奇跡のように美しい人

後日談 - 1 -

もう一人の佳蓮

 佳蓮は、あの夜を忘れなかった。
 この世ならぬ力強い霊的な掌が肩に置かれて、多くの後悔と、無限の未来を見せてくれた。
 晴天の霹靂(へきれき)――修学旅行の班決めにあぶれて死のうとしたことが馬鹿馬鹿しく思えるくらい、人生観がひっくり返った。
 あの夜、自分は一度、死んだのだ。
 そして、呼吸(いき)を取り戻した瞬間に、生まれ変わった。
 翌日から、生活の全てを変えた。
 早朝五時に起き、窓を開けて深呼吸する。白い息を吐きだすたび、魂は再起動(リブート)する。
 そして机に向かう。
 過去に読み流してきた自己啓発本を棚から引っぱりだし、できそうなことは片っ端から日常に落としこんだ。
 早朝五時起き。朝散歩と勉強。通学中の音声学習。帰宅したら運動して、ポモドーロ九〇分タイマーをBGMに、また勉強。一分一秒を無駄にせず、自己を高めるルーティーンに費やした。
 家族は、それこそ宇宙人を見るような目で佳蓮を見た。
「佳蓮、どうしたの?」
 朝六時三〇分、自発的にリビングに下りてくる佳蓮を見て、母が鍋をかき混ぜながら訊いた。
 近所のジムに入会する、と報告した時は妹が目を丸くした。
「お姉ちゃん、どうしちゃったの?」
 驚く顔が新鮮で、そのまま自分磨きの燃料になった。
 さらに、早朝の冷水シャワーを食卓で話題にすると、父は変人を見る目になった。
「……お前、大丈夫か?」
 と、これまでとは違った意味で心配された。
 心機一転、腰まであった髪をばっさり切り落とし、ショートヘアになって帰宅すると、家族全員が目を丸くした。
「「「何があったの⁇」」」
 そうした家族の反応も自分の変化も、痛快で爽快だった。
 相変わらず友人はできなかったが、休み時間にひとり目を閉じていたり、読書や勉強していても孤独を感じなくなった。
〝なんか、頑張ってるね(笑)〟
 冷笑を向けてくるクラスメイトもいたが、成績が伸びるにつれ、冷やかしは減った。パーキンソンの法則を活用して勉強していると、興味を持って詳しい勉強法を訊いてくる子もいた。
 冬の間、ひたすら勉強とジムに集中した。
 SNSや動画といった娯楽コンテンツを絶つと、ストレス発散は運動くらいなので、勉強に疲れると散歩するか、ジムへ行った。
 いつのまにかジムが娯楽になっていた。
 ランニングマシンの(ベルト)に乗り、呼吸を数える。汗が落ちる。頭を空っぽにして躰を動かした後は、快い疲労感があり、驚くほど気分爽快だった。
 通っているうちに年が明け、顔見知りができた。
 華奢な男子が、いつも同じ時間に走っている。すれ違いざま会釈する程度だったが、三ヶ月が過ぎた日、初めて言葉を交わした。
 ストレッチスペースで、ベンチ傍に置かれたリュックに佳蓮が(つまず)き、転びそうになったときのことだ。
「大丈夫ですか?」
 差しだされた手は、男性的に骨ばっているが、指が長くて綺麗だ。
 持ち主は細身で背の高い、同い年くらいの男子だった。さらりとした髪が額に落ち、切れながの(ひとみ)は涼やかで、正面から見ると息を呑むほど整っている。
(……美人だ)
 そう思ってしまったことに、佳蓮は少しだけ(ひる)んだ。
「すみません、蹴っちゃって」
 (つまず)いた黒のスポーツリュックは、どうやら彼のものらしい。
「いえ、こちらこそ……」
 その時は、その程度の会話で終わったが、それから顔をあわせるたびに挨拶するようになり、ぽつぽつ話すようになった。
 彼の名前は、香月(こうづき)(れい)()。一つ年下の高校一年生で、不登校がちな男の子だった。
「俺、ガリで……鍛えても筋肉つかないんですよ。体育の授業が嫌で、中学は殆どサボってました。自分でもヤベーなと思って、自己啓発系の動画見たら、意識変わって。もう一回チャレンジしようと思って、今ジムに通ってます」
 と、彼はジム通いの経緯を話してくれた。
 佳蓮も外見に強い劣等感(コンプレックス)があり、自己啓発本はかなりの冊数を読んでいる。自分を立て直そうとしている彼に対して、ぐっと親近感が芽生えた。
 そのせいか、人見知りの佳蓮にしては珍しく、玲司とは自然に話せた。
 互いを知るにつれ仲良くなり、夏が来たら、引き締まった躰でプールに遊びに行こうと約束もした。
 その約束がなくても、きっと佳蓮は努力を続けただろう。
 けれど、その約束があったから、より楽しく継続できた。
 半年が過ぎても、毎朝五時に起きて冷水シャワーを浴び、勉強している。偏差値は着実に伸びている。
 心も躰も軽くなり、服のサイズが落ちるたび、脱皮するみたいな快感と達成感を味わった。
 何より変わったのは、眼差しだ。
 鏡を見るのが嫌ではなくなった。
 鏡を見ると、もう一人の自分に(うち)を覗かれているような気がして、(かつ)が入るのだ。
 嫌なことがあっても、あの夜を思いだせば、火が灯る。
 ――きっと大丈夫。負けて(たま)るか。
 不屈の精神が、静かに心のなかで燃えあがった。
 夏が来る頃、佳蓮の体重は五三キロまで落ちていた。八か月で、一五キロもの減量に成功したのだ。
 自信が(うち)から溢れるようになり、自己効力感と自己肯定感が以前に比べて増していた。何事も(さい)()煥発(かんぱつ)に取り組むようになった佳蓮を見て、家族も嬉しそうにしている。心配性の母も小言が減り、随分と明るくなった。

 約束の日。
 白いサマーワンピース姿で駅前で待っていると、玲司がやってきた。笑顔で手を振る彼は、以前より背が伸びて(たくま)しくなり、やっぱり美人で、衆目を集めていた。
「佳蓮さん」
「おはよ、玲司君」
 ジムの外で会うのは初めてで、最初はぎこちなかった。
 プールに到着して着替えてからも、互いの水着姿が最初は照れ臭かったが、流れるプールやスライダーで遊ぶうちに、ぎこちなさは泡みたいに消えた。
 あっという間に日が暮れて、帰り路。
 金曜日の黄昏(たそがれ)に、街明かりが灯る。
 佳蓮はふと、あの建設現場の方角を思いだした。
「……あそこ、前はデパートだったよね」
 同じ方角を向いて、玲司は頷いた。
「ですね。今度、マンションが建つらしいですよ」
 今は撤去作業が終わって、土台造りが始まっている。
「そうなんだ」
「……デパートのフードコートの焼チーズカレー、すげぇ好きだった。今でもたまに食べたくなるんだよね……」
 玲司の残念そうな声に、佳蓮はくすっと笑った。彼は華奢に見えて、よく食べるのだ。その細い躰のどこに入るのか不思議なくらい。
「……私さ、去年、解体中のデパートから飛び降りようとしたんだ」
 佳蓮は、ぽろりと(こぼ)した。
 玲司は息を止めたみたいな顔で、振り向いた。
「そのとき、もう一人の私が目に前に()って、(こら)えてって言ったんだ。家族が壊れちゃうから、どうか(こら)えて。この苦しみは、いつまでも続かないから。いつか必ず、生きていて良かったと思える日がくるから。生きていれば、何度でもやり直せるんだよ、って教えてくれたんだ」
 神妙な顔でこちらを見ている玲司を見て、佳蓮は晴れやかに笑った。
「今日はありがとう、すごく楽しかった。あの時、思いとどまって良かった。私……生きていて良かった!」
 玲司は一瞬、切羽詰まったような顔をした。それから、佳蓮の方へ一歩近づき、声を強くした。
「俺も、めっちゃ楽しかったです! ……また二人で遊びに行きたい」
「うんっ」
 佳蓮が笑顔で頷くと、玲司は真剣な(ひとみ)になって、言った。
「……佳蓮さん、俺の彼女になってくれませんか」
 ()われた瞬間、頭が真っ白になった。少しずつ、理解すると共に、胸の奥からじわじわと喜びがこみあげてきた。
(――嬉しい‼)
 玲司が、息を詰めて返事を待っている。早く、早く言葉を返さなくては。
「……うん! こちらこそ、私でよければ」
 玲司は、心から嬉しそうに笑った。
「佳蓮さんがいい! ……佳蓮って呼んでも、いいですか?」
 佳蓮は頷いた。目頭が燃えるように熱くなり、(まばた)きをしてやり過ごす。
「……うん。佳蓮って呼んで」
 街明かりが涙に滲み、星屑(ほしくず)のように(きら)めいた。
 おずおずと差し出された手に、佳蓮は自分の指を重ねた。
 二人が手を繋ぐのは、これが初めてだった。照れ臭さに胸を締めつけられながらも、心は、はち切れそうなほど温かい。
 嬉しくて、幸せで、心も足取りも、宇宙にまで飛んで行きそうなほど軽かった。
 ――空はもう、()ちない。
 夕映えの道を、二人並んで、歩いていく。