異海の霊火

3章:暗鬱な喚び声 - 9 -

 翌朝、帆桁にクラムが全裸でぶらさがっていた。
 明け方も見張りはいたが、帆桁から甲板が見通せないほどの濃霧がでており、いつ頸をくくったか気づかなかったという。
 船員たちは、別段驚いた様子もなく、淡々と彼の屍体をおろした。
 凍りついた屍体は、猿ぐつわをまされていた。全身傷痕だらけで、拷問されたことが一目瞭然だった。肛門は特に酷く、熱した火箸で犯されでもしたのか、爛れて変形してしまっている。
 もはや殺人にどんな感慨も抱かない死刑囚船員たちですら、死体の悍ましさに眉をひそめた。幾人かは、ゴッサムの顔を窺い見たが、精神監獄に囚われている少年は、どんな痛痒つうようも感じていない顔で佇立ちょりつしている。
 ジンシンスは、クラムが破廉恥極まりない強姦の犯人だと明かしたが、やはり誰も驚かなかった。
 とざされた船は、俗な噂の飛び交う巣窟そうくつだ。クラムの愚かな嗜好しこうを、皆も薄々感づいていたのかもしれない。
 今朝も病的に顔色の悪い“ジャンキー”ともうひとりがやってきて、口笛を吹きながら、クラムの屍体を帆布に乗せる。そのまま振り子のように反動を利用して、船縁から海へ放り投げた。
 もはや聖文句を唱える者もなく、死体に重石もあえてつけられていない。
 間もなく水面がけばだち、鮫や鯨が屍体に群がり集まる様子を、船員たちはどうでも良さそうに眺めている。
 眺める人数が少し減っているのは、昨晩のセイレーンの歌声に誘われて、海に身を投じた者が少なからずいるからだ。
 無頼漢を気取っている囚人船員も、戦艦で白骨した船員を目の当たりにして、己の運命に絶望してしまったのだ。故郷に帰るというわずかばかりの希望を打ち砕かれ、もはや生きる気力も失せ、セイレーンの甘いかいなに抱かれて逝ってしまった。
 そのとき幻夢に囚われた男たちは、生きたまま喰われていることに気づかぬまま最期を迎えただろう――せめてもの慈悲かもしれない。
「持ち場に戻れ」
 ジンシンスが命じると、船員たちは魚葬に興味を失くした様子で、それぞれの持場へ散っていく。
 クラムの死をいたむ者はいない。船員の誰も清廉潔白とはいえないが、それでも船のなかで強姦殺人は法度はっとだった。
 愛海は、船内へ引き返しながら、不気味な悪寒を感じていた。
 グスタフが死んで、今度はクラムだ。これは奇妙な偶然なのだろうか?
 天の御意というより、悪魔めいた恣意しいを感じる。
 グスタフは自ら海に落ちたが、そもそもどうやって独房をでたのだろう?
 考えすぎかもしれないが、あの日、愛海が運べなかった睡眠剤入りの食事が原因かもしれない。例えば昼飯をグスタフが催促し、近くにいた誰かが届けた――ときに何らかの交渉が起きて鍵を手にいれた可能性は?
 ありえないと思うが、万が一そうなら、愛海は間接的に殺人に関与したことになるのだろうか?
 妄想を敷衍ふえんしてしまう悪い癖だと思いつつ、疑念と焦りが潮のように押し寄せてくる。
 しかし、クラムに関しては状況が截然せつぜんとしている。表情からは伺いしれないが、犯人はゴッサム以外に考えられない。亡骸なきがらに遺された拷問痕も、彼がされたことを思えば納得がいく。
 愛海にとっては都合の良い展開だが、得体が知れずにかえって恐ろしい。悪魔が手を貸してくれているのだとしたら、その代償は何だろう?
 暗鬱な気持ちで船長室に戻ると、暖炉に寄り、ぱちぱち燃える薪を茫然と眺めていた。爆ぜる焔を見つめながら、己はどのような最期を迎えるのだろうと考えてしまう。
 ここへきて死を感じたことは一度ならずある。厳寒の海に落ちたとき、嵐のなか帆柱に縛られたとき、船員に襲われたとき、ホープには本気で殺されると思ったし、グスタフやクラムも生きていたら今頃何をされていたか判らない。いつだって綱渡りで、ジンシンスがいなければとっくに死んでいる。
 苦痛のなかで死にたくない。
 もう故郷に帰れるとは思っていない。慈悲を赦されるなら、安らかな最期を迎えたい。願うことはそれだけだ。
 そのうち眠気を催してうとうと微睡んだが、間もなく重たい氷の摩擦音に起こされた。
 何事かと思い急いで甲板にあがると、他の船員も舷側に張りついていた。
 濃霧の向こうから、ゴゴゴ……浮氷のぶつかりあう不気味な音が響いてくる。
 繋留けいりゅうした戦艦を調べていたジンシンスも戻ってきて、最上甲板ハリケーン・デッキに立って濃霧を見透した。彼が神妙なる御業で風を操り、濃霧を追い払った時、見守っていた船員はそろって息を呑んだ。
「氷塊だ!」
 とてつもない大きさで、霊峰の如く海から突きでている。
 これを迂回するなり粉砕するなり、途方もない労力を求められるだろうが、この船に限っては無用の心配だった。
 舳先に進みでるジンシンスの背中を、幾つもの期待と畏敬に満ちた目が追った。
 海底人の霊力たるや凄まじく、船に鋭い膜を張り、氷が触れたところから消失していく。
 死刑囚船員たちは、やんやの喝采を送る。日頃は船長を疎ましく思っている男たちも、この時ばかりは英雄とばかりに囃したてる。
 無傷で氷の隧道ずいどうを抜けたとき、眼前には分厚い氷の曠野こうやが拡がっていた。
「なんてこった! 終末の疫獣リヴァイアサンめ、今度は氷塊をよこしやがった」
 と、甲板は再び唖然となったが、海鳥の鳴き声を聞くと、はっとして一同天を仰ぎ見た。
「鳥だ……」
 無彩色の空に信天翁あほうどりが舞っている。
 驚異の光景に、誰もが目を瞠った。出航してから、数百日ぶりに目にする海鳥だったのだ。