燈幻郷奇譚

3章:人と天狼の轍 - 7 -

 一世と対立した結果、亜沙子は部屋に軟禁された。
 一人では扉を開く力がない為、外から誰かが扉を開いてくれない限り出ることはできない。部屋は高所にあり、窓から外へ出ることも不可能である。
 いとも簡単に、亜沙子は閉じこめられてしまった。
 軟禁されてから、一世は部屋を訪ねてこない。笹良が迎えにきても、亜沙子を部屋から出さないつもりなのだ。
 六日が経過し、様子をうかがいにやってきた紫蓮に亜沙子はいよいよ泣きついた。
「お願いします、一世さんに会わせてください!」
「明日を過ぎれば会えますよ」
「それじゃ遅いんです。部屋から出してください」
「残念ながら、亜沙子を部屋から出すつもりはないそうですよ」
「もぉ~……」
 がっくりと項垂れる亜沙子を、紫蓮はどこか達観した眼差しで見つめた。
「もう観念して、じっとしていたらどうです?」
「そんなことをいって、笹良さんとの約束はどうするんですか?」
「まぁ、この手の揉め事は、今に始まったことではありませんし……私も一世をき伏すのに疲れました」
「諦めないで、紫蓮さん! 貴方だけが頼りなのにっ!」
 亜沙子は縋るように紫蓮を仰いだ。緋桜邸の天狼は、基本的に一世に忠実である。臆せず彼に意見できるのは、紫蓮くらいしかいないのだ。
「天帝に背くのは不本意ですが、実のところ、私も亜沙子が彩国へいくことには反対なのです」
「えっ」
「亜沙子を使って、人に歩み寄らせようとしているようで面白くありませんよ」
 公平な紫蓮にしては、冷たく吐き捨てた。
「天狼と彩国の軋轢あつれきは、そう簡単に紐解けるものではありません。亜沙子は、板挟みで辛いかもしれませんが」
「私のことはいいんです。私のせいで、郷の皆が困ったことになるのは嫌ですよ」
 紫蓮は視線を和ませた。
「どうということはありません。涅槃ねはんの神仙とて、地上に関われば感情が芽吹くもの。たまには、喧嘩の一つもします」
 亜沙子は微妙な顔で押し黙った。仕える天帝に背く行為が、喧嘩、の一言で済まされるのだろうか?
「……天帝は、私を試しているのでしょうか? 郷に残るのか、それとも彩国へいくのか」
「それをいうのなら、試されているのは、天狼と人間の双方かもしれませんよ」
「?」
「大王を蝕む病が本当なら、確かに澄花酒で治せるでしょう。天は彩国を見放したのかと思っていましたが、人は救うに値するのか、亜沙子の目を通して、天狼と人間に問いかけているのかもしれませんね」
「……」
「ここは狼の霊山。先祖の霊魂が、人間は恐ろしい生き物だと囁くのです。郷の者は、過去の陰惨を忘れられずにいる」
「……紫蓮さんも?」
「無論。人間は怖くて憎いですよ」
「……」
「優しい人間がいることは知っています……亜沙子のように。だからといって、狼が人間の手で残虐にほふられた過去を消せるわけではありません」
「……力になるべきではない?」
 紫蓮はゆっくり首を振った。
「それは、亜沙子が判断することなのでしょう。主上もそうお考えなのでしょうが……やっぱり、私は反対ですね」
 つんと顎を逸らす紫蓮を見て、亜沙子はほとほと困り果てた。膝に手を置いて項垂れていると、そっと頭を撫でられた。
「いい子ですから、じっとしておいでなさい。悪いようにはいたしませんから」
 そういって、部屋を出ていこうとする。亜沙子は慌てて後ろを追いかけるが、扉の前で肩をやんわりと押された。
「出てはいけませんよ」
「待って、いかないで」
「いい子だから……」
 紫蓮は顔を下げると、ちゅっ、と亜沙子の頭に唇を落とした。思わず頭を押さえて絶句する亜沙子の眼の前で、扉はゆっくりと閉まった。
 部屋に独りで籠っていると、心は欝々としてくる。
 一世は、どうして会いにきてくれないのだろう?
 部屋に閉じこめたのは、少なからず亜沙子を想ってくれているからだと思っていたけれど……
 何を考えているのか判らなくて、不安になる。一世は、亜沙子のことをどう想っているのだろう?
 家族でもない、恋人でもない、愛人でもない、友人とも違う……拾われてきた猫?
 そうよね、と納得はしていても胸が痛む。
 一世を恋い慕う気持ちに、押し潰されてしまいそうだ。
 いつから、これほど惹かれていたのだろう?
 同じ邸で暮らし、食事を共にしているのに、傍を離れる時はいつでも後ろ髪をひかれるような寂しさを覚えていた。
 一世への想いは、日毎夜毎ひごとよごと、強くなっていったのだ。
 告白された時には、とっくに好きになっていた。
 ああ、明日は約束の日なのに、どうするつもりだろう?  煩悶は尽きず、気晴らしに月胡を手に取った。
 音楽は慰めにもなる。
 窓辺の寝椅子に腰を下ろし、天空を仰いで、気の向くままに弦をつま弾く。

「――良い音色だな」

 突然、話しかけられて亜沙子は飛び上がらんばかりに驚いた。
 窓の外を見ると、黒髪、黒い耳と尾を持つ、美しい偉丈夫がこちらを見ていた。
 長い黒髪を無造作に後ろで一つに束ね、金色の双眸で、興味深そうに亜沙子を見ている。
「……どちらさまでしょうか?」
「判らぬか?」
「?」
 顔に疑問符を浮かべる亜沙子を見て、クッと男はおかしそうに喉を鳴らした。
「先日は世話になった」
 風に靡く黒髪、満月のような黄金の瞳を見て、あっ、と亜沙子は声を上げた。
「この間、夜那川で会った……?」
烈迦れっかだ」
 不敵に笑い、男は窓の格子を掴んだ。亜沙子は驚いて腰を浮かすと、窓辺から少し離れた。
「一世に閉じこめられていると聞いたが、本当のようだな」
「どうして、ここへ?」
「一世も紫蓮も、お前を彩国に渡さないつもりだ。俺は、天帝の命に背くのは構わないが、人間を幻燈郷に置くことはやめた方がいいと思っている」
 亜沙子は大きく目を瞠った。これまで誰にもいわれなかったことを、とうとう烈迦にいわれた。
 やはり、郷の天狼が全て亜沙子の滞在に肯定的なわけではないのだ。判っていたつもりだが、胸が苦しくなる。
「お前は彩国で暮らした方がいい」
「でも……」
 困惑する亜沙子に、烈迦は囁く。
「ここから出してやろうか?」
「……私が郷にいては、迷惑ですか?」
「端的にいえば、そうだ」
「……」
「お前に恨みはないが、この土地は特別なんだ。人と狼が壮絶に争い、血と怨嗟をまき散らしながら狼は滅びた。そういう土地なんだ」
 亜沙子は項垂れた。
「はい……ここから出してください。明日は、笹良さんに会わないといけないんです」
「いいだろう」
 格子を掴む、烈迦の手が金色に淡く光る。刹那、硬い格子は砂となって大気に溶けた。
 唖然とする亜沙子に、烈迦は思いのほか恭しく手を差し出した。
「こい」
 逡巡し、亜沙子は自ら手を取った。腕を引かれて、腰をたくましい腕に攫われた。
「ひゃぁっ」
 窓の外へ身体を抱き寄せられ、亜沙子は慌てて烈迦にしがみついた。
 烈迦は亜沙子を抱き上げると、影の中へ消えた。窓辺に、亜沙子の簪を一つ残して。