奇跡のように美しい人
2章:謳歌 - 6 -
新星歴一九九二年。八月一〇日。
賑々しい夏の降臨祭が幕を開けた。
降臨祭は、流星の女神信仰の祭儀で、七日に渡って皇都ヘカテルの星教区で執り行われる。その間、世界中から人が訪れる。
二年前、佳蓮が降臨したことで、皇都ヘカテルは世界最高の聖地と謳われていた。
砂漠を越え、大河を超え、星雲の波濤を越え、ありとあらゆる人間が集まってくる。
往来は雑駁な匂いと色彩に溢れ、人いきれ、行商人は声を張りあげ金銭が飛び交い、連日大盛況だ。
降臨祭三日目の今日は、星環騎士団の星駆馬隊がマロニエ並木を闊歩する。
精悍な騎士と一瞬でも視線を交わしたくて、若い娘達は競うように着飾り、花道の最前列を占領する。
その光景を、佳蓮は大通りに面した一等貴賓席から眺めていた。
騎士が通る間、儀礼のように手を振る。そこに特別な感情はなかったが、凛々しい礼装姿の騎士達は、佳蓮を仰いで誇らしげに敬礼を返した。
続いて、星導防衛団の星駆馬隊が近づいてくると、佳蓮は大きく手を振り、その名を叫んだ。
「レイーンッ!」
騎馬したレインジールは、群衆の向こうに佳蓮を認めた。
一瞬、驚いたように目を瞠り――次の瞬間、眩いほどの笑みを閃かせて、手を高く掲げる。
佳蓮も思わず腕を振り返した。
それを合図にしたかのように、観衆はワッと歓声をあげ、熱狂が、波のように広がっていく。
やがて軍事行進が途切れると、軽快な演奏が青空に響き渡った。
太鼓と金管、弦の音が重なりあい、その拍子に誘われるように、人々は自然と輪をつくって踊りだす。
公務を終え、自由観覧を許された佳蓮は、胸の奥にこみあげる高鳴りを抱えたまま、レインジールの姿を探して席を立った。
人の波に飛びこんだ途端に、
「踊っていただけませんか?」
背後から声をかけられ、振り向くと、そこに立っていたのは、シリウス皇太子だった。
佳蓮は一歩退き、裾を整えて丁寧に一礼した。
「せっかくですが、踊りは苦手なんです」
断られるとは欠片も思っていなかったのだろう。シリウス皇太子は驚いたように目を瞠ると、すぐに柔和な笑みを浮かべた。
「そうおっしゃらずに。堅苦しくない気楽なダンスです。どうか一曲お相手を」
返答に迷った、その時。人の輪の向こうに、キララの姿が見えた。盛大に眉を顰めてこちらを睨んでいる。
「ごめんなさい! 本当に苦手なんです」
佳蓮は勢いよく頭をさげると、返事も待たず、逃げるようにして群衆へ紛れた。
面紗をつけていても、四方から声をかけられる。それらを愛想笑いで躱しながら、人気の少ない方を目指した。
小径を抜けると、小さな広場にでた。早足で通り過ぎようとしたが、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
俯いていて顔は見えないが、ジランだ。小柄な少年を、背の高い星導生達が取り囲んでいる。
嫌な予感がする。
足を止めて様子を見ていると、脇に抱えていた星導書を奪われ、ジランが弾かれたように顔をあげた。星導師にとって、星導書は何より大事なものだ。
――どうしよう。
同い年くらいの子供達は周囲にいるが、誰も止めようとしない。佳蓮が割って入れば、注目を集めてしまう。
ジランに絡んでいるのは、以前にも見た顔だった。リュウという名の少年だ。
必死に星導書を取り返そうとするジランの腕を、リュウは軽く捻って地面に転がした。起きあがろうとする躰を、足で踏みつける――
「何をしているの?」
我慢できずに、佳蓮は面紗を取って前に進みでた。
「女神様!」
リュウは慌ててジランから距離を取ると、姿勢を正した。
「遊んでいただけです」
しれっと答える地味顔を、佳蓮は冷ややかに見下ろした。
「星導書を奪って?」
苛立ちをこめて指摘すると、リュウは仕方なさそうにジランへ星導書を突き返した。
「……ほら。ちょっとふざけただけだ、そうだろ?」
悪びれもなく言うリュウ。
無邪気な悪意は伝播し、遠巻きにしている見物人のあいだから、忍び笑いが漏れ聞こえた。
一瞬、ジランの瞳に怒りが灯る。だがすぐに顔を伏せ、無言で星導書を受け取った。
一件落着とばかりに、リュウは余裕を装った笑みを浮かべると、
「女神様、これから演しものが始まります。良ければ、ご一緒しませんか?」
仲間を従えて平然としている少年に、燃えるような怒りを覚えた。気がつけば、差しだされた掌を、衝動のまま叩き落としていた。
パチンッと乾いた音が鳴り、リュウは何が起きたのか判らない、そんな顔で呆然と佳蓮を見つめた。
「痛かった? 〝ちょっとふざけただけだ、そうだろ?〟」
口真似をすると、リュウだけでなく、ジランまで呆気にとれらた顔をした。
「今、君がジランにしたことだよ」
ようやく事態を理解し、リュウは余裕のある笑みを消した。怯えた表情を浮かべつつ、姿勢を伸ばした。
「……すみませんでした」
「うん。私もごめんね。でも、どうして叩いたか判る?」
「はい……彼の星導書を、取りあげたから……」
「そうだね。誰だって、適当にあしらわれたら、哀しいんだよ」
「……はい。申し訳ありませんでした」
今度こそ悄然と俯く少年を、たっぷり一〇秒は睥睨した後、傍観していた周囲へ視線を向けた。
「笑っていた子も考えてみて。逆の立場だったらどう? 自分が笑われたら、どう思った? それでも笑っていられた?」
森、と沈黙が流れた。視線が合うことを恐れるように、誰もが下を向く。
「他人の痛みが判らない人は、いつか自分が苦しむことになるよ」
呪縛の言葉が唇からこぼれた途端に、腐敗寸前の林檎のような、甘く饐えた香りが幽かに漂った。
袖を引かれ、視線を落とすと、ジランが泣きそうな顔で佳蓮を見ていた。首をふるふると左右に振って、気持ちを伝えてくる。
その仕草に、佳蓮の胸は締めつけられた。冷たくこみあげてくる後悔に立ち尽くしていると、
「ハスミ様」
群衆を割って、リグレットが現れた。
普段は苦手に思っている男の顔を見て、これほど安堵したのは初めてのことだ。
「行きましょう」
大きな手に背を支えられ、反対側からは心配そうな顔をしたジランが寄り添う。二人に守られるようにして、佳蓮はその場を離れた。
遊歩道の奥、喧噪から切り離された静かな一角に、椅子が置かれていた。
リグレットは佳蓮をそこへ座らせると、ジランが懸命に慰める様子を視界に収めながら、星導書を開いた。レインジールへ連絡しているのだ。
「……ごめんね、ジラン。注目を浴びて、嫌だったよね」
悄然としながら、佳蓮は言った。
「嫌じゃありません。僕の味方をしてくれて、すごく、すごく嬉しかったです」
心の籠った言葉に、張り詰めていた糸が切れた。視界が滲み、目頭が熱くなる。
「あんな悪目立ちするつもりはなかったの……学園でやり辛くなっちゃった?」
「謝らないでください! ハスミ様は、少しも悪くありません。僕の方こそ、ご迷惑を……」
必死に慰めようとする愛らしい少年の顔が、涙でぼやけた。
「ごめん……もっと、違うやり方があったと思う。あれは、不味かったよね……」
視線を伏せ、涙を零す佳蓮を、ジランばかりかリグレットも困ったように見つめていた。
「泣かないでください、ハスミ様」
ジランは、泣きそうな表情で続けた。
「僕、自分が情けないです。もっと強くなります、絶対に」
「貴方がそんな風に傷つく必要なんて、ないのですよ」
冷徹な〝白環宰相〟までも優しい慰めを口にする。
二人の言葉は、余計に涙腺を決壊させた。
泣くのは卑怯だと思う。辛い思いをしたのはジランなのに、慰めさせたりして、最悪だ。一番最悪なのは、欺瞞に塗れた佳蓮自身だ。
あれは、ジランのための行動ではなかった。嘲る視線が許せなくて、憎たらしくて、ジランを守る体で、記憶のなかの佳蓮を庇ったのだ。
「……ごめんなさい」
嵐のように感情を揺さぶられて、涙を止められない。過ぎ去った記憶、後悔が溢れて、うまく息を吸えない。呼吸が浅くなる。
「佳蓮!」
その声を聴いた瞬間、すーっと肺に爽やかな空気が流れこんできた。
レインジールはよほど急いでいたのか、白銀の髪が乱れ、息も少し乱れていた。
彼は、泣いている佳蓮を見て言葉を失ったが、すぐに問い質すような視線をリグレットとジランへ向けた。
「何があったのですか?」
佳蓮は両手に顔を沈めたまま、首を振る。
リグレットが顛末を伝えると、レインジールは幾らか険を和らげた。佳蓮の前に跪き、静かに問いかける。
「……塔に帰りますか?」
無言で頷くと、立ちあがり、彼の用意してくれた青紫色の星衣に袖を通した。
頭巾を深く落とし、面紗を添えると、影がそのまま、泣き腫らした顔を隠してくれた。小さな子供みたいに、足元を見つめていると、
「また、お会いできますか?」
不安そうな声を聞いて、恐る恐る顔をあげた。
「うん……」
良かった、と安堵の笑みを浮かべるジランを見て、佳蓮も淡い笑みを浮かべた。自分より年下の子に気を遣わせてしまったことが、ひどく恥ずかしかった。
星衣のおかげで、人目を気にせず塔へ戻ることができた。
五〇階の星導局執務室に入ると、レインジールは籐椅子に佳蓮を座らせ、何も言わずに紅茶の給仕を始めた。
「……ありがとう」
芳醇な香りが漂うと、荒れていた心は少しずつ凪いでいった。
「我が喜びです」
優しい微笑に誘われ、佳蓮も、ようやく少し笑うことができた。
「レインは、いつも私の気持ちを明るくしてくれるね。本当に……魔法遣いみたい」
レインジールは傍に屈みこむと、卓に置いた佳蓮の手の上へ、そっと手を重ねた。
「佳蓮が笑ってくださるのなら、何でもします」
優しい、星の囁きのようだった。
「どうか、私のいない所で泣かないでください」
「うん……」
言った傍から、視界が潤んだ。雫が零れる前に、レインジールは唇を寄せて優しく吸いとった。
慰めにしては親密すぎるやりとりに、頬が熱くなる。あどけないと思っていた少年の顔が、随分と大人びて見えた。
「レインは、私が……」
女神でなくとも、傍にいてくれる?
そう訊こうとして、やめた。
「もし私が、なんですか?」
「……ううん、なんでもない」
「では、もう訊きません」
柔らかく微笑し、カップを差しだす。
「暖かいうちに」
「うん」
花茶の香りと、優しい味。弱った心が潤うと同時に、視界もまた潤んだ。ぽろっと涙が零れた。
「佳蓮?」
「……レインだけは、私を否定しないで」
「しません」
「私を、嫌いにならないで」
「なりませんよ、決して。どうしたのですか?」
佳蓮は両手で顔を覆った。レインジールは隣に座ると、遠慮がちに肩を抱き寄せた。
「泣かないでください、佳蓮。私の女神……」
華奢な肩に頭を預けて、佳蓮は声を殺して涙を流した。
――女神なんかじゃない。
自己嫌悪と欺瞞に塗れた佳蓮が、女神であるはずがない。心が虚弱で、辛いことから逃げてばかり。それが判っているのに、レインジールの庇護に甘えている……
誰よりも、自分のことが嫌いだった。
賑々しい夏の降臨祭が幕を開けた。
降臨祭は、流星の女神信仰の祭儀で、七日に渡って皇都ヘカテルの星教区で執り行われる。その間、世界中から人が訪れる。
二年前、佳蓮が降臨したことで、皇都ヘカテルは世界最高の聖地と謳われていた。
砂漠を越え、大河を超え、星雲の波濤を越え、ありとあらゆる人間が集まってくる。
往来は雑駁な匂いと色彩に溢れ、人いきれ、行商人は声を張りあげ金銭が飛び交い、連日大盛況だ。
降臨祭三日目の今日は、星環騎士団の星駆馬隊がマロニエ並木を闊歩する。
精悍な騎士と一瞬でも視線を交わしたくて、若い娘達は競うように着飾り、花道の最前列を占領する。
その光景を、佳蓮は大通りに面した一等貴賓席から眺めていた。
騎士が通る間、儀礼のように手を振る。そこに特別な感情はなかったが、凛々しい礼装姿の騎士達は、佳蓮を仰いで誇らしげに敬礼を返した。
続いて、星導防衛団の星駆馬隊が近づいてくると、佳蓮は大きく手を振り、その名を叫んだ。
「レイーンッ!」
騎馬したレインジールは、群衆の向こうに佳蓮を認めた。
一瞬、驚いたように目を瞠り――次の瞬間、眩いほどの笑みを閃かせて、手を高く掲げる。
佳蓮も思わず腕を振り返した。
それを合図にしたかのように、観衆はワッと歓声をあげ、熱狂が、波のように広がっていく。
やがて軍事行進が途切れると、軽快な演奏が青空に響き渡った。
太鼓と金管、弦の音が重なりあい、その拍子に誘われるように、人々は自然と輪をつくって踊りだす。
公務を終え、自由観覧を許された佳蓮は、胸の奥にこみあげる高鳴りを抱えたまま、レインジールの姿を探して席を立った。
人の波に飛びこんだ途端に、
「踊っていただけませんか?」
背後から声をかけられ、振り向くと、そこに立っていたのは、シリウス皇太子だった。
佳蓮は一歩退き、裾を整えて丁寧に一礼した。
「せっかくですが、踊りは苦手なんです」
断られるとは欠片も思っていなかったのだろう。シリウス皇太子は驚いたように目を瞠ると、すぐに柔和な笑みを浮かべた。
「そうおっしゃらずに。堅苦しくない気楽なダンスです。どうか一曲お相手を」
返答に迷った、その時。人の輪の向こうに、キララの姿が見えた。盛大に眉を顰めてこちらを睨んでいる。
「ごめんなさい! 本当に苦手なんです」
佳蓮は勢いよく頭をさげると、返事も待たず、逃げるようにして群衆へ紛れた。
面紗をつけていても、四方から声をかけられる。それらを愛想笑いで躱しながら、人気の少ない方を目指した。
小径を抜けると、小さな広場にでた。早足で通り過ぎようとしたが、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
俯いていて顔は見えないが、ジランだ。小柄な少年を、背の高い星導生達が取り囲んでいる。
嫌な予感がする。
足を止めて様子を見ていると、脇に抱えていた星導書を奪われ、ジランが弾かれたように顔をあげた。星導師にとって、星導書は何より大事なものだ。
――どうしよう。
同い年くらいの子供達は周囲にいるが、誰も止めようとしない。佳蓮が割って入れば、注目を集めてしまう。
ジランに絡んでいるのは、以前にも見た顔だった。リュウという名の少年だ。
必死に星導書を取り返そうとするジランの腕を、リュウは軽く捻って地面に転がした。起きあがろうとする躰を、足で踏みつける――
「何をしているの?」
我慢できずに、佳蓮は面紗を取って前に進みでた。
「女神様!」
リュウは慌ててジランから距離を取ると、姿勢を正した。
「遊んでいただけです」
しれっと答える地味顔を、佳蓮は冷ややかに見下ろした。
「星導書を奪って?」
苛立ちをこめて指摘すると、リュウは仕方なさそうにジランへ星導書を突き返した。
「……ほら。ちょっとふざけただけだ、そうだろ?」
悪びれもなく言うリュウ。
無邪気な悪意は伝播し、遠巻きにしている見物人のあいだから、忍び笑いが漏れ聞こえた。
一瞬、ジランの瞳に怒りが灯る。だがすぐに顔を伏せ、無言で星導書を受け取った。
一件落着とばかりに、リュウは余裕を装った笑みを浮かべると、
「女神様、これから演しものが始まります。良ければ、ご一緒しませんか?」
仲間を従えて平然としている少年に、燃えるような怒りを覚えた。気がつけば、差しだされた掌を、衝動のまま叩き落としていた。
パチンッと乾いた音が鳴り、リュウは何が起きたのか判らない、そんな顔で呆然と佳蓮を見つめた。
「痛かった? 〝ちょっとふざけただけだ、そうだろ?〟」
口真似をすると、リュウだけでなく、ジランまで呆気にとれらた顔をした。
「今、君がジランにしたことだよ」
ようやく事態を理解し、リュウは余裕のある笑みを消した。怯えた表情を浮かべつつ、姿勢を伸ばした。
「……すみませんでした」
「うん。私もごめんね。でも、どうして叩いたか判る?」
「はい……彼の星導書を、取りあげたから……」
「そうだね。誰だって、適当にあしらわれたら、哀しいんだよ」
「……はい。申し訳ありませんでした」
今度こそ悄然と俯く少年を、たっぷり一〇秒は睥睨した後、傍観していた周囲へ視線を向けた。
「笑っていた子も考えてみて。逆の立場だったらどう? 自分が笑われたら、どう思った? それでも笑っていられた?」
森、と沈黙が流れた。視線が合うことを恐れるように、誰もが下を向く。
「他人の痛みが判らない人は、いつか自分が苦しむことになるよ」
呪縛の言葉が唇からこぼれた途端に、腐敗寸前の林檎のような、甘く饐えた香りが幽かに漂った。
袖を引かれ、視線を落とすと、ジランが泣きそうな顔で佳蓮を見ていた。首をふるふると左右に振って、気持ちを伝えてくる。
その仕草に、佳蓮の胸は締めつけられた。冷たくこみあげてくる後悔に立ち尽くしていると、
「ハスミ様」
群衆を割って、リグレットが現れた。
普段は苦手に思っている男の顔を見て、これほど安堵したのは初めてのことだ。
「行きましょう」
大きな手に背を支えられ、反対側からは心配そうな顔をしたジランが寄り添う。二人に守られるようにして、佳蓮はその場を離れた。
遊歩道の奥、喧噪から切り離された静かな一角に、椅子が置かれていた。
リグレットは佳蓮をそこへ座らせると、ジランが懸命に慰める様子を視界に収めながら、星導書を開いた。レインジールへ連絡しているのだ。
「……ごめんね、ジラン。注目を浴びて、嫌だったよね」
悄然としながら、佳蓮は言った。
「嫌じゃありません。僕の味方をしてくれて、すごく、すごく嬉しかったです」
心の籠った言葉に、張り詰めていた糸が切れた。視界が滲み、目頭が熱くなる。
「あんな悪目立ちするつもりはなかったの……学園でやり辛くなっちゃった?」
「謝らないでください! ハスミ様は、少しも悪くありません。僕の方こそ、ご迷惑を……」
必死に慰めようとする愛らしい少年の顔が、涙でぼやけた。
「ごめん……もっと、違うやり方があったと思う。あれは、不味かったよね……」
視線を伏せ、涙を零す佳蓮を、ジランばかりかリグレットも困ったように見つめていた。
「泣かないでください、ハスミ様」
ジランは、泣きそうな表情で続けた。
「僕、自分が情けないです。もっと強くなります、絶対に」
「貴方がそんな風に傷つく必要なんて、ないのですよ」
冷徹な〝白環宰相〟までも優しい慰めを口にする。
二人の言葉は、余計に涙腺を決壊させた。
泣くのは卑怯だと思う。辛い思いをしたのはジランなのに、慰めさせたりして、最悪だ。一番最悪なのは、欺瞞に塗れた佳蓮自身だ。
あれは、ジランのための行動ではなかった。嘲る視線が許せなくて、憎たらしくて、ジランを守る体で、記憶のなかの佳蓮を庇ったのだ。
「……ごめんなさい」
嵐のように感情を揺さぶられて、涙を止められない。過ぎ去った記憶、後悔が溢れて、うまく息を吸えない。呼吸が浅くなる。
「佳蓮!」
その声を聴いた瞬間、すーっと肺に爽やかな空気が流れこんできた。
レインジールはよほど急いでいたのか、白銀の髪が乱れ、息も少し乱れていた。
彼は、泣いている佳蓮を見て言葉を失ったが、すぐに問い質すような視線をリグレットとジランへ向けた。
「何があったのですか?」
佳蓮は両手に顔を沈めたまま、首を振る。
リグレットが顛末を伝えると、レインジールは幾らか険を和らげた。佳蓮の前に跪き、静かに問いかける。
「……塔に帰りますか?」
無言で頷くと、立ちあがり、彼の用意してくれた青紫色の星衣に袖を通した。
頭巾を深く落とし、面紗を添えると、影がそのまま、泣き腫らした顔を隠してくれた。小さな子供みたいに、足元を見つめていると、
「また、お会いできますか?」
不安そうな声を聞いて、恐る恐る顔をあげた。
「うん……」
良かった、と安堵の笑みを浮かべるジランを見て、佳蓮も淡い笑みを浮かべた。自分より年下の子に気を遣わせてしまったことが、ひどく恥ずかしかった。
星衣のおかげで、人目を気にせず塔へ戻ることができた。
五〇階の星導局執務室に入ると、レインジールは籐椅子に佳蓮を座らせ、何も言わずに紅茶の給仕を始めた。
「……ありがとう」
芳醇な香りが漂うと、荒れていた心は少しずつ凪いでいった。
「我が喜びです」
優しい微笑に誘われ、佳蓮も、ようやく少し笑うことができた。
「レインは、いつも私の気持ちを明るくしてくれるね。本当に……魔法遣いみたい」
レインジールは傍に屈みこむと、卓に置いた佳蓮の手の上へ、そっと手を重ねた。
「佳蓮が笑ってくださるのなら、何でもします」
優しい、星の囁きのようだった。
「どうか、私のいない所で泣かないでください」
「うん……」
言った傍から、視界が潤んだ。雫が零れる前に、レインジールは唇を寄せて優しく吸いとった。
慰めにしては親密すぎるやりとりに、頬が熱くなる。あどけないと思っていた少年の顔が、随分と大人びて見えた。
「レインは、私が……」
女神でなくとも、傍にいてくれる?
そう訊こうとして、やめた。
「もし私が、なんですか?」
「……ううん、なんでもない」
「では、もう訊きません」
柔らかく微笑し、カップを差しだす。
「暖かいうちに」
「うん」
花茶の香りと、優しい味。弱った心が潤うと同時に、視界もまた潤んだ。ぽろっと涙が零れた。
「佳蓮?」
「……レインだけは、私を否定しないで」
「しません」
「私を、嫌いにならないで」
「なりませんよ、決して。どうしたのですか?」
佳蓮は両手で顔を覆った。レインジールは隣に座ると、遠慮がちに肩を抱き寄せた。
「泣かないでください、佳蓮。私の女神……」
華奢な肩に頭を預けて、佳蓮は声を殺して涙を流した。
――女神なんかじゃない。
自己嫌悪と欺瞞に塗れた佳蓮が、女神であるはずがない。心が虚弱で、辛いことから逃げてばかり。それが判っているのに、レインジールの庇護に甘えている……
誰よりも、自分のことが嫌いだった。