PERFECT GOLDEN BLOOD

1章:十七歳の誕生日 - 4 -

 井の頭線下北沢駅。十八時二十分。
 小夜子は急いで待ち合わせ場所の南西口に向かっていた。
 LINEを見ると、急がなくていいよ。ゆっくりおいで、とルイから優しいメッセージが届いていて、思わず泣きそうになる。
 予定では、二十分前には着いているはずだったのに、思わぬハプニングのせいで、既に二十分の遅刻だ。初デートに遅刻するなんてありえない。
 本当についていない――今さっき起こったことを思い返し、小夜子は心のなかで、何度目か判らぬため息を吐いた。
 三十分ほど前。家をでようとしたら、アパートの入り口に女性が蹲っていて、家からでられなくなってしまったのだ。十分が経過し、勇気を振り絞って横をすり抜けようとしたが、視界の端に腕が伸ばされるのを見、避けようとしたら転んでしまった。
 膝をすりむいてスカートに血がついているのを見た途端に、恐怖よりも怒りが勝った。よりによって、こんな大切な日に邪魔をすることないじゃない――怨念をこめて睨みつけたら、向こうが大人しく引きさがった。
 ともかく家に戻り、お洋服を考え直し……ぱっと決められず、もたもた、なんとか着替えて家をでたら、既に十八時だった。
 半泣きでルイに到着予定時間を伝え、自分の要領の悪さに辟易し、電車に乗っている最中は死人のような気分だった。
 そして今。改札に向かいながら、これからルイに会うのだという、新たな緊張感に襲われていた。
 リップクリームを塗って、お気に入りのストライプのワンピースを着ているが、これで良いのか自信がない。
 彼は何を着ていても、周囲を虜にする容姿をしているが、小夜子は至って平凡な女子高生だ。柔らかい色の髪は自分でも気に入っているが、丸顔だし、目は細くて小さいし、まつ毛は短いし、胸もささやかだし、上半身は痩せて見えるのに、ふくらはぎは太く見えるし……コンプレックスだらけだ。それに、性格も社交的とはいい難い。
 正直、会ったところで何を話せばいいのか判らない。ルイと小夜子に、共通の話題などあるのだろうか?
 面白い話ができるわけでもないし、デートをしたところで、気づまりな時間を過ごして、それじゃあまた……と別れて二度と会わない展開になりそうだ。
 それに、小夜子には秘密がある。仲良くなれたとしても、そのうち不審な目で見られるようになるだろう。
(……って、何を考えているの、私。ルイさんが、私なんかを相手にするわけないじゃん)
 先走った思考だと気がついて、小夜子は自嘲気味に内省した。
 それにしても、人生とは何が起こるか判らない。昨夜、彼の財布を偶然拾ったところからの、急展開である。LINEに会話のやりとりは残っているが、いまいち現実味がない。細かい記憶がさっぱりないのだ。
 ともかく、待ち合わせ場所に着いた。最近新設された南西口は、広くてゆとりがあるが、やはり土曜日とあって混雑している。学生や、仕事帰りの人々があちこちで輪になり、お店へ繰りだそうと笑顔でいる。
 ふと、ざわめきが大きくなり、なんだろうと小夜子はそちらに顔を向け、小さく息をのんだ。
 一人の男性が、悠々と歩いてやってくる。周囲が動揺してざわついた理由が判った。高貴で神々しい美貌に、目を奪われているのだ。目が釘付けになるあまり、遮蔽物に衝突しそうになっている通行人もいる。
 ここにいる誰よりも長身で、信じられないほど足が長い。一体、何等身あるのだろう? 均整のとれた肢体に、DIOR HOMMEのスーツがこれ以上ないというほど決まっている。日暮れとはいえ、蒸し暑い真夏に長袖だが、彼に至っては涼しげに見えるから不思議だ。
(あれ……?)
 黒で統一されたシルエットを見て、何かが記憶をかすめたが、正体を突き止めるには至らなかった。彼は混みあった改札口をさっと眺めて、小夜子にぴたりと視線を留めた。
「小夜子」
 眩い笑顔で名前を呼ばれて、小夜子は危うく息が止まりかけた。ルイはわき目もふらず、小夜子だけを見つめて歩いてくる。
(う、嘘でしょぉ……)
 思わず、おろおろと辺りを見回してしまう。彼と待ち合わせをしているのが小夜子だなんて、そんなドッキリのような展開があるわけがないのだ。
「こんばんは、小夜子」
 だが、彼は小夜子の前で足を止めて、小夜子の名前を呼んだ。その柔らかな心地いい声の響きに、小夜子は胸の奥がぎゅっと締めつけられたように感じた。
 唖然茫然、陶然……長身を仰ぐ小夜子を見下ろして、ルイはほほえんだ。
「待った?」
「い、いえ! こちらこそ、遅れてごめんなさいっ」
「Non. 平気だよ。小夜子こそ、そんなに息を切らして転ばなかった?」
 小夜子は赤面した。
「実は、家をでたところで転んでしまって、着替えてきました」
 ルイは心配そうな顔になり、
「大丈夫? 怪我はない?」
「膝をちょっと。でも、かすり傷です」
 小夜子は軽くスカートを摘まんでみせた。膝下丈のワンピースなので、膝に貼ったバンドエイドは隠れて見えない。
「かわいそうに……」
 ルイは見えぬ傷をじっと見つめているようだったが、小夜子がもじもじしているのを見て、視線をあげた。
「痛くない? 歩けそう?」
「大丈夫です!」
「そう? じゃあ、ゆっくりいこうか」
 ルイは自然な動作で小夜子の肩を抱き寄せ、歩き始めた。小夜子はまたしても心臓が騒ぎ始めるのを感じた。周囲の突き刺さるような視線が痛い。痛すぎる。
「お腹は空いてる?」
「は、はい」
 本当は、緊張のあまり空腹など消え失せていた。身体中の細胞が、ルイを意識している。彼の手が触れている肩が、燃えるように熱く感じられた。
「美味しい野菜料理が豊富で、落ち着いた店だから、小夜子も気に入ると思う」
 小夜子は遠慮がちにほほえんだ。ルイの選ぶお店なら、本当にお洒落そうだ。というか、女の子と二人でいる状況に慣れている。テンパッている小夜子と違い、所作の一つ一つが優雅で、余裕を感じさせる。
(そ、そりゃぁ、そうよね。ルイさんだもの……っ)
 今夜のために、会話のシミュレーションをしてきたのに、ちっともうまくいかない。どもってばかりで恥ずかしい。早くも落ちこみそうだったが、ルイは楽しそうな様子で、適度に言葉をかけてくれるので、気づまりな沈黙に悩むことはなかった。
「ここだよ」
 ルイが案内してくれたのは、民家風のお洒落なイタリアンだった。清貧生活の小夜子には、なかなか敷居の高い店だが、ルイは躊躇いなく、小夜子のために扉を開いた。笑みかけられ、小夜子は朱くなる。
「あ、ありがとうございます……」
 レストランはこじんまりとしていたが、居心地が良さそうな家具で調えられていた。予約してある席に案内をするウェイトレスの顔を見て、小夜子は目を瞠った。泉明菜。同じ高校に通っている同級生で、属性の高いグループにいる美少女だ。ルイに視線が釘づけになっていて、小夜子にはまだ気がついていない。
 小夜子は声をかけるのを躊躇い、足元に視線を落とした。呼吸さえも抑えて歩いていたが、周囲の誰も小夜子を見ていなかった。あまりにも美しい、ルイに視線が釘づけになっている。
 このまま死ぬまで顔をあげたくない気分だったが、そうもいかない。
「いらっしゃいませ」
 泉はにこやかにいった。明るく染めた髪をポニーテールに結いあげ、エプロンをつけた制服姿がよく似合っている。彼女と比べて、小夜子は自分の地味さを痛いほど感じた。そんなことを思った自分の愚かさに呆れながら、勇気をだして顔をあげた。
「こ、こんばんは、泉さん」
 泉は、メニューを広げる手をとめて、戸惑った表情を浮かべた。
 小夜子は赤くなった。最悪だ。向こうは小夜子を知らないのだ。
「あの、同じ学年の小倉です」
「……あっ、小倉さんか! ごめんね、すぐに名前がでてこなくて」
「ううん」
 羞恥のきわみで、小夜子は俯くようにして表情を隠した。気まずそうにしている小夜子に、泉は明るい声で話しかけた。
「小倉さんの彼氏? すっごく素敵な人だね」
「ち、違うよ」
 小夜子は慌てて否定した。すると泉は、期待と興奮に瞳を輝かせ、にっこりルイに笑みかけた。
「初めまして、小倉さんの同級生の泉明菜です。ご来店、ありがとうございます」
 ルイは感じの良い笑みで頷いた。泉は舞いあがったように頬に手をあてると、メニューを広げて、今夜のおすすめを丁寧に説明し始めた。
「すぐにご注文なさいますか? それとも、あとでまたきましょうか?」
 そうだね、とルイは小夜子の様子を見てから、笑顔のまま泉を見た。
「あとできてくれる?」
「もちろんです。ごゆっくりどうぞ」
 頬を染めて泉はいうと、鼻歌でも聞こえてきそうな足取りでテーブルを去っていった。
「友達?」
 ルイに訊かれて、小夜子は曖昧な笑みを浮かべた。今のやりとりを見てそう思えるのなら、友達なのだろう。
「知り合いといったところか」
 ルイの気づかわしげな表情を見て、小夜子のいたたまれなさは増した。もう帰ってしまいたい。
「今日はきてくれてありがとう」
 思いがけない優しい言葉に、小夜子は目を瞬いた。
「いえ、そんな。私の方こそ」
 礼をいうのは小夜子の方だ。彼と不釣り合いであることは、いわれるまでもない。彼の前に座って、食事をすることが未だに信じられない。
 勇気をだして視線をあわせると、彼はじっと小夜子を見つめていた。不思議な銀色の瞳に、心を奪われそうになる。
(うわぁ……綺麗……紫にも見えるんだ)
 やはり、これほど綺麗な人が、何がどうして小夜子と食事をしようとしているのか理解できない。
「あの……やっぱり、食事するの、やめておきますか?」
 ルイは小さく目を瞠った。
「どうして?」
「その、今夜の約束の流れも、よく判らなくて……私、たまたまルイさんのお財布を拾っただけだし……?」
 困惑気味に訊ねる小夜子を見て、ルイはにっこりとほほえんだ。
「ありがとう、すごく助かったよ。どうしてもお礼がしたかったんだ……というのは口実で、もっと小夜子と話してみたかったんだ」
 小夜子はびっくりしてルイを見た。
「で、でも私なんかと、」
「お願い、席を立たないで。きっと、気の合う話ができると思うんだ。ぜひ一緒に食事をしてほしいな」
 テーブルの上に置いた手の上に、そっと掌を重ねられて、小夜子は真っ赤になった。しかも彼は、その手を壊れものを扱うかのように優しくもちあげて、甲に唇を押し当てた。
「……いいかな?」
 その瞬間、小夜子は呼吸の仕方を忘れた。心臓がどくんと跳ねては止まり、また跳ねて止まるのを繰り返す。信じられない――世にも美しい男性が、小夜子の手にキスをするなんて。
 触れた肌の感触に、何か閃くものがあった。どういうわけか、ルイに抱きしめられている感触が突然に蘇った。
(何考えてるの、私ったら! そんなはずないでしょう!)
 小夜子は妄想を振り払い、ルイに小さく頷いてから、目の前に広げたメニューに意識を向けた。すると彼も手元のメニューを眺め始めた。
 見計らったように泉が戻ってきて、ルイをじっと見つめた。
「ご注文はいかがなさいますか?」
 彼女の唇は、さっきよりも艶々していた。グロスを塗ってきたのだろう。ばっちりメイクしている泉を見て、小夜子は訳も判らずに胃がよじれるような痛みを覚えた。同じ十七歳の女子校生のはずなのに、悲しくなるほどレベルが違う。
「そうだな……ポテトと、ステーキをレアで、それから自家製の赤ワイン」
 ルイがオーダーする間、泉が何度となく、彼の瞳を覗きこもうとするのが判った。美しい、稀有けうな銀色の瞳を。
「小夜子は?」
 ルイに笑みかけられ、小夜子は言葉に詰まった。ごく控えめに咳払いをして、声を整えてからメニューに目を注ぐ。
「私は、ノンアルコールのクランベリー・カクテル……しらすのペペロンチーノと、オニオンスープ」
 小夜子が注文する間、泉は事務的な顔つきで注文用のiPhoneを淡々と操作していた。
 オーダーを終えて、小夜子は内心でため息をついた。これでいよいよ、食事を終えるまでは席を立てなくなってしまった。