奇跡のように美しい人

1章:女神 - 0 -

 What nearly kills you makes you stronger.
 (どんなに辛いことでも、乗り越えれば強くなれる)

 Nietzsche.




 雪の降る東京。金曜日の黄昏。とある建設現場。
 四方を柵で囲まれた解体途中のデパートは、現在立ち入り禁止になっている。点々と明かりは灯っているが、殆ど真っ暗だ。
 誰もいない建設現場を、陰気臭い、昏い眼をした少女――羽澄佳蓮はすみかれんは歩いていた。
 少女と呼ぶには大柄で、縦にも横にも迫力がある。そばかすの散った団子鼻に、丸顔の二重顎。筆で引いたような一重は眼光が鋭く、黙っていると怒っているように見える。背中に垂らした長い三つ編は、まるで荒縄のようだ。
 お世辞にも、器量がいいとはいえない。
 外見に深いコンプレックスを抱えている佳蓮は、子供の頃から“金太郎”や“地蔵”と散々からかわれてきた。
 成長するにつれて、あからさまな中傷は減ったが、誰も好んで佳蓮に近付きたがらなかった。
 学校が吐くほど嫌で、毎朝震える足を叱咤して通ったけれど、とうとう心が音を上げた。
 もう疲れた。
 この日の為に、何度も下見を繰り返し、飛び降りる場所をあらかじめ決めてあった。
 肩から下げた鞄を地面に下ろすと、立ち入り禁止の札がかけられた扉を両手で開く。
 軋んだ音が鳴った。
 白い息を吐きながら、大柄な身体を隙間に無理矢理ねじ込んだ。
 瓦礫の積もった非常階段を一二階まで登りきり、踊り場で息をつく。
 天井の半壊している最上階には、冷たい冬の風が容赦なく吹き込んできた。
 凍えそうな寒さだったが、手袋もコートもマフラーも、全て外した。靴も脱いで、ローファーの底に遺書を挟みこむ。素足になると、宙へと張り出した鋼鉄の骨組みに足を踏み出した。
 何度もシミュレーションしてきたけれど、本番は足が竦む。命など欠片も惜しくはないのに、恐怖とはやっかいなものだ。
 果てしない鋼鉄の上を、素足で歩いていく。
 暗くて、地上までの距離感は曖昧だが、優に三〇メートルは上空のはずだ。明かりが少なくて良かった。視界が悪いから、かえってまっすぐに歩ける。
 一歩、また一歩と深淵に続く道を踏みしめる。
 先端までくると、両足を揃えて立ち尽くした。
 さぁ、飛べ。
 下はむき出しのコンクリートだから、きっと即死できる。

「……」

 暗闇の瀑布ばくふに眼を落として、生唾を呑み込んだ。
 大丈夫……怖いのは今だけだ。飛び下りれば、もう学校に行かなくてすむ。家族に責められることもない。
 楽になれる。
 甘い死への誘惑が恐怖を凌駕し、自然と足が動いて――落ちた。

 時間を超越した零の瞬間――無機質な夜闇の向こうに、宝石のような光が灯った気がした。




 声が聞こえる。




“さぁ、星の雫をお飲み。どんな傷もたちどころに癒えるから。ただし、効果は永久的なものではないよ”

(何? ……蜂蜜?)

“星の雫だよ。哀しい魂……ねぇ、佳蓮。君はこれから、命を棄てたとがあがなわないといけない”

(誰なの?)

星幽アストラル界の意志だよ。君を試すものであり、導くもの。高位次元から交感できるのは、今だけだからよく聞いて”

(はぁ)

“聖杯を満たす者を、愛しなさい。その者は見返りを求めずに君を愛し、守るだろう”

(……)

“いいかい? 星の雫の効果が切れる前に、聖杯を満たすんだ……そうすれば……だよ”

(何? 聞こえない)

“覚えていて。君は、一つだけ奇跡を起こせることを”




 佳蓮の背中に、翼が生えていた。羽を散らし、黄金の光輝こうきを燃やしながら、群青の夜を落下した。