人食い森のネネとルル
私の怖いもの - 1 -
ネネは直ぐ怒る。手も足も出るし、私の綺麗な顔にすら、躊躇いもなく手を上げようとする。言葉遣いは汚いし、身なりも適当だし……、私の知っている娘達とは大分勝手が違う。
でも可愛い。すごく可愛い――。
本当に嬉しい時は、琥珀の目をきらきら輝かせて、すごく眩しい笑顔を見せてくれる。
一緒にカタルカナユ・サンタ・ガブリールの街に降りた時は、初めての買い物に緊張して、いちいち私を振り返る様子が小動物みたいだった。
実用的なものばかり買うネネが、私の為にゴブレットや食器を買ってくれたのは嬉しかった。ネネの精気より美味しいものなんてないけれど、ネネが作ってくれる料理はその次に好きだ。同じ食卓について、他愛ない話をとりとめもなく交わす……、あの穏やかな時間もいい。
「ルル」っていう名前も、ネネとお揃いみたいで気に入っている。ネネに名前を呼ばれるのが好き。名前を呼ばれるだけで、大抵のお願いなら聞いてあげようかな、という気になってしまう。
――ネネが、好き。好きだよ……。
+
一筋の光も射さない、暗くて深い水の中……、何を想い、考えていたのか、数百年の時間の流れと共に失われてしまった。自我も溶けかけて、朧 になりゆく寸前――ただ光だけを目指して、水面へ飛び出した。
真っ先に、ネネの琥珀の眼差しに気付いた。
昏い深緑の中で、彼女の琥珀色の瞳はとても鮮明で、思わず声をかけてしまった。躊躇いなく心臓に矢を射る度胸が気に入って、自由の身になった後も、彼女の傍に在ることを選んだ。精気も甘くて美味しいから、飽きるまでは傍にいよう、そう考えた。
私の瞳の色を、勿忘草 に喩 えてくれた。意地悪なことも言われたけれど……、ネネは名前をくれた。
「じゃあ、アンタのこと、ルルって呼ぶよ」
「ルル?」
「ネネとルル、いいんじゃない?」
そう言って、ネネは楽しそうに笑った。聞こえないように、心の中で「ルル」と呟いてみたら、ふわりと春風に吹かれた気がした。
その時点で、もうかなりネネのことを気に入ってしまった。それからも、知れば知るほど、惹かれていった。
ネネの狩をする姿は、雄々しく、残酷で美しい。
見ているだけで、研ぎすまれた集中力が伝わって来る。張り詰めた空気の中、琥珀の瞳で一心に獲物を見据えて、無駄のない動きで矢を射る。矢は風を裂いて、必ず命中する。素晴らしい狩の腕だ。
山菜採りにも、強烈な熱中を見せる。時々、声をかけても気付いてもらえないことすらある。泥だらけになって土を掘る姿は、年頃の娘としていかがなものかと思うけれど、ネネはいつもすごく楽しそうにしているから、まぁいいのかな……と思う。それに、素揚げにした山菜はなかなか美味しかった。
強くて、凶暴で、しっかり者のネネが、初めて泣いた日――。
怒りなど、遠い昔に失くしたと思っていたけれど、久々に沸々とした怒りを思い出した。過去にも奴隷は見てきたし、人間社会は、ただの暇潰しくらにしか考えていなかったけれど……、ネネに奴隷の焼き印を押した人間は、心の底から殺してやりたいと思った。
――私が綺麗に治してあげる。だから、そんなに泣かないでよ……。
痕が消えた後も、ネネは街へ降りることを怖がっていた。
でも絶対に連れていってあげたかった。森が全てじゃない、世界を広げてあげたいって思った。誰かの為に、見返りを求めず、何かをしてあげたいだなんて……、そんなこと、たぶん生まれて初めて思った。
一緒に出掛けたら、琥珀の瞳をキラキラ輝かせて、眩しい笑顔を見せてくれた。その時、自然と思った。
――ネネが、好き。好きだよ……。
失った自分の名前も、記憶も……、ネネの傍にいれば、全然気にならなかった。今が楽しすぎて、過去なんてどうでも良かった。
ネネが望むなら、人食い森でずっと過ごしてもいい、そう思っていた――。
――ネネは、私のこと、どう思っているんだろう……。
例え精気をもらえなくても……、ただネネに触れているだけで、幸せだと感じられた。だから、食事の時にネネに面倒そうな顔をされると悲しくなる。
――私はきっと、とてもとても強い魔性なのに……。
ネネの言動一つで一喜一憂させられている。ネネはルルに対して、あんなに適当なのに……、割に合わない。腹立たしくて唇を奪ったら、ものすごく怒らせてしまった。
「気に入らないなら、出て行きなよ。どうぞ?」
――ネネは私が出て行っても、平気なの……?
ほんの出来心で、睡蓮沼へ行った。直ぐに戻るつもりだった。なのに――。
魔除けの松明を片手に、沼を取り巻く人間を見ていたら……、あっけなく、思い出してしまった。
――そうだ、こんな夜だった……。あの松明、魔除けの松明で、森は昼のように明るく照らされて……。
数百年前――贅の限りを尽くした、絢爛豪華な舞踏会。美しい女達。浴びるほど酒を飲んで、精気を奪い尽くした。王国の権威を、足元に這いつくばらせて、無様な姿を嘲笑っていた。
遂には王都の聖職者達に追われ、睡蓮沼へ――。
私は、憎悪を込めて大司教を睨んでいた。私の身体から限界まで血を抜き取り、四肢を聖銀に繋ぎ、檻に閉じ込めた――忌々しい聖職者達。
昏い沼に沈むまで、怨嗟 の言葉を吐き続けた。必ず、戻ってみせる。再び見 える時は、今度はお前達を絶望の淵に沈めてやる……。
燃えるような怒りは、知識として蘇っただけ。名前と記憶を取り戻しても、心を圧倒的に占めるのは、ネネのことだった。それなのに――。
「お前なんかルルじゃない、出て行け!」
「――ルルだよ、傍にいるって、言え!」
「嫌だっ!」
そうまで拒むと言うのなら、魂を抜いて従えてやる――衝動的に、ネネの魂を抜いた。過去、何度も使ってきた慈悲なき支配力だ。物言わぬ人形にして、傍に侍 らせればいい。
「ネネ……」
満足感なんて、欠片もなかった。
死んだように、光を失った琥珀の瞳。淡く微笑む、人形のようなネネ。触れれば暖かいのに、抱きしめても寂寥が込み上がるだけ。心は直ぐに冷えた。
――嫌だ……、こんなの、ネネじゃない……!
ネネの身体を横たえて、やり直そうと思った。
今夜の記憶を、全て塗り替える。私の名前も、過去も、ネネから切り離す。これからも”ルル”として傍にいる。
魂は何度も抜いてきたけれど、その逆はやったことがなかった。反魂がうまくいくかどうか分からなかったけれど、とにかくネネを元に戻す為に必死だった。
――ネネ。私に”怖いものってある?”って聞いたよね。あったよ、ネネがいなくなること。お願いだから、戻ってきて……!
反魂に時間がかかり、高熱を引き起こしてしまったものの、どうにかうまくいった。
額に浮かぶ汗を拭いてやりながら、ふと、ネネの言葉を思いだした。
”いや、アンタを見た時、瞳の色がだと思ったんだ。”私を忘れないで”……なんて花言葉があるのに、自分が忘れてりゃ世話ないね”
何だか、らしくもない自嘲の笑みが漏れた。
――ごめんね、ネネ……。私の名前なんて、忘れていいから、ルルって呼んでほしい……。
この秘密は、誰にも明かさない。邪魔する者は、全て消してやる――。
でも可愛い。すごく可愛い――。
本当に嬉しい時は、琥珀の目をきらきら輝かせて、すごく眩しい笑顔を見せてくれる。
一緒にカタルカナユ・サンタ・ガブリールの街に降りた時は、初めての買い物に緊張して、いちいち私を振り返る様子が小動物みたいだった。
実用的なものばかり買うネネが、私の為にゴブレットや食器を買ってくれたのは嬉しかった。ネネの精気より美味しいものなんてないけれど、ネネが作ってくれる料理はその次に好きだ。同じ食卓について、他愛ない話をとりとめもなく交わす……、あの穏やかな時間もいい。
「ルル」っていう名前も、ネネとお揃いみたいで気に入っている。ネネに名前を呼ばれるのが好き。名前を呼ばれるだけで、大抵のお願いなら聞いてあげようかな、という気になってしまう。
――ネネが、好き。好きだよ……。
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一筋の光も射さない、暗くて深い水の中……、何を想い、考えていたのか、数百年の時間の流れと共に失われてしまった。自我も溶けかけて、
真っ先に、ネネの琥珀の眼差しに気付いた。
昏い深緑の中で、彼女の琥珀色の瞳はとても鮮明で、思わず声をかけてしまった。躊躇いなく心臓に矢を射る度胸が気に入って、自由の身になった後も、彼女の傍に在ることを選んだ。精気も甘くて美味しいから、飽きるまでは傍にいよう、そう考えた。
私の瞳の色を、
「じゃあ、アンタのこと、ルルって呼ぶよ」
「ルル?」
「ネネとルル、いいんじゃない?」
そう言って、ネネは楽しそうに笑った。聞こえないように、心の中で「ルル」と呟いてみたら、ふわりと春風に吹かれた気がした。
その時点で、もうかなりネネのことを気に入ってしまった。それからも、知れば知るほど、惹かれていった。
ネネの狩をする姿は、雄々しく、残酷で美しい。
見ているだけで、研ぎすまれた集中力が伝わって来る。張り詰めた空気の中、琥珀の瞳で一心に獲物を見据えて、無駄のない動きで矢を射る。矢は風を裂いて、必ず命中する。素晴らしい狩の腕だ。
山菜採りにも、強烈な熱中を見せる。時々、声をかけても気付いてもらえないことすらある。泥だらけになって土を掘る姿は、年頃の娘としていかがなものかと思うけれど、ネネはいつもすごく楽しそうにしているから、まぁいいのかな……と思う。それに、素揚げにした山菜はなかなか美味しかった。
強くて、凶暴で、しっかり者のネネが、初めて泣いた日――。
怒りなど、遠い昔に失くしたと思っていたけれど、久々に沸々とした怒りを思い出した。過去にも奴隷は見てきたし、人間社会は、ただの暇潰しくらにしか考えていなかったけれど……、ネネに奴隷の焼き印を押した人間は、心の底から殺してやりたいと思った。
――私が綺麗に治してあげる。だから、そんなに泣かないでよ……。
痕が消えた後も、ネネは街へ降りることを怖がっていた。
でも絶対に連れていってあげたかった。森が全てじゃない、世界を広げてあげたいって思った。誰かの為に、見返りを求めず、何かをしてあげたいだなんて……、そんなこと、たぶん生まれて初めて思った。
一緒に出掛けたら、琥珀の瞳をキラキラ輝かせて、眩しい笑顔を見せてくれた。その時、自然と思った。
――ネネが、好き。好きだよ……。
失った自分の名前も、記憶も……、ネネの傍にいれば、全然気にならなかった。今が楽しすぎて、過去なんてどうでも良かった。
ネネが望むなら、人食い森でずっと過ごしてもいい、そう思っていた――。
――ネネは、私のこと、どう思っているんだろう……。
例え精気をもらえなくても……、ただネネに触れているだけで、幸せだと感じられた。だから、食事の時にネネに面倒そうな顔をされると悲しくなる。
――私はきっと、とてもとても強い魔性なのに……。
ネネの言動一つで一喜一憂させられている。ネネはルルに対して、あんなに適当なのに……、割に合わない。腹立たしくて唇を奪ったら、ものすごく怒らせてしまった。
「気に入らないなら、出て行きなよ。どうぞ?」
――ネネは私が出て行っても、平気なの……?
ほんの出来心で、睡蓮沼へ行った。直ぐに戻るつもりだった。なのに――。
魔除けの松明を片手に、沼を取り巻く人間を見ていたら……、あっけなく、思い出してしまった。
――そうだ、こんな夜だった……。あの松明、魔除けの松明で、森は昼のように明るく照らされて……。
数百年前――贅の限りを尽くした、絢爛豪華な舞踏会。美しい女達。浴びるほど酒を飲んで、精気を奪い尽くした。王国の権威を、足元に這いつくばらせて、無様な姿を嘲笑っていた。
遂には王都の聖職者達に追われ、睡蓮沼へ――。
私は、憎悪を込めて大司教を睨んでいた。私の身体から限界まで血を抜き取り、四肢を聖銀に繋ぎ、檻に閉じ込めた――忌々しい聖職者達。
昏い沼に沈むまで、
燃えるような怒りは、知識として蘇っただけ。名前と記憶を取り戻しても、心を圧倒的に占めるのは、ネネのことだった。それなのに――。
「お前なんかルルじゃない、出て行け!」
「――ルルだよ、傍にいるって、言え!」
「嫌だっ!」
そうまで拒むと言うのなら、魂を抜いて従えてやる――衝動的に、ネネの魂を抜いた。過去、何度も使ってきた慈悲なき支配力だ。物言わぬ人形にして、傍に
「ネネ……」
満足感なんて、欠片もなかった。
死んだように、光を失った琥珀の瞳。淡く微笑む、人形のようなネネ。触れれば暖かいのに、抱きしめても寂寥が込み上がるだけ。心は直ぐに冷えた。
――嫌だ……、こんなの、ネネじゃない……!
ネネの身体を横たえて、やり直そうと思った。
今夜の記憶を、全て塗り替える。私の名前も、過去も、ネネから切り離す。これからも”ルル”として傍にいる。
魂は何度も抜いてきたけれど、その逆はやったことがなかった。反魂がうまくいくかどうか分からなかったけれど、とにかくネネを元に戻す為に必死だった。
――ネネ。私に”怖いものってある?”って聞いたよね。あったよ、ネネがいなくなること。お願いだから、戻ってきて……!
反魂に時間がかかり、高熱を引き起こしてしまったものの、どうにかうまくいった。
額に浮かぶ汗を拭いてやりながら、ふと、ネネの言葉を思いだした。
”いや、アンタを見た時、瞳の色がだと思ったんだ。”私を忘れないで”……なんて花言葉があるのに、自分が忘れてりゃ世話ないね”
何だか、らしくもない自嘲の笑みが漏れた。
――ごめんね、ネネ……。私の名前なんて、忘れていいから、ルルって呼んでほしい……。
この秘密は、誰にも明かさない。邪魔する者は、全て消してやる――。