3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

3章:だけじゃなかった - 5 -

 その夜、遠雷が鳴り響いていた。
 重たげな雲から降り注ぐ大粒の雨粒が、公爵邸の屋根を叩く。耳を弄する雷鳴は少しづつ近づいてきて、パッと稲光がはしる。刹那、窓硝子に映る淡い影──揺らめく光の幻が、すぐに闇へと溶け消えた。
 夜更け。
 エイミーは枕を抱え、緋色の絨毯を踏みしめながら静かに歩いていた。迷いの色を孕んだ茶色の瞳は、灯りの落ちた扉の前で揺れる。
 エミリオの部屋の前に佇み、深呼吸をひとつ。鼓動が早鐘のように波打ち、指先の温度がじんわりとあがる。意を決して、ノックした。
 沈黙。
 ややして、扉はゆるやかに開いた。
 寝室着にカーディガンを羽織ったエミリオは、エイミーを見て驚いたように目を瞠った。
 それから、彼の視線が、エイミーの腕に抱かれた枕へと移った。
「……エイミー?」
 不意をつかれた声音。
 エイミーは怯みかけたが、胸の奥で震える気持ちを奮い立たせ、緊張を誤魔化すように、枕をぎゅっと抱きしめた。
「お義兄さま……一緒に寝ても、いい?」
 一瞬の沈黙。
「えっ?」
 珍しくエミリオが狼狽えた。
「明日、帰っちゃうんでしょ?」
 エイミーは、縋るように言葉を紡いだ。
「せめて今夜は一緒にいたいなって……」
 エミリオは眉をひそめ、戸惑いの色を浮かべる。
「……いや、女の子がひとりで夜に男の部屋を訪ねるものじゃないよ」
「家族だからいいの」
「家族といっても――」
「夜にまた話そうって、いったでしょ?」
 エイミーは遮るようにいった。
 雨音が静かに降り積もる廊下で、懇願するように、枕を抱きしめる手に力をこめた。
「なら、談話室にいく?」
 首を振る。
「お義兄さまの部屋がいい」
 エミリオは何かいおうとして、止めた。
 エイミーには、彼が告げようとしたことが何となく察せられた。けれど、気づかぬふりをした。
「……お義兄さま、明日にはもう帰っちゃうんでしょ?」
 エミリオが答えないので、エイミーは視線を落として、
「今夜は、一緒にいようよ……」
 しんとした廊下に、雨音が深まる。
 静寂のなか、エミリオのため息がやけにくっきりと聞こえた。
「……判ったよ」
 扉が大きく開かれ、エイミーは顔をあげた。紫水晶の瞳と視線が交差する。
(入れてくれた)
 エイミーの胸が、激しく高鳴る。
 一歩、また一歩。足を踏み入れるたび、肌をなぞる空気が変わる気がした。
 初めて入る、エミリオの部屋。
 飴色と群青を基調にした静謐な空間。窓辺には、天蓋つきの重厚な寝台が配置され、繊細な彫り細工が施された書斎机と、黒革張りの椅子が並ぶ。アルコーブの本棚にはぎっしりと書物が詰まり、その傍らには群青色のソファが静かに佇んでいた。
 壁紙は清潔な白。その一方で、黒大理石に囲まれた暖炉の周囲には、灰銀の縞模様が走る。
 大きな窓は、厚みのある群青の遮光カーテンによって閉ざされていた。
 ──静謐と気品。
 ここは、エミリオそのものを映した部屋だ。
 柔らかな灯が揺らぎ、書棚に並ぶ整然とした本の背が、落ち着いた影を落としている。
 空気には、仄かに焚きしめられた香の気配。静かに包みこむような、穏やかな香りだった。
 書斎机は綺麗に片づけられており、その傍らに置かれたトランクは、すでに荷造りを終えた様子を見せていた。
 ──もう、明日には帰ってしまうのだ。
 その事実が、胸の奥にかすかな寂しさを落とす。
 エイミーは寝台に膝をつき、ブランケットのなかへと滑りこんだ。
 シーツはひんやりとして心地よく、清涼な石鹸とハーブの香りがほのかに漂う。安らぎに包まれながら、エイミーは幸せそうに息をついた。
「いい匂い」
 満足げに呟きながら、ブランケットから両手をだす。
 ふと隣を見ると、エミリオはまだ戸惑ったように立ち尽くしていた。
 眉をひそめ、どこか居心地悪そうに視線を泳がせている。
 どうやら、気恥ずかしを覚えているらしい義兄に向かって、エイミーは緊張をほぐすように笑みかけた。
「お義兄さま、私たちまだ子供なの。一緒に眠るくらい、日常茶飯よ」
「……そうかなぁ」
「アンの家に泊まったときは、一緒に寝たわよ」
「それは女の子同士だからだろ」
 そういいながらも、エミリオは小さく息をつき、観念したように寝台へと膝をついた。
 ブランケットをめくり、エイミーと適度な距離を保ったまま、背を向けて横になる。
「……そんな端っこにいかなくても……寝づらくない?」
「平気……というか、落ち着かない」
「お義兄さまがめったに帰ってこないから、落ち着かないのよ」
 少し拗ねたように文句をいうと、エミリオはわずかに身じろぎ、こちらを向いた。薄闇のなかで、菫色の瞳が仄かに輝いて見える。
「そうじゃない。確かに僕たちはまだ子供だけど……もう、添い寝するほど子供でもないだろう」
 エイミーは気まずくなって、視線を泳がせた。
「……判ってる。今夜で最後よ。来年はもう十歳になるから、さすがに一緒に眠れないよね」
「今だって微妙だと思うけど……誰かと眠るのは、幼少時以来だ」
「お義兄さま、クッションとかぬいぐるみは置かないの?」
「寝台に? 置かないけど。なんで?」
「私は筒のクッションとか、ぬいぐるみを抱き枕にしてるの。気持ちいいよ」
 エミリオはふっと笑った。
「赤ちゃんみたいだな」
「赤ちゃんじゃない。抱き枕なんて普通だから、愛用している人は多いと思う」
 ちょっとムキになって応えるエイミーを、エミリオはにやにやしながら見ている。心外ではあるが、どうやら緊張は解けたようだ。
 ──その時。
 ぱっと窓の外が閃光に包まれた。
 一拍の沈黙。次の瞬間、バリバリバリ! 耳をろうする雷鳴が轟いた。
「きゃっ……!」
 思わず小さく悲鳴をあげ、エイミーはとっさにエミリオの方へ身を寄せた。
「エイミー?」
 エミリオは上体を起こし、エイミーの顔を覗きこんだ。
「怖いなら、緞帳を閉めようか?」
 エミリオは優しく背中をぽんぽんと撫でてくれる。エイミーは首を振った。寝台を飛び降りて、窓辺に近寄る。カーテンを少しめくって、空を見あげた。
「大きい音は苦手だけど、雷は好きなの。安全な場所から鑑賞するときに限るけどね」
「怖くないんだ?」
「怖くない。綺麗だわ」
 稲妻が天空を裂く。雷光の尾が闇をはしり、刹那、世界は白銀の輝きに染まった。
 エミリオも窓際へ歩み寄り、目を細める。
「判る。まるで光の交響曲みたいだよね」
「そう!」
 エイミーは嬉しくなって、エミリオに笑みかけた。
「カーテン、開けててもいい?」
「いいけど……眠れなくなるんじゃない?」
「いいの、お喋りしようよ」
 そういいながら、エイミーは再び寝台に潜りこむと、頬杖をついてエミリオを見あげた。
「喋りたいなら、横になる必要ある? 談話室にいけばいいんじゃないか?」
「違うのよ、寝台のうえだから楽しいのよ。いつでも眠れるし……アンとも夜中までずっと喋ってね、どっちが先に寝るか競争したりしたわ」
「……僕の負けでいいよ」
 エミリオはため息交じりに肩をすくめ、寝台に身を横たえた。その横顔は、稲妻が窓の外を裂くたびに白く照らしだされる。
「そんなのつまらない!」
 エイミーは不服げにぺしぺしと背中を叩く。エミリオの肩がくすぐったそうに揺れ、彼はくすくすと笑った。
 カッ──と空が光る。
 雷が縦横無尽にはしり、稲妻が夜空を引き裂き、白光が室内に影を投げる。一拍して、バリバリバリ! と重低音が大地を震わせた。
 建物全体がかすかに揺れた気がした。
 ゼラフォンダヤ公爵邸は堅牢な石造りだが、それでも雷の轟きは壁を伝い、床を這うように響く。分厚い二重窓も嵐の怒号を遮ることはできない。
「……お義父さまは、大丈夫かしら」
 ぽつりと呟くと、エミリオがゆっくりとこちらを向いた。
「父上なら心配ないよ。どのような魑魅が襲ってこようが、蹴散らせる」
 その言葉には、揺るぎない確信があった。
 時折閃く雷光を受けて、銀糸の髪がきらきらと霜のように煌めく。菫色の瞳は、その瞬間ごとに銀色へと変わり、星のように揺らめいた。
「そうよね……」
 エイミーは窓の向こう、漆黒の空へと目を向ける。
 公爵は今、大陸の沿岸から数十キロ沖合、海上の要塞たる蒼の塔アズール・スパイアに出張している。
 群青の波濤はとうを切り裂くようにそびえ立つ巨大な浮遊拠点であり、魔導科学と軍事技術が極限まで融合した、国立の冥淵界クォンタム・ヘル研究施設である。
 一月前、その施設で新たな並列化水晶バベルの試験運用中に大規模な罰則ペナルティが発生し、影霊の集合体――――冥災めいさいへと変貌した。
 冥災めいさいは“かたち”をもつ。
 おぼろな影霊とは違い、意思を持ち、より獰猛に、より執拗に、生者を喰らおうとする。
 一介の祓魔士では手に負えないため、冥淵総帥めいえんそうすいであるゼラフォンダヤ公爵が動く必要があった。
 彼が出張して、もうひと月が経つ。
 前線では並列化水晶バベルを切っているので、すぐに連絡を取ることもできない。
 無事に帰ってくると信じている。それでも、冥淵界クォンタム・ヘルに接する仕事の危険性を知っているだけに、一抹の不安はある。
 義父は不在で、エミリオも明日には学院へ戻ってしまう……
 独り取り残されるような、かすかな寂寥をぬぐえない。
 寂しさが顔にでていたのか、エミリオは世間話のように、最近取り組んでいる研究について、話し始めた。
「──冥淵界クォンタム・ヘルの干渉を絶つ手段として、過去の記憶を投影する案を検討しているんだ。影霊に対するカモフラージュだね。主体意識とは無関係な疑似意識に、影霊をおびき寄せることができれば、並列化水晶バベルを侵蝕される懸念はなくなるかもしれない。今はまだ試験段階だけど、過去の記憶を……」
 穏やかで落ち着いた声が、流れる雨音と溶けあう。
 エイミーは相槌を打ちながら聞いていたが、次第にまぶたが重くなり、言葉の端々が霞んでいく。思考がぼんやりと滲み、いつしか言葉も途切れた。
 ふっと沈黙が落ちる。
 すると、今度は雨音が際立って聞こえた。天蓋を打つ雨の囁き、邸の広大な回廊を濡らす雨滴、庭の噴水を叩く音──それらすべてが、夜の静寂を深く覆っていく。
 風が唸り、邸の重厚な窓を叩いた。だが、寝台のなかは穏やかだった。
 寄り添うように、二人は眠りに落ちていく。
 まるで、同じ夢を見るかのように──


 翌朝。エミリオが先に目覚めた。
 昨夜はカーテンを開けたまま眠ったせいで、うすづく淡い朝陽が寝台の足元に降り注いでいる。琥珀色の光が白い毛織絨毯に散り、まるで流れる金砂のように煌めいていた。
 静かに上体を起こし、隣を見やる。
 エイミーは、まだ眠っていた。掌を枕にして、すやすやと規則正しい呼吸を繰り返している。あまりにも穏やかに、夢のなかに沈んでいた。
 そばかすの散る顔は、お世辞にも美人とはいえない。それでも、こうして眺めていても少しも飽きないのは、なぜなのか。
 小さなくちびる。少しだけ開かれたその形が、妙に気になった。
 ――触れたい、と思った。
 その衝動に、自分で驚く。あまりに気まずくて、慌てて視線を逸らしてしまう。
 枕のうえに、アッシュブラウンの髪が波打っている。目を瞠るほど豊かで、つい、手を伸ばしてしまった。
 ひんやりとして、驚くほど、柔らかかった。滑らかで、繊細な絹糸のように指をすり抜けていく。
 無防備に眠る少女を見つめながら、触れてしまった罪悪感と、何か清冽な、甘美といっていいような感覚が胸に宿る。
 どこか小鹿のような頼りなさ、いとおしさを感じさせる……二年前なら、決して抱かなかった感情だ。
 彼女は変わった。あの、かつての傲慢で狡猾な問題児は、今や、慎ましく、愛らしく、時折妙に大人びて見える。
(――距離を間違えてはいけない気がする)
 自分はもう、何も知らない少年ではない。精通も割礼も済ませた。年の割に大人びて見えるエイミーも、自分に比べたらまだまだ純真無垢だ。
(いや、自分だって――)
 湖でエイミーの頬にキスをしたときは、純真な気持ちでそうした。ただ、嬉しくて、感謝の気持ちを伝えたくて。
 なのに、今は――
 同じ寝台にいることに、後ろめたさを感じめてしまう。
 もう少し経てば、彼女も分別を身に着け、エミリオとは一定の距離を置くようになるはずだ。そうなるまで、離れていた方がいいのかもしれない……
 慕ってくれるのは、嬉しい。けれど、一緒に眠ることに疚しさを覚える自分は、恐らく、何かが間違っているのだ。


 エイミーが目を覚ました時、昨夜の嵐は嘘のように静まり、小鳥の囀りが聴こえていた。
 窓から射しこむ朝の光が、仄白く床に落ちる。その淡い輝きのなか、エミリオは一分の隙もない姿で佇んでいた。
 白銀の髪がさらりと揺れ、淡い朝陽を浴びて霜のように煌めく。まるで繊細な絹糸を束ねたようなその髪は、仄かに銀の燐光を帯びる。
 身に纏うのは、漆黒のジャケットとスラックス。光沢のある白いドレスシャツがよく映えている。襟もとには、ゼラフォンダヤ公爵家の家紋を刻んだ白金のタイピンと、学院の紋章が光っている。
 端正なシルエットは完璧すぎて、冷たく研ぎ澄まされた氷の彫像みたいだ。
「お早う、エイミー」
 優しく、穏やかな声音。昨夜と変わらないはずなのに、どこか遠く感じる。
「お早う、お義兄さま……」
 ぼんやりと瞬きをしながら、小さく返す。
 その時、軽やかなノックの音が響いた。
 エミリオが「どうぞ」と応じると、開いた扉の向こうにエイミーの部屋つきメイド、サアラが立っていた。
「お早うございます、エミリオ様。お嬢様、お迎えにあがりました」
「お早う、サアラ」
 エイミーは寝台から降りると、名残惜しげにエミリオを仰ぎ見た。
「僕が呼んだんだ。仕度をしておいで」
 その言葉は、穏やかでありながら、どこか決定的な線引きを含んでいる気がした。
「……はい」
 ああ、もう朝がきてしまった。
 判っていたことなのに、胸の奥にぽっかりとした穴が開く。
 ──夜の魔法は、朝が来ると解けてしまうのか。
 昨夜、並んで眠った温もりは、たった数時間でどこかへ消えてしまった気がした。

 朝食の席は、静かだった。
 食卓には香ばしい胡桃パンと温かなスープ、瑞々しいフルーツが並び、銀のカトラリーが淡い朝陽を受けて光を散らしていた。
 しかし、食卓を囲む二人の間には、目に見えぬ距離が横たわっていた。
 無言というわけではない。
 けれど、交わす言葉はどこか上滑りしていて、昨夜のような親密さは微塵もなかった。
 ──昨夜は、隣で眠っていたのに。
 今は遠い。
 違和感を覚えながらも、その正体を掴むことはできなかった。
 どうしようもないまま、時は刻々と過ぎ、ついに別れの刻が訪れる。

 外へでると、霧が、全世界を乳白色に覆い隠していた。
 一寸先すら見えぬほどの濃霧。石畳も、並木道も、まるで白の絵筆で塗りつぶされたように霞んでいる。正面玄関に停まる馬車の輪郭すら、ぼんやりと霧に溶けていた。
 これほどの悪天候では、生きた馬は使えない。
 馬車を牽くのは、深淵光アビサル・フレアを動力とする人工馬だった。かすかな燐光を纏い、濃霧のなかで蹄を鳴らすそれは、生きた馬よりも無機質で、けれど神秘的な美しさを持っていた。
 義母に挨拶をすませたエミリオが、ようやくこちらを見た。
 エイミーは一歩前に出て、そっと手を伸ばす。
 エミリオは、ためらうことなくハグを受け入れてくれた。
 柔らかな抱擁に、胸がじんと暖かくなる。彼の腕は、少しだけ力をこめて、優しく抱き返してくれた。
「エイミー、元気で。いい子にしていてね」
 耳元で囁かれる声が、胸に染み入る。
「はい。お義兄さまも、どうかお元気で。お体に気をつけて」
 精一杯の笑顔を向けたつもりだった。
 でも、寂しい。いつもの別れ際の言葉が妙に胸にこたえて、涙が滲みそうになった。
「ありがとう、着いたら連絡するよ」
「はい……」
 エミリオは最後に、エイミーのツインテールを優しく撫でた。
 ──その手が離れる。
 背を向けたエミリオは、霧のなかに溶けこんだ。
(次に会えるのは、いつだろう……)
 今日が濃霧で良かった。
 泣いていたって、誰にも気づかれない。
 歩道の左右に並ぶ使用人たちは、角燈を掲げて馬車に道を示していた。
 無幻の白い世界。
 角燈の明かりだけがぼうっと浮かび、まるで蛍の群れのようにかすかに揺れている。
 動きだした馬車は、 たちまち霧のなかに溶け消えた。
 ──ガラガラガラ……
 車輪の音が響く。
 蹄が石畳を叩く。
 人工馬の嘶きが、低く早朝の霧のなかへと吸いこまれていく。
 やがて、それすらも聞こえなくなった。
 義兄はそうして、世界に冠たる魔導の心臓、グラスヴァーダム魔法学院へと戻っていった。