3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

1章:マイナスって0より酷い - 5 -

 その日の晩餐は、家族が全員そろった。
 明日の朝、エミリオは寄宿舎に戻るので、家族がそろうのは今夜までだ。
 射撃の件でエミリオと顔をあわせるのは気まずいと思ったエイミーだが、義母が二歳のシドニーも揺り籠に入れて連れてきたのを見た途端に、笑顔になった。
 いそいそと揺り籠の傍にいき、小さな天使を見つめていると、義母に頭を撫でられた。エイミーは義母を見てほほえんだ。
「この子は天使ね」
 もみじのようなお手手を、エイミーは優しく撫でた。指も爪もちっちゃくて可愛い。
「貴方も天使よ」
 義母はエイミーの頬を優しく撫でた。すごくいい匂いがして、エイミーは赤くなる。エミリオとの件を聞いているはずなのに、普段通りに接してくれる彼女の優しさが嬉しかった。
「さぁ、そろそろ席について。乾杯しましょう」
 義母は明るい声でいった。彼女は公爵家の月であり太陽だ。
 エイミーはエミリオの隣の席に着席すると、林檎ジュースの注がれたグラスを手に持って、掲げた。
「家族の健康と絆に、乾杯」
 義母の言葉のあとに、
「「乾杯」」
 皆が唱和してグラスに口をつけた。義父も義兄も無口な方だが、ムードメイカーな義母がいれば、気まずい沈黙に悩むことはない。
 義母の明るい声が食卓に響き、シドニーの愛らしい笑顔が場を和ませている。義父の厳格な表情も、今夜は少し柔らかく見える。
 食事の間、エミリオの頭上に数字は顕れなかった。彼の心がどこにあるのか、エイミーにはわからなかったが、少なくとも今夜は穏やかな時間が流れていた。
 明るい雰囲気のなか、エイミーは美味しい料理の数々に舌鼓を打った。
 新鮮な魚のカルパッチョ。赤や黄色のミニトマト、鮮やかなベリー、色とりどりのハーブの葉に、玉ねぎのドレッシングのサラダ。鮮やかな緑色の皿に盛りつけられた、ナスの詰め物。陶器のボウルに盛られた、心温まるクリームシチュー。熱々の黒いスキレットに入った、海老のアヒージョ。薄くスライスされた焼きたてのバゲット。
 どれもエイミーの好物だ。
「美味しいね、エミリオ」
 エイミーは勇気をだして、エミリオに話しかけた。エミリオは驚いたようにエイミーを見つめた。しかし、その目にはほんの少しの柔らかさが宿っていた。
「うん、美味しいね」
 短い返事だったが、声は優しい。わずかながらも心の距離が縮まった証が感じられた。
 家族の絆が少しずつ、織り直されていく。そう期待しては失望する数日だったが、晩餐が終わる頃には、エイミーは暖かな気持ちに浸されていた。今夜はよく眠れそうだ。

 翌朝、公爵家の家人は皆仕事の手を休めて、玄関までエミリオを見送りにやってきた。
 玄関には魔光一角獣ユニコーンが引く黒塗りの馬車が待機していて、荷物はすでに積み終えている。
「気をつけてね、エミリオ」
 義母は熱烈にエミリオにハグをして、公爵はいつもながら、殆ど無表情で頷くにとどめた。次はエイミーの番だ。ウィスプしていいか聞きたいと思っていたのに、勇気がでない。ウィスプというのは、小型水晶版を介して行う、いわゆるオンラインチャットだ。公爵家専用の回線を引いてあるので、連絡先は把握している。ただ個人的にエミリオに連絡したことは一度もなかった。
 いうなら今しかない。今がチャンスだ。今だ。今! エミリオと目があったので、エイミーは勇気をだして口を開いた。
「お義兄さまっ、あの………………お元気で」
 いえなかった。
 勇気が急速にしぼんでいく音が聞こえる。今日はもう無理そうだ。
「エイミーも、元気で」
 エミリオはエイミーを見つめていった。淡々とした表情ではあるが、眼差しに嫌悪は見られない。
 エイミーはもう一度、勇気をだして、エミリオに一歩近づいた。両手を広げて、自分より背の高い義兄を見あげる。ハグのサインだ。
 エミリオは今度こそ驚いた顔をしたけれど、応えてくれた。エイミーが公爵家に引き取られてから、これが初めての義兄妹の抱擁かもしれない。視界の端で、義母が感動したように両手で口元を押さえている。
 ぎこちない抱擁は、二、三秒ほどで終了した。
「いい子でね」
 おずおずといった風にエミリオは、エイミーのリボンを結んだツインテールの髪を撫でた。
「はい、いい子でいます。また今度……お話ししてください」
 エイミーは頬を紅潮させて、ほほえんだ。ウィスプのことは切りだせなかったけれど、ハグしてくれた……嬉しい。ちょっと涙ぐんでいると、エミリオの頭上に光がちかちかするのが見える。ドキドキしながら見守っていると、

“1%”

 とうとうマイナスを脱した!
 たったの1%だけれど、一昨日は-28%だったことを思うと、涙が溢れそうになる。
「それじゃ、いってきます」
 手をあげるエミリオに、いってらっしゃいと両親とエイミーは声をかけた。
 騎兵たちが管楽器を高らかに鳴らし、出立の刻を告げる。音は熱した夏の空気を切り裂き、遠くの丘まで響き渡った。
 塔のあらゆる場所には、群青と銀糸で縁取られたエミリオの紋章旗がひるがえり、誇らしげに風に揺れている。まるで、門出を祝福するように、空に向かって声をあげているみたいだ。
 グリーンの歩廊を挟むようにして左右に並ぶ召使たちが、馬車の通過にあわせてお辞儀をする。
 彼らの顔には感情の影ひとつなく、均整のとれた動きで、一糸乱れず頭を垂れる。機械のように滑らかな仕草で、馬車がその前を通るたび、静かな波のようにお辞儀が連鎖していく。
 馬車の車輪が石畳をかすかに鳴らす音が、次第に遠ざかっていくのを聴きながら、エイミーは寂しさと同時に、ある種の高揚感を感じていた。
 数字の変化に一喜一憂するのはやめようと昨日思ったばかりなのに、今は相手の好意が可視化されて良かったなんて思っている。
 でも、やっとスタート地点に立てた。
 昨日の射撃の件で諦めかけたけれど、今は、きっとこの先、良好な関係を築いていけるという、無限大の可能性を感じる。気が大きくなり過ぎているのかもしれないけれど。
 それにしても、エミリオにだけ数字が顕れるのは、結局どうしてなのだろう? 女神様の祝福であることは間違いないが、なぜエミリオ? エイミーの真相心理では、エミリオと恋愛したい願望でもあるのだろうか?
 だとしても、兄妹で恋愛するわけにはいかないだろう。いくら血が繋がっていないとはいえ……笑美の常識でそう考えた後、念のため、並列化水晶バベルに訊いてみた。
 驚いた。
 この世界では、養子縁組した子供と、その家族(養親やその血縁者)が結婚することは法的に可能らしい。養子縁組により親子や兄妹関係が成立しても、近親婚の規制が適用されないのだ。
 ……いや合法だからといって、エミリオがエイミーに恋するとは思えないが……貴族の黄金種ベルハーと養子の混血種アミーの恋愛なんて御伽噺の世界だ。どんなシンデレラだ。いやシンデレラには美貌があった。エイミーにはそれすらない。そもそも公爵家が赦すはずがない。
(ああ、女神様に訊けたらいいのに。一体、どんな意図がおありでエミリオの好感度を可視化しているのですか?)
 エイミーは空を仰ぎ、心のなかで女神様に問いかけた。答えは得られるべくもないのだけれど。

 エミリオが寄宿舎に戻ったその日から、エイミーの勉強も再開した。
 朝九時から一二時までは、家庭教師が通いで指導する。二時間の昼休憩を挟み、一四時から一六時までは、通信教育で数学、錬金術、現代魔導学などを学ぶ。
 午前中は、貴族の社交マナー、優雅なウォーキング、王家の系譜の解説、楽器の演奏、舞踏の練習が課されている。楽器は最低二種を必修とされ、エイミーはピアノとチェロを選択している。舞踏は苦手だが、ピアノやチェロを弾くのは好きだった。
 笑美の子供時代は貧乏で、習い事など夢のまた夢だった。バレエやピアノを習う友達が羨ましかったものだ。今は心ゆくまで、最高級の楽器を自由に弾くことができる。そういえばエミリオはヴァイオリンを奏でることができるから、仲良くなれたら、一緒に演奏をしてみたい。
「テンポが速いですよ」
 先生の声に、エイミーは瞬時に現実に引き戻された。慌てて指先に集中する。少しじんとするけれど、楽器の練習は嫌いじゃない。熱心に練習すると、あっという間に時間は過ぎていく。
 昼休憩になり、エイミーは三日ぶりに、白い長毛の大型牧羊犬ロージーを連れて公爵邸の裏に拡がる森へ入った。
 この土地は古来より妖精たちに守られており、邪な心を持つ不届き者は足を踏み入れることは赦されない。とくに公爵邸の周囲は私有地のため、散策する人間は限られている。なかでもエイミーは森歩きをする常連のひとりだ。
 ロージーは子犬の頃からエイミーが世話をしている。問題児で乱暴者のエイミーも、養親から子犬のロージーを贈られたときは、感謝感激の雨霰あめあられだった。
 エイミーはロージーが好きだが、顔を舐められるのは好きじゃない。よだれでべとべとになるのは我慢ならなかったので、子犬の頃から顔を舐めさせないように躾けた。賢いロージーは、エイミーに忠実である。
 森に入るときは、必ずロージーを連れていく。エイミーが道に迷っても、ロージーがいれば問題ない。どんなに森の奥深くに入っても、賢いロージーは家までの帰り道を知っている。
 それに並列化水晶バベルがあるから、養親はエイミーの居場所をいつでも特定することができる。だから公爵家の人々は、エイミーが森に入ることを黙認している。
 森へ入ることは、エイミーの日課だった。
 歩くだけで心が落ち着く。
 ラドガ湖を囲む広大な森には、四季折々の草花が息づいている。春には菫や片栗、二輪草が地面を覆い、淡い紫や白の花が風に揺れる。夏には鮮やかな緑の絨毯を広げ、釣鐘草つりがねそうや狐の牡丹がそっと咲き誇る。秋になると、コナラやかえでの葉が森を赤や黄金に燃えあがらせ、冬には一面銀景色に変わり、硝子細工のような雪のしずくスノードロップ、黄色いエランティスが顔を見せてくれる。
 いつでも、どんな時でも、美しい森だ。
 昼時に森へ入るときはいつも、パンとチーズを鞄に入れ、お気に入りの大樹のしたでランチを取る。
 公爵家にきたばかりの頃に、エイミーは大樹を発見して、それ以来「森の主」と呼んで親しんだ。
 年を重ねた堂々とした巨木で、力強くも優雅な枝を広げ、一年中、豊かな銀葉に覆われている。
 森の主の傍には、エイミーの秘密の隠れ家がある。毎日少しずつ、角燈や柔らかなクッションを持ちこみ、雨風や虫を防ぐ素材で編まれた天幕を張り、居心地良く整えてある。
 森にいると、時折妖精たちのささやきが風に乗って聞こえたりする。彼らはエイミーに興味を持ち、時には小さな贈り物を置いていく。銀の葉や、魔法の小瓶、そして不思議な石など。エイミーはそれらを大事に集め、自分だけの宝物にしていた。
 公爵家にきたばかりの頃、ここはエイミーにとって避難所だった。豪奢な公爵邸より、よっぽど自分の居場所のように思えたのだ。
 今は、公爵邸も、公爵家の人々も好きだけれど、この場所はやっぱり特別だ。
 エイミーは大樹の下でランチボックスを広げ、ロージーと共に静かなひと時を過ごした。空には妖精たちが舞い、木々の間を光が踊る。エイミーの心は、この場所では完全に安らぎ、満たされるのだった。