奇跡のように美しい人
1章:女神 - 9 -
ファジアル・リュ・シアン城。
マロニエ並木の奥にある、シンデレラ城のように優雅な帝国の宮殿だ。照明に照らされて、蜂蜜色の石灰岩 が煌めいている。
荘厳な扉の前で足を止めると、両開きの扉が、衛兵の手で左右に開かれた。
零れる、光の洪水。
宝石箱のようなグレート・ホールに入ると、途端に金管のファンファーレが鳴り響いた。
「うぉ、びっくったぁ!」
素で驚く佳蓮を見て、レインジールは小さく笑う。
贅を尽くした、瀟洒な広間。天井から吊るされた大きなシャンデリアに、無数の照明。壁に飾られた、色とりどりの薔薇の花冠。
二種類の美しい大理石で造られた螺旋階段には、天鵞絨 の赤絨緞が敷かれている。階下にひしめく人を見て、佳蓮は怯んだ。
「大丈夫ですよ」
腕に添えていた手を、小さな手に優しく撫でられた。レインジールの方が、佳蓮よりよほど落ち着いている。
「女神だ!」
螺旋階段の踊り場まで進むと、誰かが叫んだ。
感極まった叫びが次々と上がり、割れるような拍手と歓迎の声がどよもした。
麗しいレインジールを連れているので覚悟はしていたが、想像以上だ。そこら中から視線を浴びる。
お美しい……そんな溜息混じりの声が、至るところから聞こえてきた。幸いにして、悪意の声は表立っては聞こえてこない。
レインジールは、佳蓮が思う以上に身分が高いようで、貫禄ある貴顕 も、彼とすれ違う時には道を譲り、恭しく頭を下げた。
人が左右に割れて、豪奢な白貂 を羽織った皇太子がやってきた。見知らぬ女性をエスコートしている。
「あの女性は?」
レインジールにそっと耳打ちすると、
「皇太子殿下の婚約者、キララ・A ・マクランタ嬢です」
ごく小さな声で教えてくれた。
「へぇ……」
地味な女性だ。真紅の巻髪と灰紫の瞳は美しいが、顔の造りは、名前ほどに輝いていない。佳蓮ほどでないにしろ、体型も肥満気味だ。しかし、扇を操る手つきや、泣き黒子のある流し目はコケティッシュで、不思議な魅力を醸していた。
「お美しい我等が流星の女神。ようこそいらっしゃいました」
「こんばんは、シリウス皇子」
ぎこちなく膝を折る佳蓮を、シリウスは眼を細めて見つめた。
「彼女は私の婚約者、キララ・A・マクランタ嬢です。良ければ、あちらでお話ししませんか?」
シリウスの腕に手を絡めているキララは、扇子で上品に口元を隠しながら、佳蓮の全身に眼を走らせた。
「すみません。早くも人に酔ってしまって。端によって、静かにしていようかと……」
しどろもどろに応えると、シリウスは残念そうにしながらも許してくれた。キララと共に、歓談の輪へ消えてゆく。
これ以上見知った顔に出くわさぬうちに、先ほどから大人しいレインジールの手を引いて、部屋の隅に逃げた。
「私と、並んで歩いてくれるのですか?」
二人になると、レインジールは信じられない、といった風に佳蓮を仰いだ。
「え? うん。レインしか知っている人いないし、一人にされたら困る。傍にいてよ」
そっけない声でいったが、内心ではびくびくしていた。そっと横目で様子を窺うと、驚いたことに、レインジールは瞳を潤ませていた。
「え? 泣いてるの?」
「泣いておりません」
呆気に取られている佳蓮の手を、白く小さな手が恭しく持ち上げた。物語に登場する騎士のように、手の甲に唇を落とす。
「嬉しいです」
周囲の視線など眼もくれず、レインジールは佳蓮だけを見つめて微笑んだ。
全幅の信頼と敬愛を捧げる瞳が眩し過ぎて、佳蓮は視線を彷徨わせた。
「レインはよく王宮にくるの?」
「そうでもありません。社交は苦手ですし、仕事や宮廷行事で呼ばれた時くらいです」
「ふぅん」
小声で雑談しながら道を進んでいると、第二皇子のアズラピスがやってきた。
彼は、帝国の憧れの的、近衛の花形である白薔薇騎士団の団長でもあり、今宵は凛々しい騎士の礼装に身を包んでいた。
「こんばんは、流星の女神」
にこやかに挨拶する青年を、佳蓮はしみじみと眺めた。筆で引いたような一重、低めの鼻、印象の薄い地味な顔。以前にも思ったことだが、この国の皇子達は至って平凡な顔をしている。
「こんばんは、アズラピス皇子」
「今宵は一段とお美しい。空にあまねく星よりも、ハスミ様の方が眩い」
「あ、ありがとうございます……」
芝居がかった台詞に、頬が引きつりそうになった。
「神秘的な黒水晶の瞳に映っていられるのなら、私も喜んで命を差し出すでしょう」
東洋風の顔立ちをしているが、彼の賞賛ぶりはレインジールに引けを取らない。女性を立てる言動は、この国の文化なのだろうか?
「一曲、踊っていただけますか?」
差し伸べられた手を断ろうとする前に、レインジールに腕を引かれた。
「アズラピス様。羽澄様は、これから休憩するところなのです。またの機会にしていただけますか?」
「おや、そうでしたか……」
少年の顔に眼を注ぎ、アズラピスは柔らかい笑みを浮かべた。
「それでは、残念ですがまたの機会にしましょう。引き留めてすみません」
「いえ、こちらこそ」
軽く会釈すると、礼儀正しいレインジールにしてはいささか無愛想に皇子の横を通り過ぎた。
言葉少なく回廊を進み、休憩用に整えられた客室に入る。お互いに疲れ切っていて、長椅子に並んで座った後は、しばらく口を噤んでいた。
足の疲れが引いてくると、佳蓮はそっと横目で隣を窺った。レインジールは何やら深刻そうな顔をしている。
「ねぇ、どうしたの?」
問いかけると、青い瞳が佳蓮を仰ぐ。
「どう、とは?」
「アズラピスさんと仲悪いの?」
「……彼が気になりますか?」
「いや、別に?」
「彼は、血筋に関係なく、実力で白薔薇騎士団の団長に若くして抜擢された軍事天才です。シリウス皇子と共に、帝国の碧玉と謳われる英雄ですよ」
唐突な説明に、佳蓮は眼を瞬いた。
「へぇ、すごいね。レインだって、まだ一〇歳なのに、公的機関の長官なんでしょ?」
「彼と比べないでください」
「何それ。嫌味?」
ムッとする佳蓮を見て、レインジールも器用に片眉を上げてみせる。陶人形のように端正な顔が不機嫌を滲ませると、十歳と侮れない雰囲気が漂う。
情けなくも佳蓮の方から視線を逸らすと、レインジールは小さく息を吐いた。
「すみません」
「いや、私も……」
ぎこちなく謝罪すると、レインジールは元の穏やかな表情に戻り、優しい手つきで佳蓮の手の甲を撫でた。伏せた睫毛が、神秘的な陰翳を目元に落としている。
幽玄的な美しさに見惚れてしまい、佳蓮は意識して視線を逸らした。
相手は十歳、相手は十歳、相手は十歳……呪文のように心で唱えながら、戻ろう、とレインジールの手を引いた。
マロニエ並木の奥にある、シンデレラ城のように優雅な帝国の宮殿だ。照明に照らされて、蜂蜜色の
荘厳な扉の前で足を止めると、両開きの扉が、衛兵の手で左右に開かれた。
零れる、光の洪水。
宝石箱のようなグレート・ホールに入ると、途端に金管のファンファーレが鳴り響いた。
「うぉ、びっくったぁ!」
素で驚く佳蓮を見て、レインジールは小さく笑う。
贅を尽くした、瀟洒な広間。天井から吊るされた大きなシャンデリアに、無数の照明。壁に飾られた、色とりどりの薔薇の花冠。
二種類の美しい大理石で造られた螺旋階段には、
「大丈夫ですよ」
腕に添えていた手を、小さな手に優しく撫でられた。レインジールの方が、佳蓮よりよほど落ち着いている。
「女神だ!」
螺旋階段の踊り場まで進むと、誰かが叫んだ。
感極まった叫びが次々と上がり、割れるような拍手と歓迎の声がどよもした。
麗しいレインジールを連れているので覚悟はしていたが、想像以上だ。そこら中から視線を浴びる。
お美しい……そんな溜息混じりの声が、至るところから聞こえてきた。幸いにして、悪意の声は表立っては聞こえてこない。
レインジールは、佳蓮が思う以上に身分が高いようで、貫禄ある
人が左右に割れて、豪奢な
「あの女性は?」
レインジールにそっと耳打ちすると、
「皇太子殿下の婚約者、キララ・
ごく小さな声で教えてくれた。
「へぇ……」
地味な女性だ。真紅の巻髪と灰紫の瞳は美しいが、顔の造りは、名前ほどに輝いていない。佳蓮ほどでないにしろ、体型も肥満気味だ。しかし、扇を操る手つきや、泣き黒子のある流し目はコケティッシュで、不思議な魅力を醸していた。
「お美しい我等が流星の女神。ようこそいらっしゃいました」
「こんばんは、シリウス皇子」
ぎこちなく膝を折る佳蓮を、シリウスは眼を細めて見つめた。
「彼女は私の婚約者、キララ・A・マクランタ嬢です。良ければ、あちらでお話ししませんか?」
シリウスの腕に手を絡めているキララは、扇子で上品に口元を隠しながら、佳蓮の全身に眼を走らせた。
「すみません。早くも人に酔ってしまって。端によって、静かにしていようかと……」
しどろもどろに応えると、シリウスは残念そうにしながらも許してくれた。キララと共に、歓談の輪へ消えてゆく。
これ以上見知った顔に出くわさぬうちに、先ほどから大人しいレインジールの手を引いて、部屋の隅に逃げた。
「私と、並んで歩いてくれるのですか?」
二人になると、レインジールは信じられない、といった風に佳蓮を仰いだ。
「え? うん。レインしか知っている人いないし、一人にされたら困る。傍にいてよ」
そっけない声でいったが、内心ではびくびくしていた。そっと横目で様子を窺うと、驚いたことに、レインジールは瞳を潤ませていた。
「え? 泣いてるの?」
「泣いておりません」
呆気に取られている佳蓮の手を、白く小さな手が恭しく持ち上げた。物語に登場する騎士のように、手の甲に唇を落とす。
「嬉しいです」
周囲の視線など眼もくれず、レインジールは佳蓮だけを見つめて微笑んだ。
全幅の信頼と敬愛を捧げる瞳が眩し過ぎて、佳蓮は視線を彷徨わせた。
「レインはよく王宮にくるの?」
「そうでもありません。社交は苦手ですし、仕事や宮廷行事で呼ばれた時くらいです」
「ふぅん」
小声で雑談しながら道を進んでいると、第二皇子のアズラピスがやってきた。
彼は、帝国の憧れの的、近衛の花形である白薔薇騎士団の団長でもあり、今宵は凛々しい騎士の礼装に身を包んでいた。
「こんばんは、流星の女神」
にこやかに挨拶する青年を、佳蓮はしみじみと眺めた。筆で引いたような一重、低めの鼻、印象の薄い地味な顔。以前にも思ったことだが、この国の皇子達は至って平凡な顔をしている。
「こんばんは、アズラピス皇子」
「今宵は一段とお美しい。空にあまねく星よりも、ハスミ様の方が眩い」
「あ、ありがとうございます……」
芝居がかった台詞に、頬が引きつりそうになった。
「神秘的な黒水晶の瞳に映っていられるのなら、私も喜んで命を差し出すでしょう」
東洋風の顔立ちをしているが、彼の賞賛ぶりはレインジールに引けを取らない。女性を立てる言動は、この国の文化なのだろうか?
「一曲、踊っていただけますか?」
差し伸べられた手を断ろうとする前に、レインジールに腕を引かれた。
「アズラピス様。羽澄様は、これから休憩するところなのです。またの機会にしていただけますか?」
「おや、そうでしたか……」
少年の顔に眼を注ぎ、アズラピスは柔らかい笑みを浮かべた。
「それでは、残念ですがまたの機会にしましょう。引き留めてすみません」
「いえ、こちらこそ」
軽く会釈すると、礼儀正しいレインジールにしてはいささか無愛想に皇子の横を通り過ぎた。
言葉少なく回廊を進み、休憩用に整えられた客室に入る。お互いに疲れ切っていて、長椅子に並んで座った後は、しばらく口を噤んでいた。
足の疲れが引いてくると、佳蓮はそっと横目で隣を窺った。レインジールは何やら深刻そうな顔をしている。
「ねぇ、どうしたの?」
問いかけると、青い瞳が佳蓮を仰ぐ。
「どう、とは?」
「アズラピスさんと仲悪いの?」
「……彼が気になりますか?」
「いや、別に?」
「彼は、血筋に関係なく、実力で白薔薇騎士団の団長に若くして抜擢された軍事天才です。シリウス皇子と共に、帝国の碧玉と謳われる英雄ですよ」
唐突な説明に、佳蓮は眼を瞬いた。
「へぇ、すごいね。レインだって、まだ一〇歳なのに、公的機関の長官なんでしょ?」
「彼と比べないでください」
「何それ。嫌味?」
ムッとする佳蓮を見て、レインジールも器用に片眉を上げてみせる。陶人形のように端正な顔が不機嫌を滲ませると、十歳と侮れない雰囲気が漂う。
情けなくも佳蓮の方から視線を逸らすと、レインジールは小さく息を吐いた。
「すみません」
「いや、私も……」
ぎこちなく謝罪すると、レインジールは元の穏やかな表情に戻り、優しい手つきで佳蓮の手の甲を撫でた。伏せた睫毛が、神秘的な陰翳を目元に落としている。
幽玄的な美しさに見惚れてしまい、佳蓮は意識して視線を逸らした。
相手は十歳、相手は十歳、相手は十歳……呪文のように心で唱えながら、戻ろう、とレインジールの手を引いた。