異海の霊火

4章:終末の疫獣 - 10 -

 “さわやかな風トゥール・リーフ”号の生き残った船員は、ごくわずかった。殆どの船員と船の家畜、それから氷虎も、海のなか、或いは次元の彼方へ消えてしまった。
 愛海からシドの最後を聞いたジンシンスは、視線を少し伏せ、そうか、とひとこと頷いただけだった。
 大勢が消えた。それでも世界は終わらなかった。二進にっち三進さっちもいかない状況は、終わったのだ。
 生存者のなかには、ウルブスとジャン、ホープ、そしてゴッサムもいる。
 混淆こんこう海域を脱した翌日から、残された船員は、船の修繕にとりかかった。
 クラムの盲信者を手あたり次第に殺害していた少年も、憑き物が落ちたみたいに静穏に戻り、今は船の仕事を手伝っている。
 主帆柱メイン・マストは折れてしまったが、幸いにも他の支柱は無事で、帝国に寄港する分には問題なさそうだった。
 船員は皆、帝国が壊滅していることを予期していたが、船の進路は最初から決まっていた。航海を続けるにしても造船所ドックで修理する必要があるし、燃料の補給もしなければならない。帝国の様子を見ておきたいというのが総意だった。
 ジンシンスは船長の座をウルブスに譲るつもりでいたが、寄港するまでは待ってほしいと本人に請われ、了承した。
 船は多少壊れているものの順風満帆、十数日もあれば帝国につくだろう。
 その頃には、船の掃除も片付いているはずだ。
 甲板は今、帆布はんぷや木屑などが散らばっていて、ともから船首まで掃き清めるのに、数日を要しそうだった。
 愛海は医務室の片づけをしていた。もうシドはいないので、この船に乗っている間は、医務室の責任者は愛海である。
 壁に固定された照明や調度は無事だったが、抽斗ひきだしのなかは、ぐちゃぐちゃになっていた。
 医療器具や診断書を整頓しながら、今は亡き船員たち、とりわけシドを悼んだ。
 彼が殺人鬼でも、愛海にとっては恩人だった。医者の助手という立場を与えてくれて、医療知識だけでなく、何事にも明晰めいせきな回答をくれる師だった。
 ――船で色々と学んだ今なら、少しはジンシンスの役に立てるだろうか?
 告白して想いを交わしたその日は、天にも昇る気持ちでいられたが、これからどうするのかといった具体的な話に触れていないことに気がつくと、浮かれていた心は冷静になっていた。
 両想い……の、はずだ。
 期待はしているけれど、これからも一緒にいられるのか、まだ判らない。
 やがて西の空が明るく輝きだすと、愛海は手を休めて、甲板にあがった。他にも休憩している船員がいて、黄昏めいた空と、夢のような夕映が照らす水平線を眺めていた。
 今日最後の陽光が長くたなびく雲を浮きあがらせ、輪郭を黄金きん色に縁取った。
 それは見る者に、敬虔な戦慄を与える神々しい光景だった。
 夕闇が濃くなり、青玉サファイア色の空高く、月が輝くと、船員たちは甲板で酒盛りを始めた。やれ飲みに女だのと、あけっ放しの猥談や高笑いを響かせている。
 愛海は船長室に戻り、バルコニーから夜空を眺めていた。
 今夜、ジンシンスに訊ねてみよう。これからどうするのか、一緒にいてもいいのか。断られたら……立ち直れないかもしれないが、なんとかお願いしてみよう。そう心に決めた。
 美しい夜だ。
 水晶めいた透明な夜空に、彗星が流れて、また流れて、音もなく海へ落ちていく。
 穏やかな微風そよかぜが吹き、凪いだ海面には眩い月が映りこんでいる。
 甲板で誰かがバイオリンを奏でており、風情のある夜の情景とあいまって、詩のように美しかった。
 夢幻的な景に惹き入れられていた愛海は、ふいに肩を抱き寄せられ、息をのんだ。長身を仰ぎ見ると、ジンシンスも流れ星を目で追っていた。
「……お疲れ様です。ずっと船橋ブリッジにいたんですか?」
「ああ。舵手が死んでしまったから、他の船員に基礎を教えていた。幸い天候には恵まれているから、舳先へさきを帝国に向けてさえいれば、じきに陸を拝めるだろう」
 星明りに照らされたジンシンスは、普段にもまして神秘的な美しさを醸していた。彼が隣に立つだけで、心臓が早鐘を打つ。
 無比の美しさに見惚れていると、目があった。
「寒いか?」
「いえ、平気です」
 躰に電流が流れた心地で、愛海は俯いた。
 彼は愛海の実年齢を知って驚いていたが、そういう彼は幾つなのだろう? 年齢不詳の美貌だが、神秘的な碧眼のなかに、千もの謎の答えを秘めているように感じる。
「どうした?」
 ジンシンスは優しく訊ねた。
 訊くなら今しかないと思い、愛海は小さく深呼吸してから、再び顔をあげた。
「ジンシンスさん」
「ん?」
「これからも僕、じゃない、私を、船においてくれますか?」
「船においておくつもりはない」
 愛海は凍りついた。
「一緒に海底王国にこないか?」
 絶望から一転、世界に光が射した。碧眼が優しくほほえんでいる。
 心臓が大きく脈うった。躰の芯に震えが走る。今すぐ彼の首に両腕を回して、感情のままに抱き着いてしまいたい! だがそうするには、心配が多すぎた。
「でも私、海のなかで呼吸できるのでしょうか?」
 ジンシンスは笑った。
「問題ないよ。海底王国には空気があるから、陸と同じように過ごせるんだ」
「そうなんですか」
 愛海は安堵に胸を撫でおろした。これで最大の心配事はなくなった。
「良かった、海底王国にも人間がいるんですね」
「いや、いない。愛海は久しぶりの訪問者だな」
 えっ、と愛海は驚く。
「大丈夫ですか? 私を連れていったりして、ジンシンスさん怒られませんか?」
 ジンシンスは苦笑を浮かべた。
「怒られないよ。国交を断絶しているわけではないんだ。お前はいい子だし、皆もきっと歓迎するだろう」
 ジンシンスは愛海の手を自分の口元に近づけ、黒貴石のような瞳を見つめたまま、手の甲にくちびるを押しあてた。
 愛海は、さざなみのように押し寄せる快感に、思わず息をのんだ。触れあった肌に電気のようなしびれが走る。ジンシンスの瞳のなかに、陽に煌めく美しい海の幻を見た気がした。
 ジンシンスは頬を真っ赤に燃えさせている愛海を、じっと見つめ続けた。
「一緒にきてくれるか?」
 以前は奉公口を探してやろうだなんて考えていたが、もうそんな風には思えない。もし断られたとしても、時間をかけて説得するつもりだった。
「はい! 私も、一緒にいきたいです」
 愛海は迷わなかった。
 生来の臆病癖から、きっと迷惑をかけてしまう、彼の友人や家族に受け入れられないかもしれない……様々な心配が胸に飛来したが、それでもジンシンスの傍にいたいという思いが、すべてを圧する強い感情だった。
「決まりだ」
 ジンシンスは愛海を抱き寄せ、髪にキスの雨を降らせた。もう離さないとささやきながら、両手で愛海の背中をしっかりと抱きしめる。
「ありがとう……大切にするよ、約束する」
 胸がいっぱいになり、愛海は言葉がでてこなかった。
 感激のあまり、彼の頸に両腕をからめて抱きついた。柔らかくてなめらかな海水青色かいすいせいしょくの髪に指を絡めながら、彼の頭を撫でていた。
 ジンシンスは少し身を引き、愛海の瞳を覗きこんだ。
「海を愛する愛海。その優しい心で、俺のこともいつか愛してほしい……ゆっくりでいいから」
 愛海は真っ赤な顔でほほえみ、頷いた。
「はい」
 神々しい美貌が近づいて、くちびるが、愛海のくちびるに押し当てられた。壊れものでも扱うように、そっと……慎重に。その優しい触れかたに喉に熱いものがこみあげ、愛海は目を閉じた。
 ――もう愛している。
 まだ言葉にする勇気はないけれど、彼のことが大好きで、キスをすると心臓がどきどきして、夏の砂浜を歩いているみたいに、心がぽかぽかと陽気に温まるのを感じる。
 不安もあるけれど、新たな航海への期待に胸が膨らむ。ジンシンスと一緒なら、たとえ嵐の海だって天によみされし航海だから。




 次元の彼方――
 戦艦の甲板には、シドと譫妄せんもう状態の男が数人いた。
 宇宙教祖クラムのなしえなかった上位次元への昇華を、生き残った信者数人が知ることになるとは皮肉なものだ。否、生前のしがらみなど、もうどうでもいい。
 シドは船縁に掴まり、瞬きもせずに、神秘の扉の向こうを見つめていた。
 手を伸ばせば、不可視の手に引かれるように星空へと連れ去られた。
 無形の暗闇のなか、空気が煌めき戦慄わななく。夢のような乖離かいり感を覚えながら、五感は並外れて鋭敏になり、ありとあらゆる匂いが判った。海の匂い、血の匂い、草花の匂い、生き物のの匂い、朽ちていくものの匂いまで。
 あらゆる次元が交錯するなか、放電と、幾重にも炸裂する光冠コロナを見た。
 躰は軽くて、極寒に震えることもない。宇宙の寒さではなく、暖かすら感じる。
 星がそこかしこに瞬いている。
 右に左に、上に下に。己は宇宙に溶けていくのを感じた。
 肉体はもうない。
 意識もゆっくりと融解し、散逸していく、深い海のなかに、柔らかな土のなかに、驚きにたされながら、すべてが見えて、すべてを理解した。
 ――すべては己が生きているからこその疑問だったのだ。
 彼は飽くなき探求心から、三百十三人を殺害した。
 遵法じゅんぽうと犯罪の世界では、千の解剖をもってしても解き明かせなかった神秘の答え、形而上学けいじじょうがく的な回答をついに得たのだった。
 浮世の騒動や疑問が、計り知れない沈黙になかに失われ、あらゆるものより解放されて、自我さえないに等しく、星間を吹く久遠くおんの風となった。
 始まりと終わりの輪廻へ。生命神秘の揺り籠である宇宙の核へと、帰依きえしたのである。