3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

5章:この気持ちがそうだと言うのなら - 3 -

 翌朝。
 深い静寂しじまの底から、水面へ浮かびあがるように目が醒めた。
 熟睡の後のこころよさが、四肢に満ちていた。
 談話室へ入ると、すでにシドニーが着席していて、朝の挨拶を交わす。間もなくエイミーも姿を見せると、三人は同じ卓を囲んだ。
 エイミーが昨夜見た夢を話題にし、シドニーが楽しそうに感想を返す。エミリオも相槌をはさみ、笑いと囁きが行き交う。
 紅茶の芳香が薄靄のように漂い、静かな朝に小さな祝福をもたらしていた。
「姉様、いってきます」
 最初に席を立ったシドニーは、座っているエイミーに近づき、彼女の頬にキスをした。
「いってらっしゃい」
 エイミーもまた頬にくちづけを返し、ほほえんだ。
「兄様、お先に失礼します」
 シドニーはエミリオへも微笑を投げかける。
 ふたりの親密なやりとりに内心で驚きつつ、エミリオは「気をつけて」と言葉をかけてやった。
(僕も席を立ったら、キスをしてもらえるのか?)
 そんな淡い期待を胸に、立ちあがってみたが――エイミーは椅子に腰をかけたまま、ただ柔らかくほほえんだ。
「いってらっしゃい、お義兄さま」
「……いってきます」
(……なんだ、してくれないのか)
 落胆めいた感情を覚えながら、使用人が開いた扉を通り抜ける。玄関に向かって歩みだした足が、ふと止まった。
(してくれないのか、って……なんだ? 僕は、キスしてほしかったのか?)
 頭蓋を殴られたような衝撃がはしった。
 しばらく動揺していたが、翔環ポータルを通って魔導光学部の扉を開く頃には、それほど疚しいことではないと自分にいい聞かせることができた。
 ――血縁を越えて育まれる情、親愛の情の範疇だ。家族に優しくされたいと思うのは、何も変なことではないだろう。
 研究室の床に刻まれた滅菌円陣に立つと、仄青い光に包まれた。
 空気中に微細な霧が舞い、無臭で感触もないが、ナノレベルの浄化静電子が全身に付着し、あらゆるウィルスは無害化される。
 白衣に着替え、超音波洗浄機の前にいくと、珍しくキアルス先輩が先にきていた。
「おはよぉ、エミリオ君」
「お早うございます。手伝います」
 洗浄機を起動すると、キアルスは礼をいい、器具の入った合金鋼ステンレスのトレーを渡してきた。
 実験に使う精密器具の手入れは、手の空いている者がやる暗黙の了解があり、エミリオにとっては毎朝の日課ルーティンだった。
 トレーに入っている顕微鏡の各部品を、ひとつずつ水へ沈める。
 見た目は綺麗でも、洗浄機にかけると空洞化現象キャビテーションが砂塵のような汚れを剥がし、浮かびあがらせた。
「今日は翔環ポータルできたんだよね?」
 洗浄機から白金プラチナの部品をとりだしながら、キアルスはちらりと視線をよこした。
「はい、シルヴァニール邸から直通で」
「だいぶ距離あると思うけど、平気そうだね」
「酔わない性質なので」
 長距離の翔環ポータルは、黄金種ベルハーの大人でも心身に負荷がかかるため、資格を得られぬ者は多い。だがエミリオにとっては何の障害にもならなかった。
「久しぶりの実家はどうだった?」
「寮暮らしが長かったので、使用人の多さに違和感がありました。そういえば、弟が部屋で蜜蜂を飼い始めたようで、帰ったら見せてもらう予定です」
「部屋で? 蛇と蜥蜴もいなかった?」
「蛙もいますよ」
「へぇ~、面白そうだねぇ。どんな部屋か僕も覗いてみたいかも……弟君は、寄宿舎には入らないの?」
「はい、通信制アルカです。科学の授業だけは、王都校に通っているようですが」
 殆どの貴族学生は王都別邸から通うか、もしくは寮に入る。だがシドニーはエイミーの影響で通信制アルカを選んだ。
 高等部までの寄宿舎は規律が厳しく、奢侈しゃしとは無縁だ。生き物に囲まれて暮らせるシルヴァニール邸の方が、弟にとっては魅力的なのだろう。
「さすがに、蜂の巣は寄宿舎に持ちこめないしねぇ……てっきり君も家の方針で、小等部から入ってたのかと思ってた」
「いえ、僕は……自分の希望で」
「ふぅん」
 軽く相槌を打つキアルスを、エミリオは横目でうかがった。
 ――彼は知らないのだろうか。義妹がかつて問題児で、退学にまで至ったことを。エミリオと不仲だったことも。
 同学年では周知の事実でも、学年が離れているので伝わっていないのかもしれない。わざわざ告げることでもないので、話題を転じることにした。
「先輩は、寄宿舎暮らしは家の方針なんですか?」
「そうだよぉ。兄も弟もここの生徒だよ。兄はもう卒業したけど。うちは男ばかりで騒々しいから、入学年齢に達したら全員叩きだされるのさ。まぁ、僕も寮の方が気楽だけどね」
「……」
 以前はエミリオも、寮の方が気楽だと信じていた。
 キアルスは眼鏡を外すと、ついでとばかりに洗浄機に放りこんだ。研究外の私用だが、これくらいの小さな逸脱は黙認されている。
「ところで、エイミー嬢は元気にしてる?」
 レンズ越しでない、金緑めいた瞳が向けられた。エイミーが、珍しいと賞賛していた虹彩だ。
「元気ですよ」
「エミリオ君が戻ってきて、喜んでいるでしょう?」
「ええ、まぁ」
 昨夜の笑顔が脳裏に浮かんで、自然と頷いていた。
「この間、アガサの灯火の第一回奨学生の記事を読んだよ。評判いいよね。来年は出資者が殺到するんじゃない?」
「そう……ですね」
 エミリオが考えこむように黙すると、キアルスは首を傾げた。
「あれ、嬉しくないの?」
「そんなことはありません。ただ……義妹はまだ十二歳です。注目を浴びるには、少し早い気がして」
 先日も、王宮の宴で話題にのぼったと母が話していた。このままでは十六歳の大舞踏会デビュタントを待たずに、引っ張りだされそうだ。
「そう? でも彼女、初登壇でも落ち着いてたよ。社交は得意そうに見えたけど」
「得手不得手と、好き嫌いは一致しません。義妹はシルヴァニールの穏やかな生活を好んでいます。それなのに、四方から目を向けられ声をかけられたら、疲弊するでしょう」
「ああ、心配なんだね……ちょっと意外だな」
「そうですか?」
「だって君、家族でもさぁ、人の感情に斟酌しんしゃくしなさそうだから」
「僕をなんだと思っているんですか」
「研究オタク。いい意味でね」
「先輩だってそうでしょう。意味はともかく」
 横目で見やると、ははは、とキアルスは楽しそうに笑った。洗浄を終えた眼鏡を乾燥機に収めながら。
「エミリオ君といい、エイミー嬢といい、弟君も変わり者で面白そうだ。ゼラフォンダヤ家は将来安泰だねぇ」
「それはどうも」
 素っ気なく相槌を打つと、エミリオは再び器具の洗浄に没頭した。

 陽が傾き、研究を切りあげると、どこか新鮮な気持ちでシルヴァニール邸へ戻った。
 すると今日も、談話室でエイミーが出迎えてくれた。
「お帰りなさい、義兄さま」
「ただいま、エイミー」
 抱擁を交わす兄妹の姿を、後ろで使用人もにこやかに見守っている――ほんの数年前には絶対にあり得なかった光景に、自分でも頬がゆるんだ。
 約束した通り、ふたりでシドニーの部屋を訪れた。
「ようこそ、兄様、姉様」
 弟は目を輝かせ、心から嬉しそうに迎え入れてくれた。
 部屋には大小さまざまな硝子容器が並び、生き物や植物が棲んでいる。
 不快な匂いは一切なかった。
 壁面に設けられた苔のアクアリウムが、天然の空気清浄機となり、代わりに爽やかなハーブの香りが漂っていた。
「これが蜜蜂たちです」
 弟は、誇らしげに窓辺の壁を指さした。
 そこには六角形の容器セルが四つ連結され、壁に取りつけられていた。前面は硝子で、蜜蜂たちの営みが一望できる。
 側面には通気用の配線チューブが伸び、窓下の小さな穴と直結して、外界と往来を可能にしていた。
「よくできているね。モジュール式の構造なんだ」
「はい、容器セルを追加したり取り外したりできるんです。最初は二つでしたが、巣が育ってきたので増設したんです」
「硝子張りだから、なかの様子がよく見える。工夫されているな」
「はい、今は外枠フレームを改造して、蜂蜜を簡単に取れる仕組みを試作中なんですよ」
「それは楽しみだ。まさか自然の巣を部屋のなかで飼えるとは……昨日聞いた時は、蜜蜂が室内を飛び回っている光景を想像してしまったよ」
 エミリオの言葉に、シドニーもエイミーも笑った。
「アンも同じことをいっていたわ。映像を見せたら、目を丸くしていたのよ」
「窓の外に、水飲み場も設置してあるんだ。よく設計されているね。養蜂家が興味を持つんじゃないか?」
 そういうと、シドニーは笑顔で頷いた。
「設計図は公開してあるんです。先日、試しに作った方が映像を共有してくださって……すごく嬉しかったです」
 エミリオは弟の髪をやさしく撫でた。
「良かったね」
「はい!」
 満面の笑みを浮かべる弟の髪を、今度はエイミーが撫でている。
 研究成果を分かちあい、誰かに評価される喜び――その喜びを、エミリオもよく知っていた。
 弟は探究心旺盛で、忍耐強く、熱心で真面目だ。科学者に必要な素質を全て兼ね備えている。このまま邁進まいしんしていけば、科学の先駆者になる日もそう遠くないかもしれない。