燈幻郷奇譚

4章:天狼と見る夢 - 4 -

 夜闇に一条の煙が立ち昇る。
 亜沙子が火をつけた香は、連子窓の外から細く長く、きらきらと天へ伸びた。
(一世さん、気づいてくれるといいけれど……)
 窓辺でしばらくやきもきしていた亜沙子は、やがて壁にもたれて目を瞑った。
 黎明の空が白み始める頃――銃声の音にはっと目を開けた。
 連子窓から外を覗くと、丸い月を背に、天狼の軍勢が一斉に城へ降りてくるところだった。
 撃ち落とさんとする発砲音が聴こえて、亜沙子は悲鳴をあげた。
 ドンッドンッ! 身の毛もよだつ銃声音が次から次へと聞こえてくる。
「やめてッ!」
 亜沙子の部屋にまで火薬と硝煙しょうえんの匂いが流れてきた。空のあちこちに視線を彷徨わせ、白い煙の合間から、閃光のように翔けてくる天狼と目があった。
「一世さん!」
 光の尾を引いて空から舞い降りるや、荒々しく地上を蹴散らしていく。
 次々と先鋒隊が地上に降りて、邸の中にまでもなだれこんだ。
 扉の向こうが騒がしくなり、亜沙子は壁際に寄った。
 天狼の重低音の鳴き声に交じって、呼びかけるような声が聞こえてきた。
「い、一世さん! 一世さんッ!!」
 必死に叫び続けると、複数の足音が扉の向こうから近づいてきた。
「亜沙子ッ」
 扉の向こうに一世がいる。
「一世さん!」
 亜沙子は扉に駆け寄った。
「下がっていなさい! 開けるから」
 亜沙子は慌てて飛びのいた。重たい衝撃音と共に、堅牢な扉は蹴破られ、塵埃じんあいが舞った。
 頭を腕で守っていた亜沙子は、一瞬で、暖かな胸の中に抱き寄せられた。
「迎えにきたよ、亜沙子」
「一世さん……」
 胸がいっぱいになり、亜沙子は涙ぐんだ。深い、深い安堵が胸に押し寄せて、熱い滴となって頬を流れ落ちる。
 一世は亜沙子の顔を両手で包みこむと、端正な顔を下げて、濡れたまなじりに唇を寄せた。優しく滴を吸い取り、そのまま頬、鼻と順に口づけ、少し顔を離した。無言で見つめ合い、亜沙子はそっと瞼を閉じた。
 唇が柔らかく重なる。触れるだけの口づけは、少し濡れていて涙の味がした。
「……野暮を申し上げるようですが、あとにしてくださいませんかね?」
「――ッ!?」
 亜沙子は吃驚びっくりして、ぱっと一世から離れた。壊れた扉の外に、紫蓮がいた。
「判っているなら遠慮せよ。今、いいところだったのに……」
 不服そうに文句を垂れる一世を、紫蓮は呆れたように見据えた。
「邸に戻ってからにしてください。亜沙子を連れて、さっさと帰りますよ」
「まぁ、その通りだな」
 当たり前のように差し伸べられる手を、亜沙子はじっと見つめてから手を重ねた。ぎゅっと強く握りしめられる。
「帰るよ」
 一世は決定事項を告げるように、きっぱりといいきった。紫蓮もなんの疑問もなく、亜沙子を見ている。
「はい!」
 亜沙子も強い気持ちで頷いた。桜降る、燈幻郷へ帰るのだ。天狼達と一緒に。
 廊下のあちこちに争った痕跡が残されていた。柱や壁に黒ずんだ銃痕を見つけて、亜沙子は肝を冷やした。
「二人とも、怪我はありませんか?」
「なんの。人間の武器ごときに遅れをとる我らではないよ」
「でも、銃が相手では」
「心配はいらないよ。ほら、この通り怪我などしていない。外も間もなく片づく」
 一世は不敵に笑った。自信たっぷりな様子に、亜沙子は幾らか安堵したが、地面に血を流して倒れ伏している兵士を見て、脚が止まった。
「……死んではおらぬ」
 口を両手で押さえて、言葉を失くす亜沙子の肩を、一世は護るように抱き寄せた。
 外は、酷い有様だった。
 最前線では天狼と人間がまだ争っていて、どちらのものか判らぬ血しぶきが舞い、地面を赤黒く染めていた。
「――烈迦さんッ!」
 争いの中心に烈迦の姿を見つけて、亜沙子は悲鳴を上げた。
 黄金の瞳を炯々けいけいと輝かせ、閃光のような身のこなしで、になえ銃の砲火を躱しながら、果敢かかんに襲いかかっている。
 強い。
 だが、幾ら強くても、相手は銃をもっているのだ。怖くて、亜沙子は震える手で口を押えた。
「烈迦なら平気だよ。目を閉じておいで。すぐに終わるから」
 亜沙子の視界を、一世は大きな掌で覆った。胸に縋りつくと、しっかりと抱き寄せられた。
「――姫ッ!」
 声の聞こえた方を、亜沙子は振り向いた。暁暉は、天狼の牙や爪を剣で受け流しながら、亜沙子の方へ駆けてくる。