奇跡のように美しい人
1章:女神 - 6 -
二ヵ月後。
真冬は過ぎ、風はだいぶ暖かくなった。空中庭園では、満点星の木が蕾をつけている。
もうすぐ春が来る。
時計塔の六二階にある私室で、普段はあまり見ないようにしている鏡の前に立ち、佳蓮は首を傾げていた。
ここへ来てから、髪が、少しも伸びないのだ。なぜか、月経も止まっている。
今さら何が起きても驚きやしないが、己の躰に疑問を覚える。結局、生きているのか死んでいるのか……
「羽澄様? お目覚めでしょうか?」
鏡の前でぼぅっとしていると、いつものように、レインジールがやってきた。
部屋へ招き入れると、佳蓮はしみじみと美貌の少年を眺めた。
「羽澄様?」
凝と見られて、レインジールは落ち着かない様子だ。
大人顔負けで仕事をこなす少年だが、純情な一面もあって、こうして佳蓮が見つめていると、大抵は頬を染めて恥ずかしそうに俯いてしまう。
「ねぇ、髪に触ってもいい?」
「えっ? はい、どうぞ」
レインジールは戸惑いながらも快諾し、佳蓮の手の動きを、緊張気味に見守っている。
前髪に触れると、レインジールは、きゅっと瞳を閉じた。
腰まで届く銀糸の髪は、驚くほど滑らかで、指で梳けば、絡まることなく零れ落ちる。出会った時より、ほんのわずかに伸びているように見えた。
「……綺麗な髪だね」
手を離すと、レインジールはそろりと瞳を開けた。
「ありがとうございます。羽澄様は……本当にお優しいですね」
「本当に綺麗だもん。よく言われるでしょ?」
「いいえ。こんな風に触れてくださるのは、羽澄様だけです」
その言葉は、幼い少年のものにしては切なかった。彼は既に、親兄弟と死別している。こうした寂しげな表情を見るたび、同情と、後ろめたさが胸に滲んでしまう。
――家族のことは、考えたくない。
ここでは〝尊い献身〟と讃えられるが、そんな大層なものではない。ただ辛いことから逃げただけだ。
「あの……」
上目遣いで、レインジールが小さく声を落とす。
「なに?」
「いえ……」
「?」
珍しく歯切れの悪い様子に、佳蓮は不思議に思って首を傾げた。
視線で言葉の先を促すと、レインジールは胸の前で手を組み、もじもじする。
「あの……私も、羽澄様の髪に触れても……よろしいでしょうか?」
少し面を食らったが、佳蓮は気安く頷き、寝椅子に腰を下ろした。
レインジールも遠慮がちに隣に座り、慎重に伸ばした小さな手で、黒髪の一房に触れた。
「なんて……綺麗……」
「普通だよ。でも、ここへ来てから確かに、少し綺麗になった気がする。皆が丁寧にお世話してくれるからかな」
「本当に、豊かで……美しい黒髪ですね」
感極まったように、レインジールは呟いた。
あれほど疎ましかった彼の大袈裟な賛美にも、いつの間にか慣れてしまった。
「ありがとう。レインの銀髪も、すごく綺麗だよ」
「いえ……私など……」
自嘲気味に微笑するレインジール。
不思議なことに、天使のような美貌を持つこの少年は、時折、どうしようもなく己を卑下する。能力的には自己効力感が高いのに、こと容姿に関しては、意外なほど自己肯定感が低いのだ。
謎過ぎる。佳蓮を女神と慕うあたり、相当変わっていることは確かである。
だが、それは彼だけではない。
時計塔の人は皆、レインジールを筆頭に、佳蓮を褒めそやす。
お伽噺のような世界で、蝶よ花よと傅かれる日々は、本当に女神になったかのような錯覚を生む。調子に乗らないよう己に言い聞かせていても、感覚が麻痺してしまいそうだった。
「羽澄様」
不意に、レインジールの声が沈んだ。
視線を向けると、少年は形の良い眉を下げて、恐れるように唇を開いた。
「実は……皇太子殿下より、昼食会への招待を頂いております」
「えぇ?」
露骨に嫌そうな声をだすと、なぜか、レインジールの愁眉が僅かに晴れた。
「お嫌でしたら、招待を断ることもできます。いかがいたしましょう?」
「断っていいの?」
「いかなる権威であろうと、羽澄様の御心に沿わぬことを、強要することはできません」
「……すごいね。私って何様? 女神様?」
冗談めかすと、レインジールは笑顔で頷いた。
「はい。世界で一番、お美しい女神様。私の女神様です」
――全力で肯定されてしまった。
白い繊手が伸び、黒髪の一房をすくいとる。
ゆっくりと、端正な顔が傾く。
……レインジールの行動はアンバランスだ。視線が合うだけで照れるくせに、こういう時は妙に大人びている。
黒髪に口づける姿は、一種悖徳の美しさがあった。
幼い色香に誘われ、佳蓮は無意識にまろやかな白い頬へ手を伸ばす。撫でると、レインジールは瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべた。幸せそうに瞼を伏せて、佳蓮の手に頬擦りをする。
「あぁ……幸せです……」
もう、レインジールのこうした言動を、演技とは思えなくなってきている。
信じ難いが、彼の瞳には、佳蓮が麗しの女神として映っているのだ。
――美的感覚が死んでいるとしか思えない。
だが、彼の管理する時計塔は、隅々まで洗練され、佳蓮が日参している図書館や空中庭園も、息を呑むほど美しいのだ。
考えれば考えるほど、この世界は、佳蓮に都合が良すぎる。
どうして、こんなにも恵まれた生活を享受できるのだろう?
天の思し召し?
苦しみに満ちた生前を憐れんで、神様が慈悲を与えてくれた?
どこにも居場所がなかったのに、ここでは、いるだけでいいと言ってもらえる。
〝人は、誰もが咎を負って生まれる……〟
レインジールの言葉が、耳に残っている。
咎――佳蓮の場合は決定的だ。自殺した。償いが必要だとしたら、蘇ったこの都合の良い世界で、どう贖えばいいのだろう?
真冬は過ぎ、風はだいぶ暖かくなった。空中庭園では、満点星の木が蕾をつけている。
もうすぐ春が来る。
時計塔の六二階にある私室で、普段はあまり見ないようにしている鏡の前に立ち、佳蓮は首を傾げていた。
ここへ来てから、髪が、少しも伸びないのだ。なぜか、月経も止まっている。
今さら何が起きても驚きやしないが、己の躰に疑問を覚える。結局、生きているのか死んでいるのか……
「羽澄様? お目覚めでしょうか?」
鏡の前でぼぅっとしていると、いつものように、レインジールがやってきた。
部屋へ招き入れると、佳蓮はしみじみと美貌の少年を眺めた。
「羽澄様?」
凝と見られて、レインジールは落ち着かない様子だ。
大人顔負けで仕事をこなす少年だが、純情な一面もあって、こうして佳蓮が見つめていると、大抵は頬を染めて恥ずかしそうに俯いてしまう。
「ねぇ、髪に触ってもいい?」
「えっ? はい、どうぞ」
レインジールは戸惑いながらも快諾し、佳蓮の手の動きを、緊張気味に見守っている。
前髪に触れると、レインジールは、きゅっと瞳を閉じた。
腰まで届く銀糸の髪は、驚くほど滑らかで、指で梳けば、絡まることなく零れ落ちる。出会った時より、ほんのわずかに伸びているように見えた。
「……綺麗な髪だね」
手を離すと、レインジールはそろりと瞳を開けた。
「ありがとうございます。羽澄様は……本当にお優しいですね」
「本当に綺麗だもん。よく言われるでしょ?」
「いいえ。こんな風に触れてくださるのは、羽澄様だけです」
その言葉は、幼い少年のものにしては切なかった。彼は既に、親兄弟と死別している。こうした寂しげな表情を見るたび、同情と、後ろめたさが胸に滲んでしまう。
――家族のことは、考えたくない。
ここでは〝尊い献身〟と讃えられるが、そんな大層なものではない。ただ辛いことから逃げただけだ。
「あの……」
上目遣いで、レインジールが小さく声を落とす。
「なに?」
「いえ……」
「?」
珍しく歯切れの悪い様子に、佳蓮は不思議に思って首を傾げた。
視線で言葉の先を促すと、レインジールは胸の前で手を組み、もじもじする。
「あの……私も、羽澄様の髪に触れても……よろしいでしょうか?」
少し面を食らったが、佳蓮は気安く頷き、寝椅子に腰を下ろした。
レインジールも遠慮がちに隣に座り、慎重に伸ばした小さな手で、黒髪の一房に触れた。
「なんて……綺麗……」
「普通だよ。でも、ここへ来てから確かに、少し綺麗になった気がする。皆が丁寧にお世話してくれるからかな」
「本当に、豊かで……美しい黒髪ですね」
感極まったように、レインジールは呟いた。
あれほど疎ましかった彼の大袈裟な賛美にも、いつの間にか慣れてしまった。
「ありがとう。レインの銀髪も、すごく綺麗だよ」
「いえ……私など……」
自嘲気味に微笑するレインジール。
不思議なことに、天使のような美貌を持つこの少年は、時折、どうしようもなく己を卑下する。能力的には自己効力感が高いのに、こと容姿に関しては、意外なほど自己肯定感が低いのだ。
謎過ぎる。佳蓮を女神と慕うあたり、相当変わっていることは確かである。
だが、それは彼だけではない。
時計塔の人は皆、レインジールを筆頭に、佳蓮を褒めそやす。
お伽噺のような世界で、蝶よ花よと傅かれる日々は、本当に女神になったかのような錯覚を生む。調子に乗らないよう己に言い聞かせていても、感覚が麻痺してしまいそうだった。
「羽澄様」
不意に、レインジールの声が沈んだ。
視線を向けると、少年は形の良い眉を下げて、恐れるように唇を開いた。
「実は……皇太子殿下より、昼食会への招待を頂いております」
「えぇ?」
露骨に嫌そうな声をだすと、なぜか、レインジールの愁眉が僅かに晴れた。
「お嫌でしたら、招待を断ることもできます。いかがいたしましょう?」
「断っていいの?」
「いかなる権威であろうと、羽澄様の御心に沿わぬことを、強要することはできません」
「……すごいね。私って何様? 女神様?」
冗談めかすと、レインジールは笑顔で頷いた。
「はい。世界で一番、お美しい女神様。私の女神様です」
――全力で肯定されてしまった。
白い繊手が伸び、黒髪の一房をすくいとる。
ゆっくりと、端正な顔が傾く。
……レインジールの行動はアンバランスだ。視線が合うだけで照れるくせに、こういう時は妙に大人びている。
黒髪に口づける姿は、一種悖徳の美しさがあった。
幼い色香に誘われ、佳蓮は無意識にまろやかな白い頬へ手を伸ばす。撫でると、レインジールは瞳を細めて、蕩けるような笑みを浮かべた。幸せそうに瞼を伏せて、佳蓮の手に頬擦りをする。
「あぁ……幸せです……」
もう、レインジールのこうした言動を、演技とは思えなくなってきている。
信じ難いが、彼の瞳には、佳蓮が麗しの女神として映っているのだ。
――美的感覚が死んでいるとしか思えない。
だが、彼の管理する時計塔は、隅々まで洗練され、佳蓮が日参している図書館や空中庭園も、息を呑むほど美しいのだ。
考えれば考えるほど、この世界は、佳蓮に都合が良すぎる。
どうして、こんなにも恵まれた生活を享受できるのだろう?
天の思し召し?
苦しみに満ちた生前を憐れんで、神様が慈悲を与えてくれた?
どこにも居場所がなかったのに、ここでは、いるだけでいいと言ってもらえる。
〝人は、誰もが咎を負って生まれる……〟
レインジールの言葉が、耳に残っている。
咎――佳蓮の場合は決定的だ。自殺した。償いが必要だとしたら、蘇ったこの都合の良い世界で、どう贖えばいいのだろう?