メル・アン・エディール - 飛空艦と少女 -
2章:キスと魔法と逃走 - 1 -
飛鳥は空母から飛び降りて、ルーシーに助けられた後、再び第四甲板の隔離室に戻された。
ルーシーに聞いた話では、ロクサンヌにかけた魔法も自然と消えたらしい。一昨日の夜、彼等に魔法をかけて、昨夜、自然に消えたということは、魔法の持続時間はおよそ一日だ。
“アスカ、気分はどうですか?”
あんなことがあったばかりなのに、ルーシーはその日の昼過ぎに、飛鳥の食事を持って現れた。
しかも、飛鳥が心を読めると知っていて尚、怯まずに、むしろ堂々と心の中で話しかけてくる。「大丈夫です」と応える代わりに頷くと、ルーシーは軽く微笑んで、机の上に銀のトレーを乗せた。
ゴマやひまわりの種を散らした黒パンは、たった今、釜で焼き上げたかのように、ほくほくとしていて、いかにも香ばしい。手で割ったら、サクッと軽快な音が鳴った。
小さく千切って口に運びながら、今朝は姿を見せないロクサンヌを想う。彼女はもう、ここへ来ないのかもしれない。
無理もない……。平然としているルーシーの方がおかしいのだ。飛鳥のことが怖くないのだろうか。
飛鳥が黙々と食事を続ける間、ルーシーは腕を組んで壁に寄りかかっていた。出て行く気配はない。飛鳥が食べ終える頃を見計らって、ルーシーは尋問を開始した。
“アスカに聞きたいことがあります。年齢は?”
飛鳥は少し迷ってから、両手を開いた後、両手で六の数字を作った。あわせて十六、というように。十進法のことまで気が回らなかったが、幸いルーシーには通じた。
“十六?”
首を縦に振った後、二回聞き返された。少し、いや大分切ない……。
アメリカ旅行中にも思ったことだが、スタイルのいい欧米人種に交じると、飛鳥の体型はずんぐりしていて、年齢以上に幼く見える。
ストリート・カフェでコーヒーを注文した際、十代と思われる大人びたウェイトレスに「シロップもホイップクリームもいらないの?」と念押しされたことは記憶に新しい。「いいです」と首を振っても「本当に?」と何度か念押しされたのだ。
彼女の目に、飛鳥はさぞ幼く映っていたのだろう……。
ここでも同じだ。
ルーシーに限らず、リオンやロクサンヌ、彼等の飛鳥に対する言動は、あのウェイトレスとのやりとりを思い出させる。
“出身はバビロンですか?”
否。飛鳥は首を左右に振った。
“バビロン空域外?”
是。少し迷ったが、これには頷いた。飛鳥の口で説明できない以上、真実を理解してもらうことは不可能に等しい。
この世界が無限に続く空の世界だと言うのなら、飛鳥は、広大な空のどこかに浮かぶ国の生まれで、目が覚めたら聖域にいた。誘拐された上に、迷子――という設定で誤魔化すつもりだ。
“家族はいますか?”
その質問は胸に突き刺さった。家族はいたけれど、もう……。今もまだ、悪夢を見ているような気がする。
顔を伏せて首を左右に振ると、ルーシーの明瞭だった思考は朧 に揺れた。多少なりとも、飛鳥に対して同情心が芽生えたのかもしれない。
“言葉を話せれば、アスカの口から、古代神器の力について説明できますか?”
ついにこの質問がきた――。
いつかは聞かれると思っていたので、予 め設定を考えてある。心を読めること、相手の心を奪う魔法については、知られてしまったから隠しようがないけれど……、世界を渡る力については、黙っているつもりだ。
飛鳥は自信なさそうに見えることを祈りながら、首を左右に振った。
“古代神器の力を発動するには、口内で音にする必要がありますね?”
質問、というよりは念押しするように聞かれた。“メル・アン・エディール”と“メル・サタナ”の呪文のことを言ってるのだろう。
飛鳥が頷くと、ルーシーも「よろしい」と言うように頷いた。
“アスカの今後については、今、上層に確認しているところです。いずれにせよ、言葉を話せないと不便ですね……。こちらの考えを伝えることは出来ても、アスカの考えていることは判らないのですから……”
飛鳥は同意を示すように深く頷いた。全くその通り。不便で仕方がない。第一、飛鳥は相手の心を読めるのに、相手は読めないだなんて、一方的なコミュニケーションという以前に、フェアではないだろう。
そう考えると、ルーシーがこうして心の中で語りかけてくれるのは、奇跡と言えるかもしれない。
この右も左も判らない世界で、彼の一貫した態度には救われる。時々怖いこともあるけれど、ルーシーは飛鳥に対して誠実だ。心の内を暴かれると知っていても、嫌悪どころか、コミュニケーションが捗 ると、喜んでいるようにすら思う。
とはいえ――。
ルーシーの親切を鵜呑みにしてはいけない。飛鳥に親切に接してくれるのは、それが彼の仕事だからだ。そう考えると、なぜか微かに胸が痛む。
問答を続けるうちに、気付いたことがある。飛鳥の思考を読む能力は、相手の心を何でもかんでも読めるわけではなく、相手の心の中の、最もはっきりした思考に引っ張られるらしい。ルーシーが思考を読まれていると自覚した後では、その傾向が特に顕著になった。
それから、読まれることを嫌がっている思考は、靄がかっていて読み辛い。やろうと思えば読めそうだが、無理に暴こうとは思わない。むしろ、プライバシーを自ら守ってくれて助かるくらいだ。ほんの少しだけ罪悪感が和らぐから。
“アスカには、言葉を覚えてもらう必要があります。環境は、こちらで用意します”
飛鳥はルーシーの青い瞳をじっと見つめた後、『はい』と返事すると共に頷いた。
“……この部屋は窮屈ですか?”
『はい』
聞くまでもない。瞳に力を入れて見上げると、ルーシーは考える素振りを見せたが、無理だな、というように軽く首を振った。
“また飛び降りられたら困りますからね……”
飛鳥はしゅんとした。
“明日の夜には、ヴィラ・サン・ノエル城に到着予定です。もう少しの辛抱ですよ”
『はい……』
ルーシーは、しょげている飛鳥を見て、慰めるように頭を撫でた。慈しむ、優しい手。それは無意識の行為であったが、俯く飛鳥も、ルーシー自身にも違和感は無かった。
ルーシーに聞いた話では、ロクサンヌにかけた魔法も自然と消えたらしい。一昨日の夜、彼等に魔法をかけて、昨夜、自然に消えたということは、魔法の持続時間はおよそ一日だ。
“アスカ、気分はどうですか?”
あんなことがあったばかりなのに、ルーシーはその日の昼過ぎに、飛鳥の食事を持って現れた。
しかも、飛鳥が心を読めると知っていて尚、怯まずに、むしろ堂々と心の中で話しかけてくる。「大丈夫です」と応える代わりに頷くと、ルーシーは軽く微笑んで、机の上に銀のトレーを乗せた。
ゴマやひまわりの種を散らした黒パンは、たった今、釜で焼き上げたかのように、ほくほくとしていて、いかにも香ばしい。手で割ったら、サクッと軽快な音が鳴った。
小さく千切って口に運びながら、今朝は姿を見せないロクサンヌを想う。彼女はもう、ここへ来ないのかもしれない。
無理もない……。平然としているルーシーの方がおかしいのだ。飛鳥のことが怖くないのだろうか。
飛鳥が黙々と食事を続ける間、ルーシーは腕を組んで壁に寄りかかっていた。出て行く気配はない。飛鳥が食べ終える頃を見計らって、ルーシーは尋問を開始した。
“アスカに聞きたいことがあります。年齢は?”
飛鳥は少し迷ってから、両手を開いた後、両手で六の数字を作った。あわせて十六、というように。十進法のことまで気が回らなかったが、幸いルーシーには通じた。
“十六?”
首を縦に振った後、二回聞き返された。少し、いや大分切ない……。
アメリカ旅行中にも思ったことだが、スタイルのいい欧米人種に交じると、飛鳥の体型はずんぐりしていて、年齢以上に幼く見える。
ストリート・カフェでコーヒーを注文した際、十代と思われる大人びたウェイトレスに「シロップもホイップクリームもいらないの?」と念押しされたことは記憶に新しい。「いいです」と首を振っても「本当に?」と何度か念押しされたのだ。
彼女の目に、飛鳥はさぞ幼く映っていたのだろう……。
ここでも同じだ。
ルーシーに限らず、リオンやロクサンヌ、彼等の飛鳥に対する言動は、あのウェイトレスとのやりとりを思い出させる。
“出身はバビロンですか?”
否。飛鳥は首を左右に振った。
“バビロン空域外?”
是。少し迷ったが、これには頷いた。飛鳥の口で説明できない以上、真実を理解してもらうことは不可能に等しい。
この世界が無限に続く空の世界だと言うのなら、飛鳥は、広大な空のどこかに浮かぶ国の生まれで、目が覚めたら聖域にいた。誘拐された上に、迷子――という設定で誤魔化すつもりだ。
“家族はいますか?”
その質問は胸に突き刺さった。家族はいたけれど、もう……。今もまだ、悪夢を見ているような気がする。
顔を伏せて首を左右に振ると、ルーシーの明瞭だった思考は
“言葉を話せれば、アスカの口から、古代神器の力について説明できますか?”
ついにこの質問がきた――。
いつかは聞かれると思っていたので、
飛鳥は自信なさそうに見えることを祈りながら、首を左右に振った。
“古代神器の力を発動するには、口内で音にする必要がありますね?”
質問、というよりは念押しするように聞かれた。“メル・アン・エディール”と“メル・サタナ”の呪文のことを言ってるのだろう。
飛鳥が頷くと、ルーシーも「よろしい」と言うように頷いた。
“アスカの今後については、今、上層に確認しているところです。いずれにせよ、言葉を話せないと不便ですね……。こちらの考えを伝えることは出来ても、アスカの考えていることは判らないのですから……”
飛鳥は同意を示すように深く頷いた。全くその通り。不便で仕方がない。第一、飛鳥は相手の心を読めるのに、相手は読めないだなんて、一方的なコミュニケーションという以前に、フェアではないだろう。
そう考えると、ルーシーがこうして心の中で語りかけてくれるのは、奇跡と言えるかもしれない。
この右も左も判らない世界で、彼の一貫した態度には救われる。時々怖いこともあるけれど、ルーシーは飛鳥に対して誠実だ。心の内を暴かれると知っていても、嫌悪どころか、コミュニケーションが
とはいえ――。
ルーシーの親切を鵜呑みにしてはいけない。飛鳥に親切に接してくれるのは、それが彼の仕事だからだ。そう考えると、なぜか微かに胸が痛む。
問答を続けるうちに、気付いたことがある。飛鳥の思考を読む能力は、相手の心を何でもかんでも読めるわけではなく、相手の心の中の、最もはっきりした思考に引っ張られるらしい。ルーシーが思考を読まれていると自覚した後では、その傾向が特に顕著になった。
それから、読まれることを嫌がっている思考は、靄がかっていて読み辛い。やろうと思えば読めそうだが、無理に暴こうとは思わない。むしろ、プライバシーを自ら守ってくれて助かるくらいだ。ほんの少しだけ罪悪感が和らぐから。
“アスカには、言葉を覚えてもらう必要があります。環境は、こちらで用意します”
飛鳥はルーシーの青い瞳をじっと見つめた後、『はい』と返事すると共に頷いた。
“……この部屋は窮屈ですか?”
『はい』
聞くまでもない。瞳に力を入れて見上げると、ルーシーは考える素振りを見せたが、無理だな、というように軽く首を振った。
“また飛び降りられたら困りますからね……”
飛鳥はしゅんとした。
“明日の夜には、ヴィラ・サン・ノエル城に到着予定です。もう少しの辛抱ですよ”
『はい……』
ルーシーは、しょげている飛鳥を見て、慰めるように頭を撫でた。慈しむ、優しい手。それは無意識の行為であったが、俯く飛鳥も、ルーシー自身にも違和感は無かった。