3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで
5章:この気持ちがそうだと言うのなら - 1 -
きっぱり告げて、エミリオは視線を外した。 エミリオが変声期を迎えたのは、十三歳の夏だった。
最初は小さな違和感にすぎなかった声が、秋の風が冷えこむ頃には掠れを帯び、言葉を発するたびに喉が引っかかるように感じられた。話すのも煩わしかった時期を越え、十四歳の新年を迎えるころには、ひときわ低く落ち着いた声へと変わっていた。
年末年始、多忙を理由にシルヴァニール領へ一度も帰らなかった。
実際、とても忙しかった。
基本的にエミリオの一日は、分刻みで決められている。
専攻している魔導光学のほかに、宗教、哲学、歴史、政治、地理、数学といった一般教養、さらに陣営指揮、連帯配置といった戦争術、公爵家から課された帝王学、また王国内の様々な言語を修得しなければならなかった。
さらに今年から、領地経営の実務も覚えないといけない。
時間短縮のため、十四歳になると同時に、長距離翔環 の単独利用資格を取得した。以前から計画していたことだ。
これで、学院の寮で暮らさなくても、シルヴァニール領から通学できる。公爵家には私有の翔環 が敷設 されているのだ。
二月の始め。
空気は鋭く、雪片がちらちらと舞っていた。
月影寮を出立する朝、友人のアンジスタや、寮の先輩達が見送りにやってきた。
「道中気をつけて。公爵夫人とエイミー嬢に、どうぞよろしく」
白い息を吐きながら笑うアンジスタに、エミリオも口元を和らげた。
「ありがとう」
「今度シルヴァニール領に遊びにいくよ」
「うん」
「僕も年内に寮をでるつもりだ。お互い領地で忙しくなりそうだけど、たまには息抜きしよう」
「そうだな」
「夜会で会うことも増えるだろうね。今後は、社交も仕事だ」
「ああ……」
正直なところ、あまり気は乗らなかったが、エミリオは頷いた。気が乗らないのは、アンジスタも同じだろう。彼も侯爵家嫡嗣としての債務がある。
「元気でねぇ、エミリオ君」
のんびりした口調で、キアルスがいった。
「先輩、長の別れみたいですが、これからも学院で会えますよ」
「そうだねぇ」
「僕がいなくても、定例報告会に遅刻しないでくださいね」
苦言を呈すると、キアルスは頭をかいた。ははは、と笑っているあたり、あまり期待できそうにない。
「キアルス様は、自領に戻られないのですか?」
アンジスタが訊ねると、うん、とキアルスは頷いた。
「俺、寮暮らしが好きなんだよねぇ。実家は弟達が煩いし、王都も落ち着かないし」
「せめて侍従を連れてくればいいのに」
エミリオがいった。
このズボラな人には、誰か世話する人が必要だ。
「傅 かれるの好きじゃないんだよねぇ」
――ダラダラしたいだけでは?
エミリオは胸に思ったが、懸命にも、声にだす真似はしなかった。
彼は公爵家の三男で、優秀な兄が二人もいるから、あまり煩くいわれないのだろう。その点は少し羨ましいが、エミリオは課せられた債務に応えることが、別段嫌ではなかった。
いずれは爵位を受け継ぎ、先祖代々の領地を守っていくことに誇りを感じている。
そう思いながら、シルヴァニール領に戻ることを避けていたのは、理由があった。
エイミーだ。
かつては双極性障害の疑いすらあった義妹を、心の底から疎ましく感じていた。顔を見るのも嫌で、シルヴァニール邸を飛びだしたのだが、ある日を境に関係は修復された。
暴風のような問題児が、七歳の誕生日を機に、劇的に変わったのだ。
別人といっていいくらい、思いやりのある淑女に生まれ変わった。性格から声、顔つきまで変わった。
今では、 奨学金制度“アガサの灯火”の創設者として、あらゆる媒体 から取材を受けるほど世間からも評価されている。
そんな義妹を誇りに思うと同時に、危うさも覚える。
まだ十二歳の少女に過ぎないのに、公爵家の庇護を離れても生きていけるほどの地位と資産を築きつつあるのだから。
(自立するには早すぎる……)
彼女が家族に認められ、公爵家で大切にされていることは、今では当然だと思っているし、追いだそうだなんて思っていない。彼女がいる公爵家に帰ることも、憂鬱ではない。ないのだが……
正門を向かう途中、元同級生の、中等部の女子生徒に声をかけられた。
胸の前で両手を組み、少しの緊張と、期待したようにこちらを見る眼差しは、うんざりするほど見慣れたものだった。
「何か?」
鬱陶しい気持ちが顔に顕れないよう、表情を押さえねばならなかった。
「お久しぶりです、エミリオ様。スーリャ・マゼルです。寮をでていかれると聞いて……」
「それが何か?」
「春に家族で旅行を計画していまして、もし良ければ、シルヴァニールのご領地に遊びにいっても良いでしょうか?」
「お好きにどうぞ」
シルヴァニール領は広大だし、風光明媚な山河や、湖畔に栄える街もある。四季を通して観光に訪れる人は多い。
「ありがとうございます。良ければ、春に訪れるに良い場所があれば、教えて頂けると嬉しいのですが」
「好みはそれぞれですし、先ずは並列化水晶 に訊いてみるといいですよ」
つれない返事をしたにも関わらず、少女の瞳は輝いた。憧憬 と恋慕を灯して。
「見どころが豊富ですものね。あの、もし、ご都合があえば、お会い出来たら嬉しいのですけれど」
ほぼ初対面の相手に、よくそんな提案ができるな――エミリオは冷ややかに見つめ返した。
虚しい媚態 とも知らず、少女は一途な眼差しを向けてくる。
「お断りします。急いでいるので、これで」
きっぱり告げて、視線を外した。
背中に引き止める言葉をかけられたが、振り向かなかった。いちいち足止めされるのは面倒だったので、そのあとは、声をかけてくる相手に「失礼」とだけ断り、通り過ぎることにした。
飛び級で大学院に進んだ時といい、寮をでる時まで、焦ったように接点を持とうとするのは、なぜなのだろう? 煩わらしがられるとは思わないのだろか?
学院の翔環 を抜けると、ようやく周囲の視線から解放された。
王都のターミナルは忙しなく、行き交う人は、いちいち人の顔など見ていない。
個人用翔環 の搭乗口に向かいながら、ふと思う。
人生とは不思議だ。
まさか、自らの意思で寮をでて、シルヴァニール邸から通学することを選ぶとは。五年前の自分に教えても、絶対に信じなかっただろう。
エイミーと和解した今、公爵邸に戻ることは嫌ではない。嫌ではないのだが、別の懸念があった。
いつからか、義妹を、異性として意識するようになってしまった。
距離を置こうとした時期もあったけれど、大して効果もなく、会うたびに心を揺り動かされてきた。
今までは物理的に離れていられたけれど、これからは公爵邸で暮らすのだ。
期待も大きいが、自分がどう変わってしまうのか、不安も大きかった。
翔環 に入る前に、深呼吸をひとつ。
(緊張する必要はない。久しぶりに、家族に会うだけなんだから)
そう自分にいい聞かせて、一歩を踏みだした。
最初は小さな違和感にすぎなかった声が、秋の風が冷えこむ頃には掠れを帯び、言葉を発するたびに喉が引っかかるように感じられた。話すのも煩わしかった時期を越え、十四歳の新年を迎えるころには、ひときわ低く落ち着いた声へと変わっていた。
年末年始、多忙を理由にシルヴァニール領へ一度も帰らなかった。
実際、とても忙しかった。
基本的にエミリオの一日は、分刻みで決められている。
専攻している魔導光学のほかに、宗教、哲学、歴史、政治、地理、数学といった一般教養、さらに陣営指揮、連帯配置といった戦争術、公爵家から課された帝王学、また王国内の様々な言語を修得しなければならなかった。
さらに今年から、領地経営の実務も覚えないといけない。
時間短縮のため、十四歳になると同時に、長距離
これで、学院の寮で暮らさなくても、シルヴァニール領から通学できる。公爵家には私有の
二月の始め。
空気は鋭く、雪片がちらちらと舞っていた。
月影寮を出立する朝、友人のアンジスタや、寮の先輩達が見送りにやってきた。
「道中気をつけて。公爵夫人とエイミー嬢に、どうぞよろしく」
白い息を吐きながら笑うアンジスタに、エミリオも口元を和らげた。
「ありがとう」
「今度シルヴァニール領に遊びにいくよ」
「うん」
「僕も年内に寮をでるつもりだ。お互い領地で忙しくなりそうだけど、たまには息抜きしよう」
「そうだな」
「夜会で会うことも増えるだろうね。今後は、社交も仕事だ」
「ああ……」
正直なところ、あまり気は乗らなかったが、エミリオは頷いた。気が乗らないのは、アンジスタも同じだろう。彼も侯爵家嫡嗣としての債務がある。
「元気でねぇ、エミリオ君」
のんびりした口調で、キアルスがいった。
「先輩、長の別れみたいですが、これからも学院で会えますよ」
「そうだねぇ」
「僕がいなくても、定例報告会に遅刻しないでくださいね」
苦言を呈すると、キアルスは頭をかいた。ははは、と笑っているあたり、あまり期待できそうにない。
「キアルス様は、自領に戻られないのですか?」
アンジスタが訊ねると、うん、とキアルスは頷いた。
「俺、寮暮らしが好きなんだよねぇ。実家は弟達が煩いし、王都も落ち着かないし」
「せめて侍従を連れてくればいいのに」
エミリオがいった。
このズボラな人には、誰か世話する人が必要だ。
「
――ダラダラしたいだけでは?
エミリオは胸に思ったが、懸命にも、声にだす真似はしなかった。
彼は公爵家の三男で、優秀な兄が二人もいるから、あまり煩くいわれないのだろう。その点は少し羨ましいが、エミリオは課せられた債務に応えることが、別段嫌ではなかった。
いずれは爵位を受け継ぎ、先祖代々の領地を守っていくことに誇りを感じている。
そう思いながら、シルヴァニール領に戻ることを避けていたのは、理由があった。
エイミーだ。
かつては双極性障害の疑いすらあった義妹を、心の底から疎ましく感じていた。顔を見るのも嫌で、シルヴァニール邸を飛びだしたのだが、ある日を境に関係は修復された。
暴風のような問題児が、七歳の誕生日を機に、劇的に変わったのだ。
別人といっていいくらい、思いやりのある淑女に生まれ変わった。性格から声、顔つきまで変わった。
今では、 奨学金制度“アガサの灯火”の創設者として、あらゆる
そんな義妹を誇りに思うと同時に、危うさも覚える。
まだ十二歳の少女に過ぎないのに、公爵家の庇護を離れても生きていけるほどの地位と資産を築きつつあるのだから。
(自立するには早すぎる……)
彼女が家族に認められ、公爵家で大切にされていることは、今では当然だと思っているし、追いだそうだなんて思っていない。彼女がいる公爵家に帰ることも、憂鬱ではない。ないのだが……
正門を向かう途中、元同級生の、中等部の女子生徒に声をかけられた。
胸の前で両手を組み、少しの緊張と、期待したようにこちらを見る眼差しは、うんざりするほど見慣れたものだった。
「何か?」
鬱陶しい気持ちが顔に顕れないよう、表情を押さえねばならなかった。
「お久しぶりです、エミリオ様。スーリャ・マゼルです。寮をでていかれると聞いて……」
「それが何か?」
「春に家族で旅行を計画していまして、もし良ければ、シルヴァニールのご領地に遊びにいっても良いでしょうか?」
「お好きにどうぞ」
シルヴァニール領は広大だし、風光明媚な山河や、湖畔に栄える街もある。四季を通して観光に訪れる人は多い。
「ありがとうございます。良ければ、春に訪れるに良い場所があれば、教えて頂けると嬉しいのですが」
「好みはそれぞれですし、先ずは
つれない返事をしたにも関わらず、少女の瞳は輝いた。
「見どころが豊富ですものね。あの、もし、ご都合があえば、お会い出来たら嬉しいのですけれど」
ほぼ初対面の相手に、よくそんな提案ができるな――エミリオは冷ややかに見つめ返した。
虚しい
「お断りします。急いでいるので、これで」
きっぱり告げて、視線を外した。
背中に引き止める言葉をかけられたが、振り向かなかった。いちいち足止めされるのは面倒だったので、そのあとは、声をかけてくる相手に「失礼」とだけ断り、通り過ぎることにした。
飛び級で大学院に進んだ時といい、寮をでる時まで、焦ったように接点を持とうとするのは、なぜなのだろう? 煩わらしがられるとは思わないのだろか?
学院の
王都のターミナルは忙しなく、行き交う人は、いちいち人の顔など見ていない。
個人用
人生とは不思議だ。
まさか、自らの意思で寮をでて、シルヴァニール邸から通学することを選ぶとは。五年前の自分に教えても、絶対に信じなかっただろう。
エイミーと和解した今、公爵邸に戻ることは嫌ではない。嫌ではないのだが、別の懸念があった。
いつからか、義妹を、異性として意識するようになってしまった。
距離を置こうとした時期もあったけれど、大して効果もなく、会うたびに心を揺り動かされてきた。
今までは物理的に離れていられたけれど、これからは公爵邸で暮らすのだ。
期待も大きいが、自分がどう変わってしまうのか、不安も大きかった。
(緊張する必要はない。久しぶりに、家族に会うだけなんだから)
そう自分にいい聞かせて、一歩を踏みだした。