3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで
3章:だけじゃなかった - 5 -
その夜、遠雷が鳴り響いていた。
重たげな雲から降り注ぐ大粒の雨粒が、公爵邸の屋根を叩く。耳を弄する雷鳴は少しづつ近づいてきて、パッと稲光が疾 る。刹那、窓硝子に映る淡い影──揺らめく光の幻が、すぐに闇へと溶け消えた。
夜更け。
エイミーは枕を抱え、緋色の絨毯を踏みしめながら静かに歩いていた。迷いの色を孕んだ茶色の瞳は、灯りの落ちた扉の前で揺れる。
エミリオの部屋の前に佇み、深呼吸をひとつ。鼓動が早鐘のように波打ち、指先の温度がじんわりとあがる。意を決して、ノックした。
沈黙。
ややして、扉はゆるやかに開いた。
寝室着にカーディガンを羽織ったエミリオは、エイミーを見て驚いたように目を瞠った。
それから、彼の視線が、エイミーの腕に抱かれた枕へと移った。
「……エイミー?」
不意をつかれた声音。
エイミーは怯みかけたが、胸の奥で震える気持ちを奮い立たせ、緊張を誤魔化すように、枕をぎゅっと抱きしめた。
「お義兄さま……一緒に寝ても、いい?」
一瞬の沈黙。
「えっ?」
珍しくエミリオが狼狽えた。
「明日、帰っちゃうんでしょ?」
エイミーは、縋るように言葉を紡いだ。
「せめて今夜は一緒にいたいなって……」
エミリオは眉をひそめ、戸惑いの色を浮かべる。
「……いや、女の子がひとりで夜に男の部屋を訪ねるものじゃないよ」
「家族だからいいの」
「家族といっても――」
「夜にまた話そうって、いったでしょ?」
エイミーは遮るようにいった。
雨音が静かに降り積もる廊下で、懇願するように、枕を抱きしめる手に力をこめた。
「なら、談話室にいく?」
首を振る。
「お義兄さまの部屋がいい」
エミリオは何かいおうとして、止めた。
エイミーには、彼が告げようとしたことが何となく察せられた。けれど、気づかぬふりをした。
「……お義兄さま、明日にはもう帰っちゃうんでしょ?」
エミリオが答えないので、エイミーは視線を落として、
「今夜は、一緒にいようよ……」
しんとした廊下に、雨音が深まる。
静寂のなか、エミリオのため息がやけにくっきりと聞こえた。
「……判ったよ」
扉が大きく開かれ、エイミーは顔をあげた。紫水晶の瞳と視線が交差する。
(入れてくれた)
エイミーの胸が、激しく高鳴る。
一歩、また一歩。足を踏み入れるたび、肌をなぞる空気が変わる気がした。
初めて入る、エミリオの部屋。
飴色と群青を基調にした静謐な空間。窓辺には、天蓋つきの重厚な寝台が配置され、繊細な彫り細工が施された書斎机と、黒革張りの椅子が並ぶ。アルコーブの本棚にはぎっしりと書物が詰まり、その傍らには群青色のソファが静かに佇んでいた。
壁紙は清潔な白。その一方で、黒大理石に囲まれた暖炉の周囲には、灰銀の縞模様が走る。
大きな窓は、厚みのある群青の遮光カーテンによって閉ざされていた。
──静謐と気品。
ここは、エミリオそのものを映した部屋だ。
柔らかな灯が揺らぎ、書棚に並ぶ整然とした本の背が、落ち着いた影を落としている。
空気には、仄かに焚きしめられた香の気配。静かに包みこむような、穏やかな香りだった。
書斎机は綺麗に片づけられており、その傍らに置かれたトランクは、すでに荷造りを終えた様子を見せていた。
──もう、明日には帰ってしまうのだ。
その事実が、胸の奥にかすかな寂しさを落とす。
エイミーは寝台に膝をつき、ブランケットのなかへと滑りこんだ。
シーツはひんやりとして心地よく、清涼な石鹸とハーブの香りがほのかに漂う。安らぎに包まれながら、エイミーは幸せそうに息をついた。
「いい匂い」
満足げに呟きながら、ブランケットから両手をだす。
ふと隣を見ると、エミリオはまだ戸惑ったように立ち尽くしていた。
眉をひそめ、どこか居心地悪そうに視線を泳がせている。
どうやら、気恥ずかしを覚えているらしい義兄に向かって、エイミーは緊張をほぐすように笑みかけた。
「お義兄さま、私たちまだ子供なの。一緒に眠るくらい、日常茶飯よ」
「……そうかなぁ」
「アンの家に泊まったときは、一緒に寝たわよ」
「それは女の子同士だからだろ」
そういいながらも、エミリオは小さく息をつき、観念したように寝台へと膝をついた。
ブランケットをめくり、エイミーと適度な距離を保ったまま、背を向けて横になる。
「……そんな端っこにいかなくても……寝づらくない?」
「平気……というか、落ち着かない」
「お義兄さまがめったに帰ってこないから、落ち着かないのよ」
少し拗ねたように文句をいうと、エミリオはわずかに身じろぎ、こちらを向いた。薄闇のなかで、菫色の瞳が仄かに輝いて見える。
「そうじゃない。確かに僕たちはまだ子供だけど……もう、添い寝するほど子供でもないだろう」
エイミーは気まずくなって、視線を泳がせた。
「……判ってる。今夜で最後よ。来年はもう十歳になるから、さすがに一緒に眠れないよね」
「今だって微妙だと思うけど……誰かと眠るのは、幼少時以来だ」
「お義兄さま、クッションとかぬいぐるみは置かないの?」
「寝台に? 置かないけど。なんで?」
「私は筒のクッションとか、ぬいぐるみを抱き枕にしてるの。気持ちいいよ」
エミリオはふっと笑った。
「赤ちゃんみたいだな」
「赤ちゃんじゃない。抱き枕なんて普通だから、愛用している人は多いと思う」
ちょっとムキになって応えるエイミーを、エミリオはにやにやしながら見ている。心外ではあるが、どうやら緊張は解けたようだ。
──その時。
ぱっと窓の外が閃光に包まれた。
一拍の沈黙。次の瞬間、バリバリバリ! 耳を弄 する雷鳴が轟いた。
「きゃっ……!」
思わず小さく悲鳴をあげ、エイミーはとっさにエミリオの方へ身を寄せた。
「エイミー?」
エミリオは上体を起こし、エイミーの顔を覗きこんだ。
「怖いなら、緞帳を閉めようか?」
エミリオは優しく背中をぽんぽんと撫でてくれる。エイミーは首を振った。寝台を飛び降りて、窓辺に近寄る。カーテンを少しめくって、空を見あげた。
「大きい音は苦手だけど、雷は好きなの。安全な場所から鑑賞するときに限るけどね」
「怖くないんだ?」
「怖くない。綺麗だわ」
稲妻が天空を裂く。雷光の尾が闇を疾 り、刹那、世界は白銀の輝きに染まった。
エミリオも窓際へ歩み寄り、目を細める。
「判る。まるで光の交響曲みたいだよね」
「そう!」
エイミーは嬉しくなって、エミリオに笑みかけた。
「カーテン、開けててもいい?」
「いいけど……眠れなくなるんじゃない?」
「いいの、お喋りしようよ」
そういいながら、エイミーは再び寝台に潜りこむと、頬杖をついてエミリオを見あげた。
「喋りたいなら、横になる必要ある? 談話室にいけばいいんじゃないか?」
「違うのよ、寝台のうえだから楽しいのよ。いつでも眠れるし……アンとも夜中までずっと喋ってね、どっちが先に寝るか競争したりしたわ」
「……僕の負けでいいよ」
エミリオはため息交じりに肩をすくめ、寝台に身を横たえた。その横顔は、稲妻が窓の外を裂くたびに白く照らしだされる。
「そんなのつまらない!」
エイミーは不服げにぺしぺしと背中を叩く。エミリオの肩がくすぐったそうに揺れ、彼はくすくすと笑った。
カッ──と空が光る。
雷が縦横無尽に疾 り、稲妻が夜空を引き裂き、白光が室内に影を投げる。一拍して、バリバリバリ! と重低音が大地を震わせた。
建物全体が幽 かに揺れた気がした。
ゼラフォンダヤ公爵邸は堅牢な石造りだが、それでも雷の轟きは壁を伝い、床を這うように響く。分厚い二重窓も嵐の怒号を遮ることはできない。
「……お義父さまは、大丈夫かしら」
ぽつりと呟くと、エミリオがゆっくりとこちらを向いた。
「父上なら心配ないよ。どのような魑魅が襲ってこようが、蹴散らせる」
その言葉には、揺るぎない確信があった。
時折閃く雷光を受けて、銀糸の髪がきらきらと霜のように煌めく。菫色の瞳は、その瞬間ごとに銀色へと変わり、星のように揺らめいた。
「そうよね……」
エイミーは窓の向こう、漆黒の空へと目を向ける。
公爵は今、大陸の沿岸から数十キロ沖合、海上の要塞たる蒼の塔 に出張している。
群青の波濤 を切り裂くようにそびえ立つ巨大な浮遊拠点であり、魔導科学と軍事技術が極限まで融合した、国立の冥淵界 研究施設である。
一月前、その施設で新たな並列化水晶 の試験運用中に大規模な罰則 が発生し、影霊の集合体――――冥災 へと変貌した。
冥災 は“象 ”をもつ。
朧 な影霊とは違い、意思を持ち、より獰猛に、より執拗に、生者を喰らおうとする。
一介の祓魔士では手に負えないため、冥淵総帥 であるゼラフォンダヤ公爵が動く必要があった。
彼が出張して、もうひと月が経つ。
前線では並列化水晶 を切っているので、すぐに連絡を取ることもできない。
無事に帰ってくると信じている。それでも、冥淵界 に接する仕事の危険性を知っているだけに、一抹の不安はある。
義父は不在で、エミリオも明日には学院へ戻ってしまう……
独り取り残されるような、幽 かな寂寥をぬぐえない。
寂しさが顔にでていたのか、エミリオは世間話のように、最近取り組んでいる研究について、話し始めた。
「──冥淵界 の干渉を絶つ手段として、過去の記憶を投影する案を検討しているんだ。影霊に対するカモフラージュだね。主体意識とは無関係な疑似意識に、影霊をおびき寄せることができれば、並列化水晶 を侵蝕される懸念はなくなるかもしれない。今はまだ試験段階だけど、過去の記憶を……」
穏やかで落ち着いた声が、流れる雨音と溶けあう。
エイミーは相槌を打ちながら聞いていたが、次第にまぶたが重くなり、言葉の端々が霞んでいく。思考がぼんやりと滲み、いつしか言葉も途切れた。
ふっと沈黙が落ちる。
すると、今度は雨音が際立って聞こえた。天蓋を打つ雨の囁き、邸の広大な回廊を濡らす雨滴、庭の噴水を叩く音──それらすべてが、夜の静寂を深く覆っていく。
風が唸り、邸の重厚な窓を叩いた。だが、寝台のなかは穏やかだった。
寄り添うように、二人は眠りに落ちていく。
まるで、同じ夢を見るかのように──
翌朝。エミリオが先に目覚めた。
昨夜はカーテンを開けたまま眠ったせいで、舂 く淡い朝陽が寝台の足元に降り注いでいる。琥珀色の光が白い毛織絨毯に散り、まるで流れる金砂のように煌めいていた。
静かに上体を起こし、隣を見やる。
エイミーは、まだ眠っていた。掌を枕にして、すやすやと規則正しい呼吸を繰り返している。あまりにも穏やかに、夢のなかに沈んでいた。
そばかすの散る顔は、お世辞にも美人とはいえない。それでも、こうして眺めていても少しも飽きないのは、なぜなのか。
小さなくちびる。少しだけ開かれたその形が、妙に気になった。
――触れたい、と思った。
その衝動に、自分で驚く。あまりに気まずくて、慌てて視線を逸らしてしまう。
枕のうえに、アッシュブラウンの髪が波打っている。目を瞠るほど豊かで、つい、手を伸ばしてしまった。
ひんやりとして、驚くほど、柔らかかった。滑らかで、繊細な絹糸のように指をすり抜けていく。
無防備に眠る少女を見つめながら、触れてしまった罪悪感と、何か清冽な、甘美といっていいような感覚が胸に宿る。
どこか小鹿のような頼りなさ、いとおしさを感じさせる……二年前なら、決して抱かなかった感情だ。
彼女は変わった。あの、かつての傲慢で狡猾な問題児は、今や、慎ましく、愛らしく、時折妙に大人びて見える。
(――距離を間違えてはいけない気がする)
自分はもう、何も知らない少年ではない。精通も割礼も済ませた。年の割に大人びて見えるエイミーも、自分に比べたらまだまだ純真無垢だ。
(いや、自分だって――)
湖でエイミーの頬にキスをしたときは、純真な気持ちでそうした。ただ、嬉しくて、感謝の気持ちを伝えたくて。
なのに、今は――
同じ寝台にいることに、後ろめたさを感じめてしまう。
もう少し経てば、彼女も分別を身に着け、エミリオとは一定の距離を置くようになるはずだ。そうなるまで、離れていた方がいいのかもしれない……
慕ってくれるのは、嬉しい。けれど、一緒に眠ることに疚しさを覚える自分は、恐らく、何かが間違っているのだ。
エイミーが目を覚ました時、昨夜の嵐は嘘のように静まり、小鳥の囀りが聴こえていた。
窓から射しこむ朝の光が、仄白く床に落ちる。その淡い輝きのなか、エミリオは一分の隙もない姿で佇んでいた。
白銀の髪がさらりと揺れ、淡い朝陽を浴びて霜のように煌めく。まるで繊細な絹糸を束ねたようなその髪は、仄かに銀の燐光を帯びる。
身に纏うのは、漆黒のジャケットとスラックス。光沢のある白いドレスシャツがよく映えている。襟もとには、ゼラフォンダヤ公爵家の家紋を刻んだ白金のタイピンと、学院の紋章が光っている。
端正なシルエットは完璧すぎて、冷たく研ぎ澄まされた氷の彫像みたいだ。
「お早う、エイミー」
優しく、穏やかな声音。昨夜と変わらないはずなのに、どこか遠く感じる。
「お早う、お義兄さま……」
ぼんやりと瞬きをしながら、小さく返す。
その時、軽やかなノックの音が響いた。
エミリオが「どうぞ」と応じると、開いた扉の向こうにエイミーの部屋つきメイド、サアラが立っていた。
「お早うございます、エミリオ様。お嬢様、お迎えにあがりました」
「お早う、サアラ」
エイミーは寝台から降りると、名残惜しげにエミリオを仰ぎ見た。
「僕が呼んだんだ。仕度をしておいで」
その言葉は、穏やかでありながら、どこか決定的な線引きを含んでいる気がした。
「……はい」
ああ、もう朝がきてしまった。
判っていたことなのに、胸の奥にぽっかりとした穴が開く。
──夜の魔法は、朝が来ると解けてしまうのか。
昨夜、並んで眠った温もりは、たった数時間でどこかへ消えてしまった気がした。
朝食の席は、静かだった。
食卓には香ばしい胡桃パンと温かなスープ、瑞々しいフルーツが並び、銀のカトラリーが淡い朝陽を受けて光を散らしていた。
しかし、食卓を囲む二人の間には、目に見えぬ距離が横たわっていた。
無言というわけではない。
けれど、交わす言葉はどこか上滑りしていて、昨夜のような親密さは微塵もなかった。
──昨夜は、隣で眠っていたのに。
今は遠い。
違和感を覚えながらも、その正体を掴むことはできなかった。
どうしようもないまま、時は刻々と過ぎ、ついに別れの刻が訪れる。
外へでると、霧が、全世界を乳白色に覆い隠していた。
一寸先すら見えぬほどの濃霧。石畳も、並木道も、まるで白の絵筆で塗りつぶされたように霞んでいる。正面玄関に停まる馬車の輪郭すら、ぼんやりと霧に溶けていた。
これほどの悪天候では、生きた馬は使えない。
馬車を牽くのは、深淵光 を動力とする人工馬だった。幽 かな燐光を纏い、濃霧のなかで蹄を鳴らすそれは、生きた馬よりも無機質で、けれど神秘的な美しさを持っていた。
義母に挨拶をすませたエミリオが、ようやくこちらを見た。
エイミーは一歩前に出て、そっと手を伸ばす。
エミリオは、ためらうことなくハグを受け入れてくれた。
柔らかな抱擁に、胸がじんと暖かくなる。彼の腕は、少しだけ力をこめて、優しく抱き返してくれた。
「エイミー、元気で。いい子にしていてね」
耳元で囁かれる声が、胸に染み入る。
「はい。お義兄さまも、どうかお元気で。お体に気をつけて」
精一杯の笑顔を向けたつもりだった。
でも、寂しい。いつもの別れ際の言葉が妙に胸にこたえて、涙が滲みそうになった。
「ありがとう、着いたら連絡するよ」
「はい……」
エミリオは最後に、エイミーのツインテールを優しく撫でた。
──その手が離れる。
背を向けたエミリオは、霧のなかに溶けこんだ。
(次に会えるのは、いつだろう……)
今日が濃霧で良かった。
泣いていたって、誰にも気づかれない。
歩道の左右に並ぶ使用人たちは、角燈を掲げて馬車に道を示していた。
無幻の白い世界。
角燈の明かりだけがぼうっと浮かび、まるで蛍の群れのように幽 かに揺れている。
動きだした馬車は、忽 ち霧のなかに溶け消えた。
──ガラガラガラ……
車輪の音が響く。
蹄が石畳を叩く。
人工馬の嘶きが、低く早朝の霧のなかへと吸いこまれていく。
やがて、それすらも聞こえなくなった。
義兄はそうして、世界に冠たる魔導の心臓、グラスヴァーダム魔法学院へと戻っていった。
重たげな雲から降り注ぐ大粒の雨粒が、公爵邸の屋根を叩く。耳を弄する雷鳴は少しづつ近づいてきて、パッと稲光が
夜更け。
エイミーは枕を抱え、緋色の絨毯を踏みしめながら静かに歩いていた。迷いの色を孕んだ茶色の瞳は、灯りの落ちた扉の前で揺れる。
エミリオの部屋の前に佇み、深呼吸をひとつ。鼓動が早鐘のように波打ち、指先の温度がじんわりとあがる。意を決して、ノックした。
沈黙。
ややして、扉はゆるやかに開いた。
寝室着にカーディガンを羽織ったエミリオは、エイミーを見て驚いたように目を瞠った。
それから、彼の視線が、エイミーの腕に抱かれた枕へと移った。
「……エイミー?」
不意をつかれた声音。
エイミーは怯みかけたが、胸の奥で震える気持ちを奮い立たせ、緊張を誤魔化すように、枕をぎゅっと抱きしめた。
「お義兄さま……一緒に寝ても、いい?」
一瞬の沈黙。
「えっ?」
珍しくエミリオが狼狽えた。
「明日、帰っちゃうんでしょ?」
エイミーは、縋るように言葉を紡いだ。
「せめて今夜は一緒にいたいなって……」
エミリオは眉をひそめ、戸惑いの色を浮かべる。
「……いや、女の子がひとりで夜に男の部屋を訪ねるものじゃないよ」
「家族だからいいの」
「家族といっても――」
「夜にまた話そうって、いったでしょ?」
エイミーは遮るようにいった。
雨音が静かに降り積もる廊下で、懇願するように、枕を抱きしめる手に力をこめた。
「なら、談話室にいく?」
首を振る。
「お義兄さまの部屋がいい」
エミリオは何かいおうとして、止めた。
エイミーには、彼が告げようとしたことが何となく察せられた。けれど、気づかぬふりをした。
「……お義兄さま、明日にはもう帰っちゃうんでしょ?」
エミリオが答えないので、エイミーは視線を落として、
「今夜は、一緒にいようよ……」
しんとした廊下に、雨音が深まる。
静寂のなか、エミリオのため息がやけにくっきりと聞こえた。
「……判ったよ」
扉が大きく開かれ、エイミーは顔をあげた。紫水晶の瞳と視線が交差する。
(入れてくれた)
エイミーの胸が、激しく高鳴る。
一歩、また一歩。足を踏み入れるたび、肌をなぞる空気が変わる気がした。
初めて入る、エミリオの部屋。
飴色と群青を基調にした静謐な空間。窓辺には、天蓋つきの重厚な寝台が配置され、繊細な彫り細工が施された書斎机と、黒革張りの椅子が並ぶ。アルコーブの本棚にはぎっしりと書物が詰まり、その傍らには群青色のソファが静かに佇んでいた。
壁紙は清潔な白。その一方で、黒大理石に囲まれた暖炉の周囲には、灰銀の縞模様が走る。
大きな窓は、厚みのある群青の遮光カーテンによって閉ざされていた。
──静謐と気品。
ここは、エミリオそのものを映した部屋だ。
柔らかな灯が揺らぎ、書棚に並ぶ整然とした本の背が、落ち着いた影を落としている。
空気には、仄かに焚きしめられた香の気配。静かに包みこむような、穏やかな香りだった。
書斎机は綺麗に片づけられており、その傍らに置かれたトランクは、すでに荷造りを終えた様子を見せていた。
──もう、明日には帰ってしまうのだ。
その事実が、胸の奥にかすかな寂しさを落とす。
エイミーは寝台に膝をつき、ブランケットのなかへと滑りこんだ。
シーツはひんやりとして心地よく、清涼な石鹸とハーブの香りがほのかに漂う。安らぎに包まれながら、エイミーは幸せそうに息をついた。
「いい匂い」
満足げに呟きながら、ブランケットから両手をだす。
ふと隣を見ると、エミリオはまだ戸惑ったように立ち尽くしていた。
眉をひそめ、どこか居心地悪そうに視線を泳がせている。
どうやら、気恥ずかしを覚えているらしい義兄に向かって、エイミーは緊張をほぐすように笑みかけた。
「お義兄さま、私たちまだ子供なの。一緒に眠るくらい、日常茶飯よ」
「……そうかなぁ」
「アンの家に泊まったときは、一緒に寝たわよ」
「それは女の子同士だからだろ」
そういいながらも、エミリオは小さく息をつき、観念したように寝台へと膝をついた。
ブランケットをめくり、エイミーと適度な距離を保ったまま、背を向けて横になる。
「……そんな端っこにいかなくても……寝づらくない?」
「平気……というか、落ち着かない」
「お義兄さまがめったに帰ってこないから、落ち着かないのよ」
少し拗ねたように文句をいうと、エミリオはわずかに身じろぎ、こちらを向いた。薄闇のなかで、菫色の瞳が仄かに輝いて見える。
「そうじゃない。確かに僕たちはまだ子供だけど……もう、添い寝するほど子供でもないだろう」
エイミーは気まずくなって、視線を泳がせた。
「……判ってる。今夜で最後よ。来年はもう十歳になるから、さすがに一緒に眠れないよね」
「今だって微妙だと思うけど……誰かと眠るのは、幼少時以来だ」
「お義兄さま、クッションとかぬいぐるみは置かないの?」
「寝台に? 置かないけど。なんで?」
「私は筒のクッションとか、ぬいぐるみを抱き枕にしてるの。気持ちいいよ」
エミリオはふっと笑った。
「赤ちゃんみたいだな」
「赤ちゃんじゃない。抱き枕なんて普通だから、愛用している人は多いと思う」
ちょっとムキになって応えるエイミーを、エミリオはにやにやしながら見ている。心外ではあるが、どうやら緊張は解けたようだ。
──その時。
ぱっと窓の外が閃光に包まれた。
一拍の沈黙。次の瞬間、バリバリバリ! 耳を
「きゃっ……!」
思わず小さく悲鳴をあげ、エイミーはとっさにエミリオの方へ身を寄せた。
「エイミー?」
エミリオは上体を起こし、エイミーの顔を覗きこんだ。
「怖いなら、緞帳を閉めようか?」
エミリオは優しく背中をぽんぽんと撫でてくれる。エイミーは首を振った。寝台を飛び降りて、窓辺に近寄る。カーテンを少しめくって、空を見あげた。
「大きい音は苦手だけど、雷は好きなの。安全な場所から鑑賞するときに限るけどね」
「怖くないんだ?」
「怖くない。綺麗だわ」
稲妻が天空を裂く。雷光の尾が闇を
エミリオも窓際へ歩み寄り、目を細める。
「判る。まるで光の交響曲みたいだよね」
「そう!」
エイミーは嬉しくなって、エミリオに笑みかけた。
「カーテン、開けててもいい?」
「いいけど……眠れなくなるんじゃない?」
「いいの、お喋りしようよ」
そういいながら、エイミーは再び寝台に潜りこむと、頬杖をついてエミリオを見あげた。
「喋りたいなら、横になる必要ある? 談話室にいけばいいんじゃないか?」
「違うのよ、寝台のうえだから楽しいのよ。いつでも眠れるし……アンとも夜中までずっと喋ってね、どっちが先に寝るか競争したりしたわ」
「……僕の負けでいいよ」
エミリオはため息交じりに肩をすくめ、寝台に身を横たえた。その横顔は、稲妻が窓の外を裂くたびに白く照らしだされる。
「そんなのつまらない!」
エイミーは不服げにぺしぺしと背中を叩く。エミリオの肩がくすぐったそうに揺れ、彼はくすくすと笑った。
カッ──と空が光る。
雷が縦横無尽に
建物全体が
ゼラフォンダヤ公爵邸は堅牢な石造りだが、それでも雷の轟きは壁を伝い、床を這うように響く。分厚い二重窓も嵐の怒号を遮ることはできない。
「……お義父さまは、大丈夫かしら」
ぽつりと呟くと、エミリオがゆっくりとこちらを向いた。
「父上なら心配ないよ。どのような魑魅が襲ってこようが、蹴散らせる」
その言葉には、揺るぎない確信があった。
時折閃く雷光を受けて、銀糸の髪がきらきらと霜のように煌めく。菫色の瞳は、その瞬間ごとに銀色へと変わり、星のように揺らめいた。
「そうよね……」
エイミーは窓の向こう、漆黒の空へと目を向ける。
公爵は今、大陸の沿岸から数十キロ沖合、海上の要塞たる
群青の
一月前、その施設で新たな
一介の祓魔士では手に負えないため、
彼が出張して、もうひと月が経つ。
前線では
無事に帰ってくると信じている。それでも、
義父は不在で、エミリオも明日には学院へ戻ってしまう……
独り取り残されるような、
寂しさが顔にでていたのか、エミリオは世間話のように、最近取り組んでいる研究について、話し始めた。
「──
穏やかで落ち着いた声が、流れる雨音と溶けあう。
エイミーは相槌を打ちながら聞いていたが、次第にまぶたが重くなり、言葉の端々が霞んでいく。思考がぼんやりと滲み、いつしか言葉も途切れた。
ふっと沈黙が落ちる。
すると、今度は雨音が際立って聞こえた。天蓋を打つ雨の囁き、邸の広大な回廊を濡らす雨滴、庭の噴水を叩く音──それらすべてが、夜の静寂を深く覆っていく。
風が唸り、邸の重厚な窓を叩いた。だが、寝台のなかは穏やかだった。
寄り添うように、二人は眠りに落ちていく。
まるで、同じ夢を見るかのように──
翌朝。エミリオが先に目覚めた。
昨夜はカーテンを開けたまま眠ったせいで、
静かに上体を起こし、隣を見やる。
エイミーは、まだ眠っていた。掌を枕にして、すやすやと規則正しい呼吸を繰り返している。あまりにも穏やかに、夢のなかに沈んでいた。
そばかすの散る顔は、お世辞にも美人とはいえない。それでも、こうして眺めていても少しも飽きないのは、なぜなのか。
小さなくちびる。少しだけ開かれたその形が、妙に気になった。
――触れたい、と思った。
その衝動に、自分で驚く。あまりに気まずくて、慌てて視線を逸らしてしまう。
枕のうえに、アッシュブラウンの髪が波打っている。目を瞠るほど豊かで、つい、手を伸ばしてしまった。
ひんやりとして、驚くほど、柔らかかった。滑らかで、繊細な絹糸のように指をすり抜けていく。
無防備に眠る少女を見つめながら、触れてしまった罪悪感と、何か清冽な、甘美といっていいような感覚が胸に宿る。
どこか小鹿のような頼りなさ、いとおしさを感じさせる……二年前なら、決して抱かなかった感情だ。
彼女は変わった。あの、かつての傲慢で狡猾な問題児は、今や、慎ましく、愛らしく、時折妙に大人びて見える。
(――距離を間違えてはいけない気がする)
自分はもう、何も知らない少年ではない。精通も割礼も済ませた。年の割に大人びて見えるエイミーも、自分に比べたらまだまだ純真無垢だ。
(いや、自分だって――)
湖でエイミーの頬にキスをしたときは、純真な気持ちでそうした。ただ、嬉しくて、感謝の気持ちを伝えたくて。
なのに、今は――
同じ寝台にいることに、後ろめたさを感じめてしまう。
もう少し経てば、彼女も分別を身に着け、エミリオとは一定の距離を置くようになるはずだ。そうなるまで、離れていた方がいいのかもしれない……
慕ってくれるのは、嬉しい。けれど、一緒に眠ることに疚しさを覚える自分は、恐らく、何かが間違っているのだ。
エイミーが目を覚ました時、昨夜の嵐は嘘のように静まり、小鳥の囀りが聴こえていた。
窓から射しこむ朝の光が、仄白く床に落ちる。その淡い輝きのなか、エミリオは一分の隙もない姿で佇んでいた。
白銀の髪がさらりと揺れ、淡い朝陽を浴びて霜のように煌めく。まるで繊細な絹糸を束ねたようなその髪は、仄かに銀の燐光を帯びる。
身に纏うのは、漆黒のジャケットとスラックス。光沢のある白いドレスシャツがよく映えている。襟もとには、ゼラフォンダヤ公爵家の家紋を刻んだ白金のタイピンと、学院の紋章が光っている。
端正なシルエットは完璧すぎて、冷たく研ぎ澄まされた氷の彫像みたいだ。
「お早う、エイミー」
優しく、穏やかな声音。昨夜と変わらないはずなのに、どこか遠く感じる。
「お早う、お義兄さま……」
ぼんやりと瞬きをしながら、小さく返す。
その時、軽やかなノックの音が響いた。
エミリオが「どうぞ」と応じると、開いた扉の向こうにエイミーの部屋つきメイド、サアラが立っていた。
「お早うございます、エミリオ様。お嬢様、お迎えにあがりました」
「お早う、サアラ」
エイミーは寝台から降りると、名残惜しげにエミリオを仰ぎ見た。
「僕が呼んだんだ。仕度をしておいで」
その言葉は、穏やかでありながら、どこか決定的な線引きを含んでいる気がした。
「……はい」
ああ、もう朝がきてしまった。
判っていたことなのに、胸の奥にぽっかりとした穴が開く。
──夜の魔法は、朝が来ると解けてしまうのか。
昨夜、並んで眠った温もりは、たった数時間でどこかへ消えてしまった気がした。
朝食の席は、静かだった。
食卓には香ばしい胡桃パンと温かなスープ、瑞々しいフルーツが並び、銀のカトラリーが淡い朝陽を受けて光を散らしていた。
しかし、食卓を囲む二人の間には、目に見えぬ距離が横たわっていた。
無言というわけではない。
けれど、交わす言葉はどこか上滑りしていて、昨夜のような親密さは微塵もなかった。
──昨夜は、隣で眠っていたのに。
今は遠い。
違和感を覚えながらも、その正体を掴むことはできなかった。
どうしようもないまま、時は刻々と過ぎ、ついに別れの刻が訪れる。
外へでると、霧が、全世界を乳白色に覆い隠していた。
一寸先すら見えぬほどの濃霧。石畳も、並木道も、まるで白の絵筆で塗りつぶされたように霞んでいる。正面玄関に停まる馬車の輪郭すら、ぼんやりと霧に溶けていた。
これほどの悪天候では、生きた馬は使えない。
馬車を牽くのは、
義母に挨拶をすませたエミリオが、ようやくこちらを見た。
エイミーは一歩前に出て、そっと手を伸ばす。
エミリオは、ためらうことなくハグを受け入れてくれた。
柔らかな抱擁に、胸がじんと暖かくなる。彼の腕は、少しだけ力をこめて、優しく抱き返してくれた。
「エイミー、元気で。いい子にしていてね」
耳元で囁かれる声が、胸に染み入る。
「はい。お義兄さまも、どうかお元気で。お体に気をつけて」
精一杯の笑顔を向けたつもりだった。
でも、寂しい。いつもの別れ際の言葉が妙に胸にこたえて、涙が滲みそうになった。
「ありがとう、着いたら連絡するよ」
「はい……」
エミリオは最後に、エイミーのツインテールを優しく撫でた。
──その手が離れる。
背を向けたエミリオは、霧のなかに溶けこんだ。
(次に会えるのは、いつだろう……)
今日が濃霧で良かった。
泣いていたって、誰にも気づかれない。
歩道の左右に並ぶ使用人たちは、角燈を掲げて馬車に道を示していた。
無幻の白い世界。
角燈の明かりだけがぼうっと浮かび、まるで蛍の群れのように
動きだした馬車は、
──ガラガラガラ……
車輪の音が響く。
蹄が石畳を叩く。
人工馬の嘶きが、低く早朝の霧のなかへと吸いこまれていく。
やがて、それすらも聞こえなくなった。
義兄はそうして、世界に冠たる魔導の心臓、グラスヴァーダム魔法学院へと戻っていった。