奇跡のように美しい人
3章:決意 - 9 -
新星歴二〇〇〇年。一〇月一二日。
群青の夜に、幸をもたらす流星が走った。
女神の御徴だ。
工房で星導を記録していたレインジールは、天文鏡から視線を外し、静かに息を吐いた。
佳蓮が塔を去ってから、もう三年になる。
いつもと変わらないはずの星空が、あの夜からどうにも色褪せて見える。星屑を鏤めた闇の帳は、今や虚ろな闇のようだった。
窓硝子に映りこむ己の顔は、味気ない夜空よりも更に酷かった。
色の薄い真っ直ぐな髪、石膏細工のように白い輪郭、細く通った鼻筋……没個性の面差し。こんな顔を見せ続けられれば、どんな女も眉を顰めるだろう。
――だが、佳蓮は違った。
彗星の赫きを纏う女神は、そんな素振りを一度も見せなかった。奇蹟のように美しい、優しい女だった。
この髪に躊躇いなく触れ、日向に咲いたような笑みをくれた。
美しさを称えるたび、困ったような顔をされたけれど、どんな星よりも煌めいて、月光のような人だった。
降るような満点の星空を仰いで、想う。彼女も同じ空を見ているのだろうか……
「総監」
鼓膜を叩く無機質な声に、我に返った。振り返れば、星図が描かれた透写紙を手に、リグレットが影のように立っていた。
「浮かない顔ですね」
「大きなお世話です。そんなもの、明日で良いでしょう」
文句を垂れると、リグレットは小さく笑った。
「傍を通ったもので。星導の成果は?」
「いつも通りです」
息を吐くと、リグレットは面白がるような顔をした。
「若き天才も、そうしているとただの恋する男ですね」
「悪いですか」
「いえ。素晴らしいことだと思いますよ」
「心にもないことを。不平があるという顔をしていますよ」
リグレットは肩をすくめた。
「総監をここまで骨抜きにするとは恐ろしい。あの方は、神秘であり魔性ですね」
不敬を咎めて彼を睨んだが、否定はしなかった。
彼女の為に身を投げだす者の名を挙げれば、夜が明けてしまう。そこら中に熱烈な信奉者がいて、シリウス皇太子ですら心を奪われているのだ。佳蓮がその気になれば、この国を影から操れるだろう。
「流星の女神ですから……」
左手に刻まれた流星痕を撫でながら、レインジールは呟いた。かつて片翼だったそれは、今では完全な双翼を成している。
「星杯は、まだ満ちないのですか?」
成長しきった流星痕を見て、リグレットが訊ねた。
「私は……間にあわないでしょう」
「ハスミ様に知らせないのですか」
「苦しめるだけです」
彼女の幸せだけを願って、どうにか、ぎりぎりのところで手放せたのだ。
「総監は、それでいいのですか?」
「彼女が笑ってくれるなら、それでいいんです」
「ご自身がどうなっても?」
「愚問です。私は星杯契約者ですよ」
この手で幸せにできず、残りの生を一人で過ごすことになろうとも。胸が張り裂けそうなほど苦しくても、それでも――佳蓮の方が、遥かに大切だった。
「盲目ですね。恋愛と悲劇は紙一重、と昔から言いますが」
「恋をすれば、貴方にも判ります」
「おや、私には判らないと?」
冷静な眼差しの奥に、秘めた想いが覗いた。
「リグレット……」
淡々とした男の垣間見せた表情に、仄かな嫉妬を覚えてしまう。
「ふ。彼女に惹かれない男が、この世にいるでしょうか。それでも手放した。大したものです」
からかう声に崇拝の響きが混じる。顔を背けると、楽しげな笑声が追いかけてきた。
「ご心配なく。明かすつもりはありません」
「当然です。佳蓮に迫るような真似をしたら、この身が朽ちても八つ裂きにしてやりますよ」
「怖いですねぇ。実現できそうなところが……」
不機嫌に口を噤むレインジールを見て、リグレットはふっと表情を和らげた。
「これでも、心配しているんですよ」
「余計なお世話です」
「後継も決めていないのに、貴方がいなくなったらどうするのです?」
にっこりと笑うレインジールを、リグレットは心底嫌そうな目で見た。
「まさか……私を当てにしないでくださいよ。オルガノ様のように、隠居するのが長年の夢なんですからね」
「夢を持つのは自由です」
鷹揚に肯定すると、リグレットは益々嫌そうな顔をした。
ささやかな仕返しに満足しながら、彼の語る夢も悪くないなと想像した。佳蓮がいなければ、自分もいずれ師のように、辺境の地で隠遁的な生活を送っていたかもしれない。
「会いにいかなくて、いいのですか?」
「オルガノ様が傍にいてくださるなら、心配ありません」
「それで、彼女は幸せなのでしょうか」
「佳蓮はもう十分、自分を責め、傷ついています。これ以上は……」
「ハスミ様は星杯契約の末路を知らないのでしょう。後から人伝に知れば、傷つくと思いますよ」
「最後まで明かすつもりはありません。オルガノ様にも言いましたが、リグレットも、余計な真似をしないでくださいよ」
「……承知しました。ですが、総監がいなくなれば、ハスミ様は哀しむでしょう」
「……それだけが心残りです。オルガノ様には話してあります。リグレットも、佳蓮を支えてあげてください」
「はぁ……総監も報われませんね」
レインジールは微苦笑した。
一〇歳から仕える女神に、意識されることを求め、理解されることを求め、愛を求めてしまうのは、もはや宿命だ。けれど、そんな己の浅ましい渇望などより、佳蓮の安寧こそが尊いという事実は、宇宙の運行にも等しい不変の真理だった。
「一生に一度の恋をしました。それで……もう充分、報われていますよ」
リグレットは一瞬、言葉のかけらを唇に浮かべたが、結局それを形にすることはなく、静かに部屋を出ていった。
群青の夜に、幸をもたらす流星が走った。
女神の御徴だ。
工房で星導を記録していたレインジールは、天文鏡から視線を外し、静かに息を吐いた。
佳蓮が塔を去ってから、もう三年になる。
いつもと変わらないはずの星空が、あの夜からどうにも色褪せて見える。星屑を鏤めた闇の帳は、今や虚ろな闇のようだった。
窓硝子に映りこむ己の顔は、味気ない夜空よりも更に酷かった。
色の薄い真っ直ぐな髪、石膏細工のように白い輪郭、細く通った鼻筋……没個性の面差し。こんな顔を見せ続けられれば、どんな女も眉を顰めるだろう。
――だが、佳蓮は違った。
彗星の赫きを纏う女神は、そんな素振りを一度も見せなかった。奇蹟のように美しい、優しい女だった。
この髪に躊躇いなく触れ、日向に咲いたような笑みをくれた。
美しさを称えるたび、困ったような顔をされたけれど、どんな星よりも煌めいて、月光のような人だった。
降るような満点の星空を仰いで、想う。彼女も同じ空を見ているのだろうか……
「総監」
鼓膜を叩く無機質な声に、我に返った。振り返れば、星図が描かれた透写紙を手に、リグレットが影のように立っていた。
「浮かない顔ですね」
「大きなお世話です。そんなもの、明日で良いでしょう」
文句を垂れると、リグレットは小さく笑った。
「傍を通ったもので。星導の成果は?」
「いつも通りです」
息を吐くと、リグレットは面白がるような顔をした。
「若き天才も、そうしているとただの恋する男ですね」
「悪いですか」
「いえ。素晴らしいことだと思いますよ」
「心にもないことを。不平があるという顔をしていますよ」
リグレットは肩をすくめた。
「総監をここまで骨抜きにするとは恐ろしい。あの方は、神秘であり魔性ですね」
不敬を咎めて彼を睨んだが、否定はしなかった。
彼女の為に身を投げだす者の名を挙げれば、夜が明けてしまう。そこら中に熱烈な信奉者がいて、シリウス皇太子ですら心を奪われているのだ。佳蓮がその気になれば、この国を影から操れるだろう。
「流星の女神ですから……」
左手に刻まれた流星痕を撫でながら、レインジールは呟いた。かつて片翼だったそれは、今では完全な双翼を成している。
「星杯は、まだ満ちないのですか?」
成長しきった流星痕を見て、リグレットが訊ねた。
「私は……間にあわないでしょう」
「ハスミ様に知らせないのですか」
「苦しめるだけです」
彼女の幸せだけを願って、どうにか、ぎりぎりのところで手放せたのだ。
「総監は、それでいいのですか?」
「彼女が笑ってくれるなら、それでいいんです」
「ご自身がどうなっても?」
「愚問です。私は星杯契約者ですよ」
この手で幸せにできず、残りの生を一人で過ごすことになろうとも。胸が張り裂けそうなほど苦しくても、それでも――佳蓮の方が、遥かに大切だった。
「盲目ですね。恋愛と悲劇は紙一重、と昔から言いますが」
「恋をすれば、貴方にも判ります」
「おや、私には判らないと?」
冷静な眼差しの奥に、秘めた想いが覗いた。
「リグレット……」
淡々とした男の垣間見せた表情に、仄かな嫉妬を覚えてしまう。
「ふ。彼女に惹かれない男が、この世にいるでしょうか。それでも手放した。大したものです」
からかう声に崇拝の響きが混じる。顔を背けると、楽しげな笑声が追いかけてきた。
「ご心配なく。明かすつもりはありません」
「当然です。佳蓮に迫るような真似をしたら、この身が朽ちても八つ裂きにしてやりますよ」
「怖いですねぇ。実現できそうなところが……」
不機嫌に口を噤むレインジールを見て、リグレットはふっと表情を和らげた。
「これでも、心配しているんですよ」
「余計なお世話です」
「後継も決めていないのに、貴方がいなくなったらどうするのです?」
にっこりと笑うレインジールを、リグレットは心底嫌そうな目で見た。
「まさか……私を当てにしないでくださいよ。オルガノ様のように、隠居するのが長年の夢なんですからね」
「夢を持つのは自由です」
鷹揚に肯定すると、リグレットは益々嫌そうな顔をした。
ささやかな仕返しに満足しながら、彼の語る夢も悪くないなと想像した。佳蓮がいなければ、自分もいずれ師のように、辺境の地で隠遁的な生活を送っていたかもしれない。
「会いにいかなくて、いいのですか?」
「オルガノ様が傍にいてくださるなら、心配ありません」
「それで、彼女は幸せなのでしょうか」
「佳蓮はもう十分、自分を責め、傷ついています。これ以上は……」
「ハスミ様は星杯契約の末路を知らないのでしょう。後から人伝に知れば、傷つくと思いますよ」
「最後まで明かすつもりはありません。オルガノ様にも言いましたが、リグレットも、余計な真似をしないでくださいよ」
「……承知しました。ですが、総監がいなくなれば、ハスミ様は哀しむでしょう」
「……それだけが心残りです。オルガノ様には話してあります。リグレットも、佳蓮を支えてあげてください」
「はぁ……総監も報われませんね」
レインジールは微苦笑した。
一〇歳から仕える女神に、意識されることを求め、理解されることを求め、愛を求めてしまうのは、もはや宿命だ。けれど、そんな己の浅ましい渇望などより、佳蓮の安寧こそが尊いという事実は、宇宙の運行にも等しい不変の真理だった。
「一生に一度の恋をしました。それで……もう充分、報われていますよ」
リグレットは一瞬、言葉のかけらを唇に浮かべたが、結局それを形にすることはなく、静かに部屋を出ていった。