3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

5章:この気持ちがそうだと言うのなら - 2 -

 空間がたわみ、時間がほどける。
 一瞬にして景色は変わり、ひんやりとした地下室の空気に包まれた。
 シルヴァニール邸の翔環ポータル室だ。
 四方の壁は淡灰に沈み、窓はない代わりに、緋色の金具覆いから同色の緞帳がゆったりと垂れさがっている。
 普段は闇に沈んでいる空間だが、今日は皓々こうこうと明るい。半世紀前の遺物めいた青銅の大燭台が、天井から鎖で吊りさげられ、百の人工焔を揺らめかせていた。
「お帰りなさいませ、エミリオ様」
 黒の燕尾服に身を包んだ執事長と、幼い頃からエミリオに仕える侍従が、扉の前に影のごとく控えていた。
「ただいま」
「談話室で、エイミー様とシドニー様がお待ちしておりますよ」
「ありがとう」
 外套と荷を預けて、壮麗な階段をあがる。
 深紅の絨毯が敷かれた広い廊下を進むにつれ、時が巻き戻っていくような感覚を味わった。
 懐かしい邸の匂い。
 半円筒形の高い天井。
 黒檀の羽目板に飾られた、シルヴァニールの美しい銀嶺ぎんれいに湖畔、冬至祭や夏至祭の光景、そして影霊との闘いを描いた絵画の数々。
 美しい彫刻と金銀の象嵌ぞうがんを施した棚には、東方の磁器と大理石の胸像が並べられている。
 そして幾世紀を経た肖像画。暗い背景から、紳士淑女の青白い顔がこちらを見つめる。血脈の継承者を見据えるような、ゼラフォンダヤ公爵家の先祖たち。
 すべてが記憶どおり、時を止めたようにそこに在る。
「ただいま」
 一階の談話室へ足を踏み入れると、陽気な旋律が流れていた。
 窓辺のソファーに仲良く腰かけ、談笑していたエイミーとシドニーは、ぱっとこちらを見るなり、表情を綻ばせた。
「お義兄さま!」
 歓喜の声と共に、エイミーが子犬のように駆け寄ってくる。
「おかえりなさいっ」
 熱烈な抱擁に、エミリオも表情を綻ばせた。細い肩を抱きとめ、やわらかなアッシュブラウンの髪に頬を寄せると、柑橘がいりまじった甘く爽やかな香りがした。
「兄様、おかえりなさい」
 シドニーは一歩遅れて近づき、遠慮がちに声をかけてきた。
 七歳の少年といえば、腕白の盛りのはずだが、シドニーはエミリオに似て物静かで思慮深い。生き物をこよなく愛するさがで、今も肩に黄色い蜥蜴を乗せている姿は、少年らしいといえばそうかもしれない。
「ただいま。ふたりとも元気にしていた?」
「ええ、もちろん……お義兄さま、声変わった?」
 エイミーは、きょとんとした顔をした。シドニーも目を瞬いている。
「本当ですね。兄様、声変わりされたのですね」
「去年の秋にね。変かな?」
「いいえ、素敵だわ。大人っぽくなりましたね」
 うっとりと告げられた賛辞に、仄甘い胸の高鳴りを覚えた。
 数多の称賛に慣れているはずなのに――彼女の声だけは、全く、澄明ちょうめいに聴こえる。
「本当? 良かった」
 自分でも、ふっと口元が緩むのがわかった。
 いつも通りに微笑したつもりだが、エイミーは恥じらうように視線を揺らした。
(……かわいい)
 彼女は時々、こういう仕草をする。
 照れ隠しに視線を上向けて、エミリオの頭上・・に目をやるのだ。小さな瞳を丸くして、頬を染めて、嬉しそうに。
 その初々しい仕草を見るのが、とても好きだった。
 そばかすの散った赤い頬に、無意識に手が伸びそうになったところで、我にかえった。
(今、何をしようとした? ……いや、後で考えよう)
 気持ちを切り替えるように、弟へ視線を向けた。
「シドニーは、随分と背が伸びたね」
 癖のない艶やかな黒髪を撫でると、母譲りの青磁を思わせる青い瞳が、嬉しげに細められた。
「はい。乗馬もひとりでできるようになりました」
「すごいじゃないか」
 えへへ、とシドニーは嬉しそうに笑った。
「部屋で巨大蛙を飼い始めたって聞いたけど?」
 訊ねると、シドニーとエイミーは顔を見あわせ、堪えきれないといったように吹きだした。
「最初は手乗りだったんですが、想像以上に大きくなってしまって」
「びっくりよね」
「そう……母上は発狂しているんじゃない?」
 シドニーは苦笑を浮かべ、エイミーはそんな弟の肩を抱き寄せると、
「お義母さま、最近はシドニーの部屋に近づかないのよ。でも怒ってはいないわ」
「蛇も飼ってるんだよね? ……喰われるんじゃないか?」
 弟の肩に乗っている蜥蜴を見ながら、エミリオは訊ねた。
「大丈夫です、ケージを分けていますから。最近、蜜蜂の飼育も始めたんですよ」
「蜜蜂? それは初耳だな。後で巣箱を見にいってみるよ」
「いえ、外ではなく、僕の部屋で飼っているんです。窓と壁を細工して、部屋で蜜がとれる仕組みを開発中なんですよ」
「部屋で?? よく母上が許したな」
「シドニーはすごいのよ! 飼育容器を自分で設計して、立体印刷機で部品を作って、組み立てまでしちゃうんだから!」
 興奮気味にエイミーがいった。
「へぇ、詳しく聞きたいな」
「もちろんです!」
 シドニーは嬉しそうに答えた。
 聡明な弟は、成長とともに生き物への関心を強め、最近ではこの通り、生物学者みたいになっている。
「ねぇ、座って話しましょう」
 エイミーに腕をひかれて、三人はソファーへ並んで腰をおろす。
 するとメイドが気を利かせて、紅茶に苔桃こけもものジャムを添えて運んできた。
 ダージリンの薫香に包まれながら、互いの近況報告に夢中になり――気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 その日の夜。
 晩餐の席は、久しぶりに家族が勢ぞろいした。
 エミリオを含めて父も弟妹も気楽な部屋着姿だが、母だけは、紺碧のタフタをまとい女王然とした姿で顕れた。
 今宵の主役とばかりに、母は上機嫌にグラスを掲げると、
「お帰りなさい、エミリオ。家族の再会を祝して、乾杯!」
「「乾杯」」
 弾む唱和。歓喜の言葉が、銀の食器と燭火のあいだで反響する。
 美々しく整えられた食卓には、エミリオの好物ばかりが並んでいた。
 骨つき仔牛のローストは、外皮をこんがりと焦がし、赤みを残さず均一に火を通した絶妙な焼き加減。葡萄酒を煮詰めた濃厚なソースが添えられ、芳醇な香りが立ちのぼる。
 透明なスープには、海から届いた白身魚の身がほろほろと崩れ、香草とともに黄金色の湯気を揺らす。
 焼きたての黒パンには、山羊乳の白いチーズが溶けて絡み、塩気と酸味が食欲をそそる。
 それから、薄い飴細工を冠した林檎のタルト。エミリオが幼い頃から好んでいた甘味だ。
 皆よく食べ、よく笑い、母とエイミーとシドニーは絶え間なくしゃべった。
 賑やかさにほだされ、普段は寡黙な父すら、声を立てて笑う場面があった。
 大いに満足して私室に戻ると、暖炉には既に火が入っていた。
 部屋は隅々まで清められ、寝台には真新しいシーツが張られ、机上には筆記具が鏡のように磨きあげられて並んでいる。
 すべてが懐かしく、まるでこの邸に流れる時間が、首を長くして自分を待っていたかのように感じられた。
 今日からここが、再び生活の起点となるのだ。
 寝仕度を済ませて、今夜は早々に床へ就こうとした矢先、控えめなノックの音が響いた。
 扉を開けると、部屋着姿のエイミーが、所在無げに立っていた。
「エイミー?」
「あ、えっと……お邪魔でした?」
「いや、どうしたの?」
「これを渡しにきたの」
 エイミーは、小さな香り袋サシェを差しだした。顔を近づけると、ポプリの良い香りがした。
「ラベンダー?」
「ええ、アンと一緒に作ったのよ。枕のしたに忍ばせてね。よく眠れると思うわ」
「ありがとう、そうするよ」
「うん……お義兄さまが帰ってきてくれて、すごく嬉しい。お帰りなさい」
 照れたようにエイミーは、指先をもじもじさせている。
(……かわいい)
 またしても、胸がきゅっと締めつけられたような錯覚がした。
「僕も嬉しいよ……ただいま、エイミー」
 自分でも意外なほど、優しい声がでた。
 エイミー。昔は名前をくちにするのも嫌だったのに、今では特別な響きをもって聴こえる。
 彼女の笑顔を見て、どうして、こんなにも胸がざわめくのだろう?
「それじゃぁ……おやすみなさい。また明日」
 明るく笑うエイミーを見て、エミリオは笑みを取り繕った。
「おやすみ」
 夜の挨拶を交わし、静かに扉を閉じる。
 そうでもしないと、衝動的にエイミーを抱きしめてしまいそうだった。