異海の霊火

2章:グロテスク - 1 -

 十四日目の朝、愛海が緊張しながら厨房へいくと、調理長のほかにふたりの男がいた。
 そのうちのひとりは背中を向けており、一瞬見間違いかと思ったが、禿頭とくとうの半分が陥没している。脳が正常に機能しているのかはなはだ疑問だが、作業している様子を見る限り手際はとても良い。
 もうひとりは、いかにも海賊といった風貌で、頭に手巾を巻いて、左目に黒い眼帯、両脚とも膝下は金属の義足である。
「お早うございます」
 いささか緊張に強張った声で愛海が挨拶をすると、三人とも振り向いた。
 調理長は、生真面目だが猜疑心の強そうな顔をしており、表情がないせいか、眸の色は薄氷のように冷酷に見えた。
「判っていると思うが、ホープだ。ここの調理長をしている」
 表情と同じく、抑揚のない淡々とした口調だった。
「よろしくお願いします。愛海です」
 お辞儀する愛海を、ホープは冷淡に睥睨している。
「船長に可愛がられているようだが、ここでは俺のいうことに従え。怠惰と口答えは厳禁だ」
「アイサー」
 にこりともしない無表情を仰ぎ見ながら、愛海は早くも絶望に駆られた。働きたいといった言葉を撤回させてほしい。今すぐ船長室に戻りたい。
「そっちの隅で牡蠣の殻を剥け。やり方は陥没頭・・・に教えてもらえ」
 調理長は顎をしゃくってみせた。愛海が振り向くと、陥没頭と呼ばれた男と目が遭った。悲鳴をあげなかったのは奇跡だ。
 怪物クリーチャーがいる。
 禿頭とくとうの左半分が凹んでおり、左目も瞼に隠れて殆ど見えない。白っぽく変色しており、視力があるのか不明だ。
「よろしくお願いします」
 びくびくしながら一揖いちゆうすると、陥没頭はにっと愛嬌のある笑顔で頷いた。そこで愛海ははじめて、彼の右目が海のように明るい碧色をしていることに気がついた。
 愛海は、彼に対して、とても失礼な先入観を抱いた己を恥じた。外見を忌避される辛さはよく知っているはずなのに、なぜ思い遣りを示せなかったのだろう。
「あの、僕は愛海といいます。貴方のお名前は……?」
 おずおずと愛海が笑みかけると、調理長が氷の眼差しで振り向いた。
「おい、くだらない無駄話はするな。そいつは陥没頭・・・だ。黙って仕事しろ」
「はぃ……アイアイサー!」
 調理長の目が鋭くなるのを見、愛海は慌てていい直した。
 これが上司だなんて信じられない。なんて性根の歪んだ男だろうと思いつつ、愛海は陥没頭にならって粗末な三脚椅子に腰をおろし、早速牡蠣の殻と格闘を始めた。
 彼は無口というか、一言も喋らなかったが、身振り手振りで愛海に手本を示してくれた。彼は愛海よりも遥かに器用だった。彼が籠をいっぱいにする間に、愛海は半分も剥けなかった。
 成果を見にきた調理長は、愛海の籠を見て鼻を鳴らした。
「それっぽっちか」
 酷く罵倒されたわけではないが、淡々とした口調には明らかな侮蔑がこめられていた。愛海としては精一杯やったつもりだが、酷く落ちこまされた。
 昼になると、当直を終えた船員たちでごった返した。
 昼餉は魚の汁と、湯で牡蠣、鯨油にひたしたビスケットを炒めたものだ。
 愛海は配膳を手伝うことになり、列をなす船員の椀に、順番に煮汁を入れていった。
「おい、もうちょいよそえ」
「アイ……痛っ」
 愛海は少し盛ろうとしたが、後頭部を叩かれた。
「勝手な真似をするな」
 愛海は背後を振り向いて、調理長を見た。
「アイ……すみません」
 正面を向いて、文句をいってきた船員にも侘びた。だが、船員は再び文句を口にした。
「いいからよそえよ」
「え、でも……」
「マナミ、適量だぞ」
 調理長が睨んだ。
「よそえっていってンだろうが」
 今度は船員が文句をいう。
 板挟みにされて、愛海はおろおろとふたりを見比べた。涙目で哀訴するが、船員の瞳のなかにも、調理長と同じような嗜虐的な光が浮かぶのを見た。
「おい、早くしろよ!」
「いつまで待たせるんだよ!」
 配膳で交通渋滞が起きてしまい、列を作っている男たちから不平の声があがり始めた。
 見かねたように義足の男が仲裁に入ろうとやってきたが、調理長がおしとどめた。
「これくらい一人で対処させろ」
 愛海はよっぽど助けてほしかったが、孤立無援で矢面に立つしかなかった。
「何してるんだよ、さっさと進めよ。休憩時間が減るだろうが」
「すみません、すみません」
 頭をさげることしかできない。だが男は文句をいうばかりでどいてくれないし、調理長は睨みをきかせている。愛海はとうとう泣きだしながら、
「ぅ……判りました、よそいます。これは僕の分です。これでどうか赦してください……っ」
 男は愛海を見て鼻で嗤ったが、ようやく隣にずれた。次の男は配分にけちをつけたりはしなかったが、苛立った顔でこういった。
「もっと要領よくやれよ」
 ぐさっと言葉が心に突き刺さり、愛海は負け犬みたいに目を伏せた。
「すみません……」
 小さな声で謝罪をすると、感情を殺して作業に集中した。だが、配膳する手は始終震えていた。
 どうにか列を消化し終えた時、調理長が近づいてきた。顔には陰険に見下す残忍な表情が浮かんでおり、萎縮する愛海に向かって、拳をふりあげた。愛海の目は恐怖に見開かれた。
 彼は口角を歪ませたあと、ゆっくりと振りあげた拳をおろした。
「次は均等に分配しろ。勝手な真似をしたら、容赦しないからな」
「は、アイ……すみません」
 調理長はたっぷり十秒ほど愛海を睥睨したあと、休憩するといって厨房をでていった。
 うなだれる愛海の傍に、義足の男がやってきた。
「災難だったな。次からは無視すりゃあいいよ、あたふたすっから、連中も調子づくんだ。無視すりゃ、諦めて進むしかないんだからよ」
「……アイ」
「俺はウルブス。あいつはの名前はジャンだ」
 目があうと、陥没頭――ジャンがにこっと笑った。愛海もつられて笑み返した。ふたりとも額に死刑囚の烙印があるが、調理長と違って親切だ。
 それにしても、手掴みで食べている船員たちの原始的な食事の光景を見ていると、自分は本当にとんでもない場所にきてしまったのだという、途方もない念に駆られてしまう。
「……あの、匙やフォークはないのですか?」
 愛海はウルブスに恐る恐る訊ねてみた。
「あるけど、凶器になるから渡さねぇんだ」
「?」
 きょとんとする愛海を見て、ウルブスは続けた。
「ここは監視の目のない無法地帯だろ? 連中はしょっちゅう諍いを起こすし、食堂は特にだ。フォークなんて渡してみろ、食事のたびに死人がでる」
 愛海は冗談だと思って苦笑いを浮かべたが、ウルブスは笑わなかった。生真面目な顔でこう続けた。
「いっておくが、本当の話だぞ。航海を始めて十日と経たずに、ここで人が死んだんだ。凶器は匙だぜ。船長はあの通り船の問題に頓着しないし、しょうがないから、匙やフォークを提供するのをやめたんだよ」
「……平和が一番ですよね」
「ま、それでも喧嘩は起きるがな。お前も巻きこまれないように気をつけろ」
 本当にとんでもない職場である。休憩を終えた船員たちは席を立ち、そのままでていく者もいれば、空になった皿を厨房の配膳台に持ってくる者もいた。
「新入り、皿洗え」
 厨房に戻ってきた調理長は、早速愛海に命令した。
「アイ!」
 愛海が皿を洗い始めると、調理長はこれみよがしに器に煮汁をすくい、愛海に見せつけるようにして喰い始めた。
「よく覚えておけよ。お前が阿呆で馬鹿だから、このざまだ。飯にありつけねぇんだよ」
 愛海は一瞬、あっけにとられてしまった。生まれてこのかた、これほど意地の悪い人間を見たことがない。どうして愛海にここまで辛くあたるのだろう?
 茫然とした態度が気に喰わなかったのか、頭を平手で叩かれた。彼にとっては軽く小突いた程度かもしれないが、愛海は頭の芯がびーんと痺れて、前のめりに倒れそうになってしまった。
「“アイアイサー”」
 調理長が返事を促す。
「ぁ、アイアイサー」
 愛海は震える声でいった。
 その後、皿洗を終えてそそくさと厨房をでていこうとすると、またしても調理長に呼び止められた。
「おい」
 マナミがびくびくしながら振り向くと、用心深い眼差しを向けられた。
「船長に余計なことを吹きこんでみろ、殺すからな」
 どんな感情もこめられていない声だった。
 心底恐ろしくなり、愛海は逃げるようにして食堂を飛びだした。
 心身がへとへとで、今すぐジンシンスに会いたかった。
 彼がいるであろう船橋ブリッジにいこうと思ったが、次の瞬間、“殺す”という脅し文句が脳裏に蘇った。
 淡々とした口調が、かえって恐ろしかった。あれは脅しなんかじゃない。本気だ。あの男は、人を殺すことなんて、何とも思っちゃいないのだ。愛海が生きようが死のうがどうでもいいのだ。
 あのような男のいる厨房で、明日も働かねばならないのだと思うと、果てしなく憂鬱になる。
 廊下の途中で立ち止まり、ぐぅと情けない音をたてる腹をさすった。
(……お腹すいた)
 夜までもつだろうか?
 わからないが、食堂に戻る勇気はない。今はともかく水を飲んで腹を膨らませるしかない。
 水飲み場にいこうとすると、袖を引っ張られた。ぎょっとして振り向いた先にジャンがいた。
「えっと……?」
 ジャンはおもむろにポケットに手をつっこみ、何かをとりだして、愛海に差しだした。
「……え?」
 愛海はさしだされたパンとジャンの顔を交互に見比べた。彼は、早く受け取れとばかりに、腕を突きだしてくる。
「あ、ありがとう」
 愛海が受け取ると、青い瞳が和んだ。彼はすぐに背を向けていってしまったが、愛海はしばらく其の場を動けなかった。
 嬉しかったのだ。
 容赦なく痛めつけられたあとで、彼の示してくれた純朴な思い遣りは、殊のほか身に沁みた。