3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで
3章:だけじゃなかった - 4 -
季節はめぐり、夏。
陽は燦 と明るく、灼 けるような熱気が大地を包む。陽炎が揺れる暑い昼と、短夜 が続いていた。
八月一日。エイミーの九歳の誕生日。
この日は重たげな雲が空を覆い、陽光は霞んでいた。あいにくの曇天だが、気分は晴れやかだった。
なぜなら、今日は久方ぶりにエミリオが帰ってくるのだ。
この数ヶ月、彼はシルヴァニール邸にちっとも戻らなかった。
多忙な身だから仕方ない……と理解しているものの、四月にアンの屋敷を訪れて以来、どこか疎遠になった気がしていた。外出に誘っても応じず、ウィスプや手紙でも端的な返答ばかり――まるでエイミーの存在が、彼の日常の隅へと押しやられているようだった。
一方で、テンペスティスとは何度か会う機会があった。
アンの誕生日祝いで四月に王都へ出かけたり、先月、アンの屋敷に泊まった際も邂逅している。
彼の好感度は安定して高く、最後に目にしたときは79%だった。数字を確認せずとも、柔和な視線や気遣いに満ちた仕草がそれを物語っている。もしエイミーの精神年齢が相応だったなら、恋に落ちていたかもしれない――そんな淡い想像がよぎる。
だが、エミリオの53%という数値を思うと、胸の奥が少し痛んだ。
以前は比較対象がいなかったから気にならなかったが、こうして数値を並べると、彼の好感度の低さが際立つ。恐らく、エミリオにとって53%など「多少興味はあるが、特別ではない」程度なのだろう。数ヶ月、顔をあわせなくても平気なくらいだ。
――エイミーは、寂しかったのに。
それでも、久方ぶりの再会に心を浮き立たせ、お洒落にも余念がない。今日は特別な日なのだから。
ゴシック風にキメたエイミー・スタイルだが、真っ黒にはならないように、白いヘッドドレスとブラウスをあわせている。
袖は薄手のレースで覆われ、繊細な刺繍が月光を思わせる銀糸で織りこまれている。ウエストを引き締めるコルセット風のデザインが、少女らしい華奢な躰をより儚げに際立たせる。スカートは幾重にも重なるフリルがあしらわれ、歩くたびに闇夜の波のように揺れる。裾には黒薔薇のレースが縫いこまれ、夜の庭園を思わせる優雅さを漂わせていた。
髪は、ゆるやかにウェーブをかけて編みこみ、アン手作りのヘッドドレスを飾っている。
耳にはエミリオから贈られたライラックと紫水晶のピアス、胸元には、義母オリヴィアから贈られた黒水晶のペンダントが揺れる。足元には、艶やかな黒革のストラップシューズ。踵に小さな銀の飾りがついており、一歩踏みだすたびに控えめな光を放つ。
鏡の前で全身をチェックしていると、メイドのサアラが呼びにやってきた。
「お嬢様、エミリオ様がお戻りになりましたよ」
「はぁい」
エイミーは明るい返事をして、足取りも軽くリビングルームへと向かった。
陽の入るリビングルームでは、義母と談笑するエミリオの姿があった。柔らかな光が、白銀の髪に薄氷のような輝きを与えている。
振り向いたエミリオと目があった。
涼やかな紫水晶の瞳。白磁の肌は相変わらず陽に灼 けることなく、光をそのまま受けとめるかのように透き通っている。
まるで氷の王子様だ。
衣装は端正な黒のロングジャケット。胸元には銀糸で紋章が刺繍され、立ち襟のデザインが彼の気品を際立たせる。インナーは深い藍色のシャツで、夜空を閉じこめたかのような色合い。首元を飾るのは、細く編みこまれた白金のチェーンと、宝珠のようなアメジストのブローチ。去年、エイミーが贈った誕生日プレゼントだ。身に着けてくれていて嬉しい。
「お帰りなさい、お義兄さま」
裾をつまんでお辞儀すると、微笑がふわりと零れた。
「ただいま、エイミー」
懐かしい声に誘われ、意を決してそっと近づく。
手を伸ばして、エミリオの胸元にそっと身を寄せると、彼の腕が優しく回った。懐かしい体温、穏やかな香り。見あげると、紫の瞳が静かに細められ、エイミーの頭を撫でてくれる。
「誕生日おめでとう」
祝福の言葉と共に、リボンに包まれた小さな箱が差しだされた。開けると、なかに祈祷用の揺り香炉が入っていた。
卵型の聖銀細工に繊細な紋様が刻まれ、内には蜜蝋が仕込まれている。細い鎖がついており、腰にさげられる仕様だ。
「わぁ、素敵!」
胸いっぱいの喜びをこめて包みを抱きしめる。
彼の贈り物はなんだって嬉しいが、この贈りものには心当たりがあった。以前、アンの部屋の暖炉にある揺り香炉が素敵だと、エミリオに話したことがある。その話を覚えていてくれたのだ。疎遠にしていても、ちゃんとエイミーのことを気にかけてくれている。
「ありがとう、すごく嬉しい。大事にするね」
「喜んでもらえて良かった」
エミリオは、少し照れたように笑った。その瞬間、彼の頭上に数字が浮かびあがる。
55%
……最後に見たときは、53%だった。
さがっていない――それどころか、僅かにあがっている。その事実に、エイミーは密かに胸を撫でおろした。しばらく疎遠にしていたから、好感度はだいぶ落ちたのではないかと危惧していたのだ。
来客まで少し時間があるので、深紅の天鵞絨 のソファに並んで腰かけ、互いの近況報告をすることにした。
「お義兄さまって、ちっとも日焼けしないのね。おでかけしないの?」
「そう? 野外活動もしているのだけど」
黄金種 は皆そうだが、エミリオの肌は砂糖菓子のように白い。十一歳にして色香すら漂う美貌で、まるで陽の光すらその肌を灼 くことを躊躇しているかのようだ。
「四月にアンとテンペスティスさんと遊覧船に乗ったのよ。王都をぐるりと巡ってね、優雅で、風が心地よくて、とても楽しかったわ。今度、お義兄さまも一緒にいきましょうよ」
「うん、機会があれば」
エミリオは微笑をたたえて相槌を打つ。その表情からは、彼が何を考えているのか読み取れない。
なんとなく、エミリオはテンペスティスが苦手なのではないかと感じることが多い。ウィスプでもそうだが、テンペスティスの名をだすと反応が悪いのだ。
(話題を変えよう……)
「お義兄さま、最近ずっと忙しそうだけど、大学では今何をしているの?」
エミリオは少し考えこむように視線を落とし、薄く微笑した。
「研究と、実験だよ」
「実験って? どんな?」
「新型の並列化水晶 の解析。冥淵界 との魔力干渉を軽減できるかどうか、実験しているんだ」
エミリオの言葉に、エイミーは目を輝かせた。
「それって、影霊の影響を受けにくくするってこと?」
並列化水晶 は、魔力を媒体とした情報処理技術を利用しているため、高密度の魔力が存在する領域――冥淵界 では外部からの干渉を受けやすい。
その人類未踏の最涯 ての地は、未知の魔力波動を放っており、特に高い魔力伝導率を持つ並列化水晶 はこの影響を受け、様々な弊害をもたらす。視覚障害や精神障害、影霊による並列化水晶 のハッキング――自死に至らしめる恐ろしいものだ。
「そう。父上もだけれど、冥淵界 の最前線に立つ人たちは、並列化水晶 を切っている。影霊に侵される危険があるから。
影霊は、物理的な形を持たずとも 「存在を認識された瞬間」に干渉を開始する性質を持っている。高度な並列化水晶 がこの認識の影響を受けることで、システムの誤作動や侵蝕を引き起こす可能性があるんだ。
つまり、並列化水晶 の魔力伝導率を最適化しつつ、冥淵界 との干渉を絶つ方法を確立できれば、今よりもずっと戦闘は安全で楽なものになる」
「すごいわ、そんなことが実現できるの?」
「理論上は可能だけど、実際の運用となると難しい。並列化水晶 の魔力伝導率を高めると、逆に冥淵界 との共鳴が強くなる可能性があってね。安全性を確保するには、まだまだ調整が必要だよ」
「難しそう……でも、もし成功したら、すごく役立ちそうね」
冥淵界 との戦いを指揮する、冥淵総帥 である義父の助けにもなるだろう。一月前から義父は前線に出向いており、今日この場にはいない。
「そうだね。まだ基礎研究の段階だけど、いずれは実用化できるようにしたい」
エミリオはさらりといったが、その肩にかかる責任の重さは容易に想像がつく。まだ十一歳なのに、大人たちの間で並列化水晶 産業の最前線を走っているのだ。
「応援してる……けど、あまり無理しないでね」
深淵光 に触れ続けると、罰則 が発生する。影霊に侵される危険があるのだ。研究者であるエミリオも例外ではない。
「大丈夫。僕は研究が好きだから、楽しいよ」
そういって微笑むエミリオの横顔は、どこか遠くにいるようで、手を伸ばしても届かない気がした。
その距離感が少しだけ寂しくて、エイミーは握った手をそっと開く。
「じゃあ……たまには気晴らしも必要よね。今度、一緒にどこか行かない?」
「うん、機会があれば」
またその言葉。
でも、エイミーはそれ以上追及しなかった。エミリオが「機会があれば」と言う時、それはほぼ確実に来ないということを、もう知っていたから。
「そういえばお義兄さま、来月上場するアストラ・テクノロジーはチェックしている?」
気を取り直すように、エイミーは訊ねた。
アストラ・テクノロジーは、並列化水晶 のセキュリティ技術におけるシェア三位の会社だ。並列化水晶 と冥淵界 の干渉を研究をしているエミリオなら、当然知っているだろう。
「僕は買う予定はないけど、エイミーは?」
「迷っているの。長期保有には向かないっていう否定的な意見も多くて」
そう答えると、菫色の瞳に一瞬、思索の色が宿る。
「並列化水晶 業界は競争が熾烈だからね。でも、需要はある。未来技術の分野は短期的な波が激しいけど、適切な企業は確実に成長するよ」
「うん、そうよね」
「もし短期で動かすなら、上場直後の急騰を狙って売り抜けるのが定石だ。だが、安定した成長を狙うなら、落ち着いた時期に買うのが賢明だろうね」
「買うなら長期保有するつもり。慌てる要素はないもの、じっくり育てるわ」
「合理的な判断だね」
エミリオがふっと微笑する。その表情は、ほんの少しだけ柔らかい。
やはり、こういう話なら自然に会話が弾む。
知的な対話、論理と推測の応酬。それが彼との距離を縮める唯一の糸口のような気がして、エイミーはその瞬間だけ、ほんの少し満たされた気持ちになる。本当は、もっと一緒に遊べたら良いのだけれど。
「そこの仲良しさん、そろそろ時間よ。お客様をお出迎えしないと」
義母オリヴィアの朗らかな声が響き、ふたりともはっとした。つい話しこんでしまっていた。
「お義兄さま、今回はどれくらい滞在できるの?」
「明日帰るよ」
「そう……」
エイミーは僅かに瞳を伏せた。せっかく久しぶりに会えたのに。エミリオと過ごせる時間は、いつだって有限だ。
気落ちした様子を察したのか、エミリオはふっと息をつき、そっと手を伸ばした。
ひんやりとした指がエイミーの髪に触れ、軽くぽんぽんと撫でる。
「夜にまた話そう」
「うん」
エイミーは寂しさを押し隠し、笑顔を取り繕った。
*
午後になると、大勢の来客が訪れ、大広間は祝福の言葉と華やかな談笑に包まれた。
「お誕生日おめでとう」
「まあ、ずいぶん淑やかになられて」
「こんなにお美しくなられるとは」
次々と注がれる祝福の声に、エイミーの気持ちも次第にほぐれていく。
社交の場で何気なく周囲の男性たちの頭上をチェックしてみるが、やはり数字が顕れる者はいない。
今のところ、数字が見えたのは エミリオとテンペスティスだけ――それが何を意味するのか、エイミー自身にも判らなかった。
やがて、ホールに優雅な旋律が流れ始める。響く音色に誘われ、人々がゆったりと舞踏の輪を作っていく。
少し離れた場所で社交していたエミリオが、ふとエイミーの方へと歩み寄ってきた。そして、目の前に立つと、ゆるやかに手を差しのべる。
「踊らない?」
「ええ」
エイミーはほほえんだ。そっと手を重ねると、指先から伝わる体温に、ほんの少しだけ胸が高鳴った。
ホールの中央へ歩いていくと、あちこちから「お誕生日おめでとう」と言祝がれる。優しい祝福の言葉を浴びて、エイミーは幸せな気分になった。
曲が明るく、軽やかに転調する。
エイミーの好きな曲だ。
エミリオの手が腰に添えられ、導かれるままに足を踏みだす。リズムにあわせて床を踏み鳴らすと、周囲の人々が手拍子で応じた。
(楽しい。お義兄さまも笑ってる)
――まるで、月光が水面に揺らぐように儚く、美しい笑みで――
見惚れてしまう。
あっと思った瞬間、足がもつれた。
刹那、エミリオがすばやくエイミーの腰を引き寄せる。しっかりと、迷いなく、まるで最初からそうすることが決まっていたかのような自然な動きだった。
エイミーは彼の胸元に支えられたまま、息を呑んだ。
「ごめんなさい」
少し速い互いの鼓動を感じながら詫びると、エミリオはにこっと笑った。白皙の頬が、ほんのり薔薇色がかっている。
「もう一曲踊る?」
誘う声は穏やかで、どこか甘さを含んでいた。
「うん!」
エイミーは笑顔で即答した。
続けて誘われたのは、初めてだった。
音楽が再び転調し、ホールの人々は手を取りあい、優雅な輪を作る。流れるように、軽やかに、次々と舞踏が繰り広げられていく。
その流れに乗るように、エミリオとエイミーも再びステップを踏みだした。
彼の手は優しく、けれど確かな強さをもってエイミーを導く。足元を揃え、視線を交わし、リズムに身を委ねる。
まるで、言葉よりも深く、呼吸をあわせるように。
音楽とともに、ふたりの動きは調和し、絡みあい、まるでひとつの旋律になったかのように、滑らかに舞う。
歓声と笑い声、燦めくシャンデリアの灯り、旋律が降り注ぐなかで、エイミーは、ふと気づいた。
エミリオの瞳が、いつもより優しく見えることに。
温かな紫の光が、静かに彼女を映していることに。
舞踏の輪のなか、ふたりの世界はゆるやかに回り続ける。
心地よい浮遊感のなかで、エイミーは思う。
――きっと、自分はこの瞬間を忘れないだろう。
初めて続けて踊った誕生日のことを。彼の手の温もりと眼差し、しっかり抱きとめられた腕の強さを。
ほんのひとときのこと。短くも甘い時間を、この先も長く記憶していくのだろう――そんな予感がした。
陽は
八月一日。エイミーの九歳の誕生日。
この日は重たげな雲が空を覆い、陽光は霞んでいた。あいにくの曇天だが、気分は晴れやかだった。
なぜなら、今日は久方ぶりにエミリオが帰ってくるのだ。
この数ヶ月、彼はシルヴァニール邸にちっとも戻らなかった。
多忙な身だから仕方ない……と理解しているものの、四月にアンの屋敷を訪れて以来、どこか疎遠になった気がしていた。外出に誘っても応じず、ウィスプや手紙でも端的な返答ばかり――まるでエイミーの存在が、彼の日常の隅へと押しやられているようだった。
一方で、テンペスティスとは何度か会う機会があった。
アンの誕生日祝いで四月に王都へ出かけたり、先月、アンの屋敷に泊まった際も邂逅している。
彼の好感度は安定して高く、最後に目にしたときは79%だった。数字を確認せずとも、柔和な視線や気遣いに満ちた仕草がそれを物語っている。もしエイミーの精神年齢が相応だったなら、恋に落ちていたかもしれない――そんな淡い想像がよぎる。
だが、エミリオの53%という数値を思うと、胸の奥が少し痛んだ。
以前は比較対象がいなかったから気にならなかったが、こうして数値を並べると、彼の好感度の低さが際立つ。恐らく、エミリオにとって53%など「多少興味はあるが、特別ではない」程度なのだろう。数ヶ月、顔をあわせなくても平気なくらいだ。
――エイミーは、寂しかったのに。
それでも、久方ぶりの再会に心を浮き立たせ、お洒落にも余念がない。今日は特別な日なのだから。
ゴシック風にキメたエイミー・スタイルだが、真っ黒にはならないように、白いヘッドドレスとブラウスをあわせている。
袖は薄手のレースで覆われ、繊細な刺繍が月光を思わせる銀糸で織りこまれている。ウエストを引き締めるコルセット風のデザインが、少女らしい華奢な躰をより儚げに際立たせる。スカートは幾重にも重なるフリルがあしらわれ、歩くたびに闇夜の波のように揺れる。裾には黒薔薇のレースが縫いこまれ、夜の庭園を思わせる優雅さを漂わせていた。
髪は、ゆるやかにウェーブをかけて編みこみ、アン手作りのヘッドドレスを飾っている。
耳にはエミリオから贈られたライラックと紫水晶のピアス、胸元には、義母オリヴィアから贈られた黒水晶のペンダントが揺れる。足元には、艶やかな黒革のストラップシューズ。踵に小さな銀の飾りがついており、一歩踏みだすたびに控えめな光を放つ。
鏡の前で全身をチェックしていると、メイドのサアラが呼びにやってきた。
「お嬢様、エミリオ様がお戻りになりましたよ」
「はぁい」
エイミーは明るい返事をして、足取りも軽くリビングルームへと向かった。
陽の入るリビングルームでは、義母と談笑するエミリオの姿があった。柔らかな光が、白銀の髪に薄氷のような輝きを与えている。
振り向いたエミリオと目があった。
涼やかな紫水晶の瞳。白磁の肌は相変わらず陽に
まるで氷の王子様だ。
衣装は端正な黒のロングジャケット。胸元には銀糸で紋章が刺繍され、立ち襟のデザインが彼の気品を際立たせる。インナーは深い藍色のシャツで、夜空を閉じこめたかのような色合い。首元を飾るのは、細く編みこまれた白金のチェーンと、宝珠のようなアメジストのブローチ。去年、エイミーが贈った誕生日プレゼントだ。身に着けてくれていて嬉しい。
「お帰りなさい、お義兄さま」
裾をつまんでお辞儀すると、微笑がふわりと零れた。
「ただいま、エイミー」
懐かしい声に誘われ、意を決してそっと近づく。
手を伸ばして、エミリオの胸元にそっと身を寄せると、彼の腕が優しく回った。懐かしい体温、穏やかな香り。見あげると、紫の瞳が静かに細められ、エイミーの頭を撫でてくれる。
「誕生日おめでとう」
祝福の言葉と共に、リボンに包まれた小さな箱が差しだされた。開けると、なかに祈祷用の揺り香炉が入っていた。
卵型の聖銀細工に繊細な紋様が刻まれ、内には蜜蝋が仕込まれている。細い鎖がついており、腰にさげられる仕様だ。
「わぁ、素敵!」
胸いっぱいの喜びをこめて包みを抱きしめる。
彼の贈り物はなんだって嬉しいが、この贈りものには心当たりがあった。以前、アンの部屋の暖炉にある揺り香炉が素敵だと、エミリオに話したことがある。その話を覚えていてくれたのだ。疎遠にしていても、ちゃんとエイミーのことを気にかけてくれている。
「ありがとう、すごく嬉しい。大事にするね」
「喜んでもらえて良かった」
エミリオは、少し照れたように笑った。その瞬間、彼の頭上に数字が浮かびあがる。
55%
……最後に見たときは、53%だった。
さがっていない――それどころか、僅かにあがっている。その事実に、エイミーは密かに胸を撫でおろした。しばらく疎遠にしていたから、好感度はだいぶ落ちたのではないかと危惧していたのだ。
来客まで少し時間があるので、深紅の
「お義兄さまって、ちっとも日焼けしないのね。おでかけしないの?」
「そう? 野外活動もしているのだけど」
「四月にアンとテンペスティスさんと遊覧船に乗ったのよ。王都をぐるりと巡ってね、優雅で、風が心地よくて、とても楽しかったわ。今度、お義兄さまも一緒にいきましょうよ」
「うん、機会があれば」
エミリオは微笑をたたえて相槌を打つ。その表情からは、彼が何を考えているのか読み取れない。
なんとなく、エミリオはテンペスティスが苦手なのではないかと感じることが多い。ウィスプでもそうだが、テンペスティスの名をだすと反応が悪いのだ。
(話題を変えよう……)
「お義兄さま、最近ずっと忙しそうだけど、大学では今何をしているの?」
エミリオは少し考えこむように視線を落とし、薄く微笑した。
「研究と、実験だよ」
「実験って? どんな?」
「新型の
エミリオの言葉に、エイミーは目を輝かせた。
「それって、影霊の影響を受けにくくするってこと?」
その人類未踏の最
「そう。父上もだけれど、
影霊は、物理的な形を持たずとも 「存在を認識された瞬間」に干渉を開始する性質を持っている。高度な
つまり、
「すごいわ、そんなことが実現できるの?」
「理論上は可能だけど、実際の運用となると難しい。
「難しそう……でも、もし成功したら、すごく役立ちそうね」
「そうだね。まだ基礎研究の段階だけど、いずれは実用化できるようにしたい」
エミリオはさらりといったが、その肩にかかる責任の重さは容易に想像がつく。まだ十一歳なのに、大人たちの間で
「応援してる……けど、あまり無理しないでね」
「大丈夫。僕は研究が好きだから、楽しいよ」
そういって微笑むエミリオの横顔は、どこか遠くにいるようで、手を伸ばしても届かない気がした。
その距離感が少しだけ寂しくて、エイミーは握った手をそっと開く。
「じゃあ……たまには気晴らしも必要よね。今度、一緒にどこか行かない?」
「うん、機会があれば」
またその言葉。
でも、エイミーはそれ以上追及しなかった。エミリオが「機会があれば」と言う時、それはほぼ確実に来ないということを、もう知っていたから。
「そういえばお義兄さま、来月上場するアストラ・テクノロジーはチェックしている?」
気を取り直すように、エイミーは訊ねた。
アストラ・テクノロジーは、
「僕は買う予定はないけど、エイミーは?」
「迷っているの。長期保有には向かないっていう否定的な意見も多くて」
そう答えると、菫色の瞳に一瞬、思索の色が宿る。
「
「うん、そうよね」
「もし短期で動かすなら、上場直後の急騰を狙って売り抜けるのが定石だ。だが、安定した成長を狙うなら、落ち着いた時期に買うのが賢明だろうね」
「買うなら長期保有するつもり。慌てる要素はないもの、じっくり育てるわ」
「合理的な判断だね」
エミリオがふっと微笑する。その表情は、ほんの少しだけ柔らかい。
やはり、こういう話なら自然に会話が弾む。
知的な対話、論理と推測の応酬。それが彼との距離を縮める唯一の糸口のような気がして、エイミーはその瞬間だけ、ほんの少し満たされた気持ちになる。本当は、もっと一緒に遊べたら良いのだけれど。
「そこの仲良しさん、そろそろ時間よ。お客様をお出迎えしないと」
義母オリヴィアの朗らかな声が響き、ふたりともはっとした。つい話しこんでしまっていた。
「お義兄さま、今回はどれくらい滞在できるの?」
「明日帰るよ」
「そう……」
エイミーは僅かに瞳を伏せた。せっかく久しぶりに会えたのに。エミリオと過ごせる時間は、いつだって有限だ。
気落ちした様子を察したのか、エミリオはふっと息をつき、そっと手を伸ばした。
ひんやりとした指がエイミーの髪に触れ、軽くぽんぽんと撫でる。
「夜にまた話そう」
「うん」
エイミーは寂しさを押し隠し、笑顔を取り繕った。
*
午後になると、大勢の来客が訪れ、大広間は祝福の言葉と華やかな談笑に包まれた。
「お誕生日おめでとう」
「まあ、ずいぶん淑やかになられて」
「こんなにお美しくなられるとは」
次々と注がれる祝福の声に、エイミーの気持ちも次第にほぐれていく。
社交の場で何気なく周囲の男性たちの頭上をチェックしてみるが、やはり数字が顕れる者はいない。
今のところ、数字が見えたのは エミリオとテンペスティスだけ――それが何を意味するのか、エイミー自身にも判らなかった。
やがて、ホールに優雅な旋律が流れ始める。響く音色に誘われ、人々がゆったりと舞踏の輪を作っていく。
少し離れた場所で社交していたエミリオが、ふとエイミーの方へと歩み寄ってきた。そして、目の前に立つと、ゆるやかに手を差しのべる。
「踊らない?」
「ええ」
エイミーはほほえんだ。そっと手を重ねると、指先から伝わる体温に、ほんの少しだけ胸が高鳴った。
ホールの中央へ歩いていくと、あちこちから「お誕生日おめでとう」と言祝がれる。優しい祝福の言葉を浴びて、エイミーは幸せな気分になった。
曲が明るく、軽やかに転調する。
エイミーの好きな曲だ。
エミリオの手が腰に添えられ、導かれるままに足を踏みだす。リズムにあわせて床を踏み鳴らすと、周囲の人々が手拍子で応じた。
(楽しい。お義兄さまも笑ってる)
――まるで、月光が水面に揺らぐように儚く、美しい笑みで――
見惚れてしまう。
あっと思った瞬間、足がもつれた。
刹那、エミリオがすばやくエイミーの腰を引き寄せる。しっかりと、迷いなく、まるで最初からそうすることが決まっていたかのような自然な動きだった。
エイミーは彼の胸元に支えられたまま、息を呑んだ。
「ごめんなさい」
少し速い互いの鼓動を感じながら詫びると、エミリオはにこっと笑った。白皙の頬が、ほんのり薔薇色がかっている。
「もう一曲踊る?」
誘う声は穏やかで、どこか甘さを含んでいた。
「うん!」
エイミーは笑顔で即答した。
続けて誘われたのは、初めてだった。
音楽が再び転調し、ホールの人々は手を取りあい、優雅な輪を作る。流れるように、軽やかに、次々と舞踏が繰り広げられていく。
その流れに乗るように、エミリオとエイミーも再びステップを踏みだした。
彼の手は優しく、けれど確かな強さをもってエイミーを導く。足元を揃え、視線を交わし、リズムに身を委ねる。
まるで、言葉よりも深く、呼吸をあわせるように。
音楽とともに、ふたりの動きは調和し、絡みあい、まるでひとつの旋律になったかのように、滑らかに舞う。
歓声と笑い声、燦めくシャンデリアの灯り、旋律が降り注ぐなかで、エイミーは、ふと気づいた。
エミリオの瞳が、いつもより優しく見えることに。
温かな紫の光が、静かに彼女を映していることに。
舞踏の輪のなか、ふたりの世界はゆるやかに回り続ける。
心地よい浮遊感のなかで、エイミーは思う。
――きっと、自分はこの瞬間を忘れないだろう。
初めて続けて踊った誕生日のことを。彼の手の温もりと眼差し、しっかり抱きとめられた腕の強さを。
ほんのひとときのこと。短くも甘い時間を、この先も長く記憶していくのだろう――そんな予感がした。