いのは今だけだ。飛びおりれば、もう学校に行かなくて済む。家族に責められることもない。
楽になれる。
甘い死の誘惑が恐怖を凌駕し、自然と足が動いて――落ちた。
時間を超越した零の瞬間――無機質な夜闇の向こうに小さな光が灯った気がした。
声が聴こえる……
〝さぁ、星の雫をお飲み。どんな傷もたちどころに癒えるから。ただし、効果は永久ではないよ〟
(何? ……蜂蜜?)
〝星の雫だよ。哀しい魂……君はこれから、命を棄てた咎を贖わないといけない〟
(誰なの?)
〝星幽界の意志だよ。君を試し、導くもの。高位次元から交感できるのは今だけだから、よく聞いて〟
(……はぁ)
〝本当の幸せは、自分のなかにあるもの。それを見つけて……大切な人に、分け与えて。そうすれば、君も満たされるだろう〟
(……)
〝星の雫の効果が切れる前に、心を満たすんだ。時がくれば判る。この……を……。そうすれば……だよ〟
(何? 聞こえない……)
〝覚えていて。君は、一つだけ奇蹟を起こせることを〟
予言めいた声を聴いた、刹那。
佳蓮の背から、光の羽根が咲きこぼれた。
黄金の光輝を燃やし、無数の羽を虚空へと散らしながら、群青の夜へと落ちていく。
天の理から切り離された、墜ちる流星のように。
(私を殺しえぬ苦痛は、私をより強くする)
Nietzsche.
年の終わりの一二月二二日。雪の降る東京。金曜日の黄昏。
とある建設現場。
四方を柵で囲まれた解体途中のデパートは、現在立ち入り禁止になっている。点々と明かりは灯っているが、殆ど真っ暗だ。
誰もいない建設現場を、陰気臭い、昏い瞳をした少女――羽澄佳蓮は歩いていた。
少女と呼ぶには大柄で、縦にも横にも迫力がある。そばかすの散った団子鼻、丸顔の二重顎。筆で引いたような一重は眼光鋭く、常に睨んでいるように見える。背に垂らした長い三つ編は、荒縄のように重たく、歩くたびに鈍い影を揺らした。
お世辞にも、器量が良いとは言えない。
外見に深い劣等感を抱く佳蓮は、幼い頃から〝金太郎〟や〝地蔵〟と散々からかわれてきた。
成長するにつれて、露骨な中傷は減ったが、誰も積極的に佳蓮に近づこうとはしなかった。
学校は吐くほど嫌いで、毎朝震える足を叱咤して通ったけれど、とうとう心が音をあげてしまった。
――もう、疲れた。
この日の為に、何度も下見を繰り返し、飛び降りる場所を予め決めてあった。
肩からさげた鞄を地面におろすと、立ち入り禁止の札がかけられた扉を、両手で押し開いた。
軋んだ音が鳴った。
白い息を吐きながら、大柄な躰を、その隙間へと無理矢理ねじこむ。
瓦礫の積もった非常階段を一二階まで黙々と上り、踊り場で息をつく。その先に続く、崩れかけた階段を踏みしめ、半壊した最上階に辿り着いた。屋上にでると、冷たい冬の風が容赦なく吹きこんできた。
凍えそうな寒さだったが、手袋もコートもマフラーも、全てはずした。靴も脱いで、ローファーの靴底に遺書を挟む。
素足になり、宙へと張りだした鋼鉄の狭い床に、足を乗せた。
何度も頭でシミュレーションしてきたけれど、本番は足が竦む。命など欠片も惜しくないのに、恐怖とはなんと厄介な生き物だろう。
冷たい鋼鉄の上を、素足のまま歩いていく。
暗くて、地上までの距離感は曖昧だが、優に三〇メートルはあるはずだ。明かりが少なくて良かった。視界が悪いから、かえってまっすぐに歩ける。
一歩、また一歩と深淵に続く道を踏みしめる。
先端に辿りつき、両足を揃えた。
――さぁ、飛べ。
下は剥きだしのコンクリートだから、きっと、即死できる。
「……」
暗闇の瀑布に視線を落として、生唾を呑みこんだ。
大丈夫……怖いのは今だけだ。飛びおりれば、もう学校に行かなくて済む。家族に責められることもない。
楽になれる。
甘い死の誘惑が恐怖を凌駕し、自然と足が動いて――落ちた。
時間を超越した零の瞬間――無機質な夜闇の向こうに小さな光が灯った気がした。
声が聴こえる……
〝さぁ、星の雫をお飲み。どんな傷もたちどころに癒えるから。ただし、効果は永久ではないよ〟
(何? ……蜂蜜?)
〝星の雫だよ。哀しい魂……君はこれから、命を棄てた咎を贖わないといけない〟
(誰なの?)
〝星幽界の意志だよ。君を試し、導くもの。高位次元から交感できるのは今だけだから、よく聞いて〟
(……はぁ)
〝本当の幸せは、自分のなかにあるもの。それを見つけて……大切な人に、分け与えて。そうすれば、君も満たされるだろう〟
(……)
〝星の雫の効果が切れる前に、心を満たすんだ。時がくれば判る。この……を……。そうすれば……だよ〟
(何? 聞こえない……)
〝覚えていて。君は、一つだけ奇蹟を起こせることを〟
予言めいた声を聴いた、刹那。
佳蓮の背から、光の羽根が咲きこぼれた。
黄金の光輝を燃やし、無数の羽を虚空へと散らしながら、群青の夜へと落ちていく。
天の理から切り離された、墜ちる流星のように。