異海の霊火

2章:グロテスク - 3 -

 脚が完治すると、厨房以外の仕事もやるようになった。
 仕事と呼べるのか判らないが、船員たちの雑用係である。あれこれと用事をいいつけられては、厨房に入ったり、甲板や船倉を走り回る。
 朝の甲板掃除も手伝うようになり、暴風でない限り、たとえ雨でも甲板磨きから一日が始まる。これが想像以上に過酷な作業で、脚を怪我していた間は免除されていたが、船員総出の作業だから、愛海も治った以上は手伝わなくてはいけない。
 朝の甲板は、吐息も凍る氷点下の世界だ。
 摂氏零下ニ百度といわれても驚かない、身を刺さすような寒さである。風がない日はまだ良いが、風がふくと体温を根こそぎ奪われていく気がする。
 乗組員たちは皆、凍傷防止の亜鉛華軟膏あえんかなんこうを顔と手首に塗り、頑丈な手袋をはめて、頭部は白い毛皮のフードで包み、顔の殆どを覆面で覆っている。
 甲板には毎朝薄い氷が張っているので、粒々辛苦りゅうりゅうしんく、手袋で叩いて割っていく作業から始まる。濡れない手袋をしていても、指先はかじかむし、最初のうちは、躰が痛みこわばり、長靴の摩擦で足から血が流れたりもした。日を追うごとに流血の回数は減っていったが、へとへとになることに変わりはない。
 愛海は前部下檣トガンマストの周囲が担当で、他の船員に比べたらその範囲も狭いのだが、終わる頃には疲労困憊して、舷檣げんしょうにぐったりもたれてしまう。骨の折れることおびただしいが、こんなに苦労して甲板を磨いても、夜がくるとまた氷が張ってしまうのだ。
 甲板磨きのあと、いつもはすぐ動く気になれないのだが、この日は優美な鯨の群れを目の当たりにして、疲れも忘れて船縁ふなべりから見入っていた。
「すごい、鯨だ……」
 五、六頭の群れが、なんとも親密に船に並走している。
 弧を描いて海面に沈みこんだと思ったら、巨大な飛沫をまきあげて、見事なジャンプを披露してくれる。
 しばらく手すりに手をのせて、眺めていた。気がつくと銀色の薄い氷がはがれて手袋についていた。手すりに目をやると、湾曲にそって雫が垂れている。氷が溶けだしているのだ。
「何してる?」
 隣に甲板長のグスタフがやってきた。長身巨躯が防寒服に身を包んでいると熊みたいだ。覆面で顔を覆っている分、血のように紅い目が際立って見える。
「あれは鯨ですか?」
 愛海は海を指さして訊ねた。
「ミズリー鯨だ。海洋にでていく大型船を見かけると、従者よろしく嬉々としてどこへでもついてきやがる」
「人間に慣れているから?」
 グスタフは鼻で笑った。
「愛想がいいとでも思ったか? まぁ、ある意味そうかもな」
「どういうことですか?」
「ミズリーは、死者を貪る者という意味だ。奴隷船や海賊船を追いかけていれば、人間の死骸が山ほど甲板から捨てられるから、連中はいつでも飯にありつけるのさ」
 息を飲む愛海を見て、甲板長はにやりと笑った。
「甲板のうえでは、俺たち人間が食人者よろしく互いを肉切り包丁できりあい、海のしたでは、そいつが落ちてくるのを海獣どもが待っていやがる。だが俺たちも腹がすけば、連中を釣りあげ、銛で突き刺し、かっさばいて肉を喰うんだ。でけぇ胃袋を開くと、人間の手足がそのまま入っていたりする。これは共喰いになると思うか?」
 愛海は気持ちが悪くなって、ふらふらとその場を離れた。底意地の悪い嘲笑を背中で聴きながら、もう魚は食べたくないと思ったが、無理な話だった。
 海のうえにいて、海の幸を食すほかに生き延びるすべはない。海の幸であるはずなのに、悪魔じみた食卓に思えてしまう。
 しかし、大自然の理法たる食物連鎖に感情などない。
 非情なのではなく、ばくとした無情なのだ。
 掃除が終わった船員は、それぞれ持ち場に就くのだが、愛海は厨房に入るまで時間が空くので、自分で行動を決めなければいけない。甲板で右往左往していると、邪魔だと殴られかねないのだ。
 彼らは、ジンシンスが見ている前では礼儀正しいが、彼がいなくなったとたんに粗野で無礼になる。愛海に対して敬意を払ってくれるような男は殆どいない。
 この日は短艇の点検の手伝いをすることになり、それが終わると今度は、当直に就く者に呼び止められて、珈琲を煎れてくるよう頼まれた。それも終わって再び甲板にでると、また別の者に用事をいいつけられる。
 小間使いも楽ではない。前に一度、自分も休憩したいと断り文句を口にしてみたが、さぼるんじゃないと怒鳴られた。爾来じらい、甲斐ない哀訴などしない。
 理不尽だと思う一方で、仕方がないという諦念もあった。
 船という確立されたひとつの小世界で、船長であるジンシンスが愛海に目をかける分、他の船員の反感と嫉視しっしを買ってしまうのだ。ひとりが愛海を毛嫌いすると、他にも疫病の如く伝染し、軽んじても良い相手とみなされてしまう。
 このような集団心理は、中学校とそう変わらない。彼らを見ていると時々、同じクラスの女子を連想することがある。彼女たちは陰湿で、拳で殴らずとも言葉の刃を振るう。ちょっとこの船で働いて、己の無思慮さを鑑みた方が良いかもしれない。
 それにしても、これだけ長時間甲板で労働しているのだから、あっという間に陽に焼けそうなものだが、顔がほんの少し小麦色の肌になった程度だ。殆ど肌を露出しない格好のせいもあるが、混淆こんこう海域――この邪悪な海域はいつでも霧が漂い、はっきりしない曇り空なのだ。陽がでていても、青白く湿っぽい光で月のように感じる。どちらを向いても、かもめ信天翁あほうどりや、その他の海鳥の姿が一切見えない。
 一望蕭殺しょうさつたる海の景は、眺める者の胸に犇犇ひしひしわびしさを抱かせる。
 順風満帆とは無縁の海。
 暗鬱あんうつな青灰色の、凍てつくような極寒の海。いつでも不機嫌で、邪悪ななぎ時化しけているか、荒れ狂う嵐しか表情がない。
 温かい陽気が恋しい。甲板にでるたびに、少しでいいから日差しを浴びたいと思う。
 時間になると、際限のない雑用に見切りをつけて厨房に向かう。せっせと昼の仕込みをしているうちに、ごった返し部屋は瞬く間に船員で埋め尽くされる。
 誰も彼もが空腹で気が立っており、唸ったり、怒鳴ったりしながら配膳の列に並ぶ。
「マナミィ、もっとよそえよ!」
 今日も船員がケチをつける。愛海は無視を決めて、次に並んでいる男を見るが、
「無視すンじゃねぇよ!」
 掴みかかる勢いで男が愛海につばを飛ばす。嫌悪感が顔に顕れてしまい、頭をはたかれた。
「ぁ痛っ」
 愛海がうめくと、男は厭な笑いを浮かべた。周囲の船員も、失笑をこぼしている。頭にきた愛海は、男を睨みつけて大きな声でいった。
「進んでくださいっ」
 すると男は、愛海の口真似をしてからかう。
「すすんでくださいっ、だってよぉ」
 きゃっきゃっと笑う姿は、本当に陰険な女子と変わらない。愛海が苛立ちと怒りのいりまじった目で見ていると、男はにやにやしながらも隣にずれた。
 その後は、大きな問題は起きなかったものの、この日も配膳を終える頃には、愛海はへとへとになっていた。
「新入り、後片付けしておけ」
 いつものごとく、ホープが横柄に命じた。
「アイアイサー」
 愛海は敬礼と共に返事をした。
 部屋を見回すと、床も机も食い散らかされていて、ここは動物園かと我が目を疑うが、驚いたことに、人間が食事をする場所なのである。
 ようやく一日の労働が終わると、愛海は船長室に戻って遅い昼餉を済ませた。そのあとバルコニーにでて梯子を昇り、屋上に座りこんだ。ここは愛海の特等席で、甲板の様子がよく見える。この日は、甲板で男たちに指示しているジンシンスの姿が見えた。
 重苦しい曇天も、ジンシンスがそこにいるだけで、絵画のような現実を超越した景に変わる。
 彼はいつも上半身を顕にしているので、光沢を帯びた水色の肌がいっそう眩しくみえる。海水青色の髪をなびかせ、颯爽と歩く姿は美しく、彼の存在はかくもかそけき神秘である。
 躰の芯まで冷える前になかに戻ると、暖かい紅茶を飲みながら、ジンシンスの書斎で過ごした。
 そのあと窓辺で少し転寝して、夜になるとジンシンスがやってきた。一日のなかで一番楽しい時間だ。夕餉をともにしたあと、彼は再び船橋ブリッジに戻っていった。
 船の仕事は驚くほど多いが、なかでもジンシンスは人の三倍は働いている。朝から晩まで労働に身を費やし、黎明に船長室へ戻ってきたと思ったら、数刻眠ってすぐにまた甲板にでていってしまう。倒れやしないか心配だが、海底人というのは鉄の健康の持ち主らしい。
 一方愛海は、たっぷり睡眠が必要だ。寝支度を終えて、衣装部屋の寝床に潜ると、眠る前に日記をつけるのが日課になっていた。

 二十五日目。
 今日は死んだ海豹あざらしの脂身を取り除く作業をやった。
 いちいち調理長は怒鳴るけど、こっちはやったことがないし、力がいるし、おまけに石鹸で洗っても手のべたつきがとれないし、最悪なんだって判ってる? 怒鳴るくらいなら自分でやれよ。死ねばいいのに。死ねよ。
 ただ、調理長はともかく、ウルブスとジャンは悪い人じゃない。今日も手伝ってくれた。死刑囚のなかにも、親切にしてくれる人はいる。
 家族は今頃どうしているのかな。
 今日の夕飯は何? お母さんの作るカレーを食べたい。
 甘口のカレーが好き。辛すぎず、マイルドな味。白いお米が食べたい。

 懐かしい文字、日本語で書きなぐる。口ではいえない分、文字で調理長を罵倒している。十五年の人生において、これほどまでに強烈な殺意を覚えたのは奴が初めてである。
 この船の凶暴性に、愛海も馴染みつつあるのだろうか? ホープに心底嫌気がさしたとき、手に包丁をもっていて、彼が後ろを向いていたら、うっかり刺してしまいそうだ。
 物騒な思考のあとで、家族のことを思いだして、今度は胸に悲しみが射す。
 家族の思い出の品は何もないので、こうして文字に記す文字だけが、愛海の財産だった。悲憤慷慨ひふんこうがいを打ち明ける唯一の相手でもある。
 筆をもつ手が震えている。寒さのせいではなく、裡からこみあげるもっと冷たいもののせいで。
 文字を書きながら、目の端に涙がにじむ。人間はこんなにも些細なことで涙がでるのだとつくづく思う。文字を綴りながら、温かい記憶の扉に触れて、或いは辛い気持ちがこみあげて泣いてしまう。
(……家に帰りたい……)
 もう何遍思ったか知れない。考えても仕方がないといいきかせても、ひとりになると、ふとした瞬間に望郷の念が潮のように押しよせてくる。
 目の端ににじんだ涙を拭いて、筆を置いて照明を落とすと、寝床にもぐりこんだ。
 悲しみに押しつぶされてしまいそうでも、疲労困憊しているので眠りはすぐに訪れる。今は哀愁に浸る暇がなくて、幸いしたのかもしれない。