燈幻郷奇譚

2章:桜降る蓬莱山 - 7 -

 縁側で一世と夕涼みをしている折に、亜沙子はふと先日聞いた話を思い出した。
 天狼をまつ千年天満ちとせてんまの里で、もうすぐ千年天満神社例大祭が開かれるという。麓では毎年恒例の夏の風物詩だと、天狼の子供らが楽しそうに話していた。
「そういえば、一世さん。千年天満で例大祭があると聞いたのですか」
「うん?」
「もすうぐですよね」
「そうだね。もうそんな時期か」
「一世さんは、いったことありますか?」
「何度かね」
「楽しかったですか?」
「うん、賑やかだよ。元々、人もあやかしも住んでいる街だけど、例大祭にはお山の神仙も大勢やってくるんだ」
「へぇ! 人間に気づかれないのでしょうか?」
「化かしあいは、我等の十八番おはこだからね。そう簡単には、見破られない」
「でも、耳やしっぽは? 隠しようがないんじゃありませんか?」
目晦めくらましくらい造作もないよ」
「便利ですねぇ。いつでも出し入れできるんですか?」
「幻惑だよ。錯覚させるんだ。本当に出し入れするわけじゃない」
「なるほど~」
「亜沙子もいってみたい?」
「いってみたい!」
 亜沙子が目を輝かせると、一世はほほえんだ。
「じゃあ、一緒にいこうか」
「いいんですか?」
「いいよ。何でも好きなものを買ってあげよう」
「わーい、一緒にいってくれるだけで十分ですよ! 楽しみにしていますね」
 はしゃいだ声を上げる亜沙子を見て、一世は目を細めた。手を伸ばして亜沙子の頭を撫でる。
「賑やかな街だよ。そうだね、亜沙子は気に入るかもしれないな」
「街で暮らしている天狼もいるんですか?」
「いるよ。天狼の城下町でもあるからね。暮らしている人間は、妖や天狼が紛れているとは気づいていないが」
「そうなんですか?」
「ああ。だが、肌で感じるものはあるのだろう。都で暮らす人間に比べて信心深い」
「へぇ……町で出会った人と妖が、結婚することはないのですか?」
 一世は、ちらと亜沙子を見た。何気なく口にしたが、際どい質問だったかしら、と亜沙子は内心で少し慌てた。
「ないこともないが、人間が妖や神仙と添い遂げる場合、人間世界を捨てて、同胞に迎え入れるのが習わしだ。上位次元の生き物は、その存在を人間から秘匿するべきである、と天帝もおっしゃられている」
「そうなんですか……」
 少し気まずい思いでいると、一世は亜沙子の手を握ってきた。どきっとして身体を強張らせると、一世は亜沙子の手を引いて、胸の中に抱きしめた。
「ねぇ、亜沙子。大きくなったら、私の嫁にならぬか?」
 亜沙子は二重の意味で衝撃を受けたが、すぐに冗談だと気がついて、おどけた風に頬に手を添えた。
「あらあら、私でいいんですか?」
「亜沙子がいいよ。かわいい亜沙子、ずっと私の傍にいておくれ」
「嬉しい。一世さんとずっと一緒にいられるなんて」
 明るくいうと、そっと顎をしゃくられた。え、と思った瞬間には、唇が重なっていた。すぐに離れていったが、亜沙子の衝撃は収まらなかった。唇を手で押さえて、茫然と一世を仰ぐ。頬を撫でられて、強く鼓動が跳ねた。目を合わせられず、視線を泳がせると、小さく笑う気配がした。
「約束したよ。亜沙子」
「え? え……?」
 一世は悪戯めいた光を瞳に灯して、亜沙子の唇に人差し指を押し当てた。
「もう、取り消せないよ。亜沙子は将来、幻燈郷で私と祝言を挙げるんだ……いいね?」
 甘やかな視線の奥に、燃え立つようなほむらがちらついていることに気がついて、亜沙子はいたたまれなくなった。
「……本当に?」
「嫌?」
「……う、ううん」
 心臓がどくどくと烈しく鳴っている。暮れなずみで良かった。茜空が、赤く染まった顔を隠してくれる。
 俯いていると、膝に置いた手に、大きな手がそっと重ねられた。
「……もう少し、話しをしていたいな。ねぇ、亜沙子、私の部屋においでよ」
「え?」
「例大祭の話を聞かせてあげる」
「でも……」
 このタイミングで、一世の部屋に二人きりになるには勇気がいる。
「おいで。ね?」
「でも、もうすぐ夕餉ですよね? その時に聞かせてください」
 こちらを見つめる蒼と金の眼差しが、無垢な想いを囁いてる気がして、亜沙子の心臓は壊れそうなほど早鐘を打った。
「……じゃあ、そうしようか」
 一世は少しも気を悪くした様子もなく、ほほえんだ。端正な顔をそっと近づけて、緊張で硬くなる亜沙子の額に、優しい口づけを与えた。
 そのあとはもう夢見心地で、どのように部屋に戻ったのか亜沙子はよく覚えていない。ただ、とても嬉しくて、幸せだった。