燈幻郷奇譚

3章:人と天狼の轍 - 10 -

 剣呑な眼差しで見つめられて、亜沙子は狼狽えた。
 泣いたせいで瞳は潤み、頬は朱く染まっている。肩で息をする亜沙子の背を、紫蓮はいたわるように腕で支えている。
 色っぽい事態は何一つなかったはずなのに、この誤解を招く空気はどうしたことか。
「亜沙子の元気がないようでしたので、あやしておりました」
 紫蓮は不本意そうに答えた。一世は眼を眇めると、不機嫌そうな眼差しを、そのまま亜沙子に向けた。
「――きなさい」
「うわっ」
 問答無用で手を引かれ、一世の部屋に連れていかれた。二人きりになった途端に、彼は嫉妬まじりのため息をついた。
「……妬けるね。亜沙子は、いつの間に紫蓮と仲良くなったのかな?」
 艶めいた流し目を送られて、亜沙子は肩を縮こまらせた。涼しげな眼差しは、更に細められる。
「そう……私からは逃げるように離れたくせに、紫蓮の傍にはいるんだね?」
「そんな、逃げるなんて」
「悪かった機嫌も、紫蓮の傍で直ったのかな?」
 美しい微笑に艶が増す。交わす視線が濃密さを増した。
 ひたと亜沙子を見据える瞳の奥に、暴力的な剣呑な光が宿る。
 俯くと、顎に指をかけられて上向かされた。獰猛な瞳。今にも噛みつかれそうだ。
「こんなに赤い唇をして……」
「やだ」
 顔を背けても、頬を手に挟まれて逃げられない。形の良い指が、亜沙子の唇に触れて、端から端までゆっくり輪郭をかたどっていく。
「やめて……」
 開いた唇の隙間に、一世は指を挿れた。亜沙子が暴れると手は離したが、目は離さない。亜沙子を見つめたまま、唾液に濡れた指を口に含んだ。
「……甘い」
 真っ赤になる亜沙子を見て、一世は嫣然えんぜんと微笑んだ。目の錯覚ではなく、青と金色の瞳の奥に嫉妬の焔が揺れている。
 背筋がぞくっと震えた。
 端正な顔がゆっくり降りてきて、慌てて二人の顔の間に手を挟みこむ。顎に指先を添えて遠ざけようとすると、逆に手を掴まれた。
「亜沙子を最初に見つけたのは、私だよ。小さな手も、かわらいしい頬も、唇も……」
 視線を伏せると、顎をしゃくられた。
「簡単に触れさせてはいけないよ」
 震える亜沙子を見て、一世はわずかに語調を弛めて続けた。
「でないと、妬けてしまう。亜沙子を邸に閉じこめて、独り占めしたくなってしまう――それは、嫌なのだろう?」
「勝手に抜け出して……ごめんなさい」
 悄然と呟く亜沙子の頭に、暖かくて、大きな手が乗せられた。烈迦を相手に暴れていたとは思えぬ優しい手つきで、亜沙子の黒髪を梳く。
「そうだね……でも、私もいささか強引過ぎたと反省している――」

 ふと指の動きがとまり、亜沙子は不思議に思って顔を上げた。
 一世は、亜沙子の首筋を凝視していた。
 烈迦につけられた痕だ。一世の纏う空気が冷たく張り詰めて、亜沙子は慄いた。
「……怒らないで」
 上目遣いに請うと、一世は器用に片眉を寄せた。かぶりを振る亜沙子を、たまらないといったように胸にかき抱く。
「亜沙子、緋桜邸を出ていきたい?」
「いいえ! ……でも、彩国はいくべきだと思っています」
「なぜ?」
「……いろんな人に迷惑がかかるから」
「誰が迷惑といった?」
 一世は怒気を孕んだ声で被せてきた。俯く亜沙子の顎を手ですくい、燃える金と青の瞳で射抜く。
「答えよ。誰がいけないといった?」
「……誰も、いっていません」
「ならばいくな。万が一、そのようなことを吹き込む輩がいれば、私が制裁をくだしてやる」
「あッ」
 うなじに歯を立てられて、亜沙子はおののいた。一世は顔をあげたが、亜沙子を離そうとはしない。夜闇でも光彩を放つ金と青の瞳に、ぎらっとした炎が灯っていた。
「烈迦に何をされた?」
「……何もされていません」
「本当に? この痕は?」
「んっ」
 肩を縮める亜沙子の首筋に、一世は再び顔をうずめた。
「こんな風に、不埒な真似をされたのではないの?」
 他の男につけられた痕を叱るように、首筋を吸われた。
「や、いっせ……んぅ」
 抗議は唇の中へ消えた。
 子供にするような優しい口づけとは違う。艶めかしい水音を立てて、甘く、淫らに貪られる。
 官能的な唇に、身体から力が抜け落ちる。一世は力強い腕で亜沙子をかき抱くと、後頭部をしっかりと手で支え、もう片方の手で身体の線を撫でながら口づけを続けた。
「ま、待って……」
 ようやく唇が離れると、二人の間に、つと銀糸が垂れた。それを舌でからめ捕りながら、一世は情欲の滲んだ眼差しで亜沙子を射抜いた。
「……し、心臓が壊れそう」
 真っ赤な顔で亜沙子がいうと、一世は意地の悪い笑みを浮かべた。
「亜沙子に何かあったら、こんな仕置きでは済まなかったよ」
 一世は手を伸ばすと、少し乱暴に亜沙子の頬を撫でた。
 胸が痛くなるほどの、美しい瞳がすぐ傍にあり、亜沙子を映して煌めいている。
 どうしようもないほど切ない気持ちが溢れて、視界が潤んだ。眼淵まぶちに涙が盛り上がり、雫となって頬を滑る。次から次へと、ぽろぽろと……
「亜沙子?」
 一世は驚いた顔をした。突然泣き出したから、心配させてしまっている。
 涙を止められない。
 どうにか誤魔化そうと、亜沙子は泣き笑いを浮かべた。
「一世さんの傍に、ずっといたいな」
「傍にいよ。なぜ泣く? ……泣くな。亜沙子が泣いていると、私も哀しくなる」
 一世は少し身体を離して亜沙子の顔を覗きこむと、左右の瞼に、優しく唇を押し当てた。硝子細工を抱くように、亜沙子を優しく胸の中に抱き直す。
 静謐せいひつな月明かりを浴びて、青銀の髪が煌く様を、亜沙子は一世の胸に頬を寄せて見つめた。
「私、郷が好きです。一世さんがいいってくれるなら、ずっと緋桜邸にいたい。でも、でも……」
 力なく呟くと、一世は涙に濡れた頬を撫でた。
「……でも?」
「私のせいで、一世さんや、郷の皆が悪く思われるのは嫌なんです」
「いればいい。誰も悪くいう者などいないよ」
「少なくとも、烈迦さんと笹良さんは違うでしょう? きちんとお役目を果たして、胸を張ってここにいたい」
 同族同士で番わせてやった方がいい――烈迦の言葉が耳朶に蘇る。ねがわくば、一世だけでなく、彼が大切に護っている郷にも受け入れられたかった。
「亜沙子が心配する必要はないよ。文句をいうやからは、私が許さぬ」
「一世さんばかりを、矢面やおもてに立たせたくない。私にできることがあるなら、させてください……お願いします」
「亜沙子……」
「三日したら、必ず帰ってきます。お帰り、っていってもらえますか?」
「……」
「一世さん、お願い」
 上目遣いに仰ぐと、一世は半分瞑目して、長いため息をついた。
「そんな瞳で見られては、無下に跳ねのけるのも難しいな……」
 期待に瞳を輝かせる亜沙子を見て、一世は仕方なさそうに苦笑を浮かべた。
「……私の元に帰ってきてくれなければ、彩国を滅ぼしてしまうからね」
「じゃあ、じゃあ……」
「いいよ、三日だけ許そう。それ以上は待てぬ」
「! ありがとう、一世さん!」
 首に腕を回して抱き着くと、ぽんぽん、と宥めるように背中を軽く撫でられた。
「私の元を離れるというのに、そのように喜ばれては複雑だな」
 亜沙子は一世の肩に手をつくと、目を合わせてにっこりした。
「一世さんが待っていてくれると思うから、いけるんです」
「亜沙子の帰りを、一日千秋の想いで待っているよ」
「ありがとう、一世さん。絶対に帰ってきますから……っ」
 ほろほろと涙が零れる。両手に顔を沈めると、頬を舐められた。顔を上げると、天狼の姿をした一世が亜沙子を見つめていた。
「……」
 いつの間に姿を変えたのだろう? 不思議に思っていると、もう一度、涙に濡れた頬を舐められた。顔を背けても、首を伸ばして追いかけてくる。
「一世さん……」
 ふわふわした頬を撫でると、青と金の相貌を、すぅと三日月のように細めた。
 亜沙子が動かずにいると、一世は立派な体躯を、亜沙子の傍に横たえた。長いしっぽで、亜沙子の足を優しくたたく。
 慰められていると知り、亜沙子は肩から力を抜いた。おずおずと体重を預けると、一世は首をめぐらして、亜沙子の腹に顔をうずめた。
 つややかな毛並みを撫でると、心は凪いでいった。
 大人しく従順に、亜沙子の傍で寝そべっている。毛並みに指をもぐらせても、怒ったりしない。眉間を伸ばすように親指でこすると、うっすら青い方の片目を開けた。
 そっと近付いて眉間にキスをすると、ぱちっと両方の目が開いた。びっくりしたように亜沙子を見ている。
「一世さん、大好き」
 ほほえみながら、亜沙子はわざと軽くいってみた。一世は嬉しそうに尾を揺らして、目を細めている。
「私もそなたが愛おしいよ」
 青と金の双眸が、優しい三日月のように細くなる。幸せな気持ちで、亜沙子はそっと瞳を閉じた。