3EMI - 転生した平凡令嬢が好感度マイナスの義兄から溺愛されるまで

6章:エイミーとエミリオ - 1 -

 また、夏がきた。
 八月──エイミーの十四歳の誕生日は、美しいライム海岸の別荘で祝うこととなった。
 今は亡き祖父母がこよなく愛した静謐せいひつの避暑地であり、ふたりは夏がくるたび、光と海風に包まれたひと月を、そこで穏やかに過ごしたという。
「久しぶりにいきたいわ。ライム海岸の夏は、それはもう楽園よ。シドニーも大きくなったし、家族旅行にはぴったりでしょう」
 という母の言葉で、十日間の家族旅行は決まった。
 翔環ポータルを使えば一瞬で着くが、今回はあえて公爵家の翼船よくせんで向かうことになった。
 七月最後の日、朝。快晴。
 船はすでにシルヴァニール邸の庭に降り、地面から僅かに浮いたまま、静かに待機していた。
 全ての帆は畳まれ、船体は白銀の光をまといながら、朝風を受けて金糸の紋章旗もんしょうきを揺らしている。
 その光景だけでも胸が高鳴るが、これからが本当の旅の始まりだ。
 エイミー達は階段をのぼり、甲板かんぱんへと足を踏み入れた。途端に、足裏に淡い震動が伝わってきて、思わず笑みがこぼれる。
 やがて、推進環すいしんかんが低く唸りをあげ、魔力の気流が船底を包みこんだ。
 巻揚げ機キャプスタンが動きだし、いかりが静かに巻きあげられ、鎖が光を散らす。
 船体はゆるやかに、蒼天へと上昇を始めた。
 芝生や花弁が舞いあがり、陽光がその軌跡を照らす。風圧に裾を押さえながら手を振る使用人たち。
 帆が解かれ、光を孕んでひるがえる。かいのような翼が羽ばたくと、エイミーの胸はときめきで満たされた。
「翼があるのね! 空を泳いでいるみたい」
「……夢を壊すようだけど、翼は装飾だよ。実際は深淵光アビサル・フレアを燃料にして、魔導浮力で進むんだ」
 そう解説するエミリオの声も、どこか楽しげだ。
懐古主義ノスタルジーね。翼船よくせんなんて初めてだわ。空飛ぶ船って浪漫ね……夢みたい」
「帆をはらんで、羽ばたいて、まるで宝船ですね!」
 無邪気な弟の声に、エイミーとエミリオは思わず笑みをこぼした。
 翼船よくせんは青空を優雅に進み、風が頬を打つ。白い雲が手を伸ばせば届きそうなほど近い。
 流れゆく眼下の光景に夢中になっていると、背後から柔らかな声がかかった。
「私たちはロビーにいくけど、あなたたちはここにいる?」
 義母の言葉に、三人はそろって頷いた。
「リオ、ふたりをお願いね」
「はい、母上」
 エミリオが素直に答えると、義母は満足げにほほえみ、差しだされた義父の腕に手をからませて昇降階段へと向かった。
 最上甲板ハリケーン・デッキはがらんとしている。
 数人の乗組員と護衛がいるだけ。公爵家の私有船なので、他の乗客はいない。
 空の旅は、それはもう格別だった。
 翼の羽ばたきが空気を震わせ、果てしない紺碧こんぺきの空が視界いっぱいに広がる。
 あまりの美しさに、誰もその場を離れようとはしなかった。
 ラドガ湖の上空をあっという間に飛び越え、深い森が遠ざかる。なだらかな丘陵きゅうりょうが波のように連なり、それも越えると、世界は一面の青に変わった。
 ──海だ。
 陽を映す海面が、無数の鏡のように煌めいている。
 どこまでも続く水平線が、世界のかたちを教えてくれる。ゆるやかに丸い曲線が愛おしくて、懐かしい、もうひとつの地球パラレル・アース
 風にあおられる薄地のモスリンの裾を、エイミーは手で押さえた。今日はバカンスらしい装いで、裾の長いワンピースに青い飾り帯サッシュを巻いて、髪を左右に編みこみリボンで結っている。七歳の誕生日にエミリオから贈られたリボンを、エイミーは今でも大事にしていた。
「これを腰に巻いておくといいよ」
 エミリオは、やわらかい麻のジャケットをさしだした。風で広がるスカートが気になったらしい。
「ありがとう」
 エイミーは笑顔で受け取り、腰に巻きつけた。
「水平線って、なんで見ているだけでわくわくするんだろう? 私、何時間でも見ていられるわ」
 隣でエミリオが、ふっと微笑した。
「景色が変わらないと、さすがに飽きない?」
「いいえ、風が気持ちいいわ……」
 心地良い静寂と美しさに浸っていると、シドニーが、あっと声をあげた。
「姉様、セレイヴの群れですよ!」
 瑠璃ラピスラズリ色の鳥の群れを指さし、シドニーは碧い瞳を煌めかせた。
 エイミーが並列化水晶バベルで検索するよりも早く、シドニーは携帯水晶ミリスフィアを掲げ、鳥たちの姿を映しだした。
「渡り鳥なのね」
「はい、彼らは一生をして、命がけで、一万海里もの空を飛び越えるんです」
「きっと過酷な旅でしょうけど、こんなに素晴らしい景色を見ながら翔べるのは、少し羨ましい気もするわね」
 セレイヴの群れは、瑠璃ラピスラズリ色の羽を真っすぐに広げ、風に乗って滑空している。
 整然と隊伍たいごを組み、これから何海里もの空を、遮二無二しゃにむにに渡っていくのだろう。
 そんな鳥たちを眺めていると、再びシドニーが声をあげた。
「姉様! 鯨ですっ」
「どこどこっ!?」
 エイミーは思わず大きく身を乗りだした。
「危ないよ、エイミー」
 背後から伸びたエミリオの腕が、そっと肩を押さえる。
 それに気づかぬまま、エイミーは夢中で蒼海を凝視した。
 碧い大洋に巨影が浮かび、轟くような吐息とともに、白い飛沫が高く噴きあがる。
「すごーい! 鯨だ~!」
「あれは聖寵せいちょうの鯨です。見る者に幸運をもたらすといわれています」
「ついてるわね! 初めて本物の鯨を見たわ」
 エイミーは嬉しそうに笑った。
「この辺りは、大型の海獣が多いんです。海王鮫ペラギオンは知っていますか?」
 シドニーに訊かれて、エイミーは頸を振る。
海王鮫ペラギオンは全長二〇メートルを超える個体もいて、背には硬い甲殻鱗があって、刃物でも簡単には切れないんです。獲物を追うときは時速六〇キロ以上で突進して、氷面ごと割ってしまうこともあるんですよ」
 小さな生物学者よろしく、シドニーは人差し指をぴっと立てて熱心に語った。
 エイミーは博識な弟に感心しながら、並列化水晶バベルで検索をかけた。
「へぇ……鯨と同じで、群れで行動するのね」
「はい、時には協力して獲物を追いつめるんです。昔の船乗りたちは“海の悪魔”と呼んで怖れていたそうですが、今では保護対象です。残念ながら、激減してしまったんですよ」
「そうなのね……」
 エイミーは碧い海を見つめながら相槌を打った。
 その時ふと、エミリオがすぐ近くにいることに気がついた。後ろから伸ばされた両腕が、自分を包みこむようにして、強化硝子の船縁ふなべりを掴んでいる。
(……腕のなかに、閉じこめられているみたい)
 そう意識した途端、全身の血が勢いよく駆け巡り始めた。
 鯨を見ているふりをしながら、エミリオのことを考えてしまう。肘までまくりあげたシャツの袖口から、以前よりたくましくなった腕が覗いていて、真珠色の肌を、つーっと指で撫でてみたい……なんて、全く頭がどうかしている。
 もうすぐ、彼は十六歳になる。
 今年に入ってから二度も義父の任務に同行し、数年前に冥災めいさいを起こした海上要塞、蒼の塔アズール・スパイアの視察任務に至っては単独で赴いている。
 仮想空間バベル・ヴェールで作戦会議に参加している様子を見たこともあるが、本当に大人のようだった。
 彼の成長を、誰よりも近くで見てきた。
 恋心を自覚してからというもの、平常心を保つことが難しくなっている。
(なんでこんなにいい匂いがするの? 私ったら、意識し過ぎなのよ……でも止められない……)
 去年のエミリオの誕生日に、頬にキスをした。あの時、エミリオの好感度はついに80%を越えた。
 きっと、もう家族の愛情だけではない。
 最近では、エイミーを呼ぶ声に甘さが含まれるようになり、微笑の奥には熱が潜むようになった。
 そしてエイミーもまた、彼を義兄としてではなく、一人の男性として想わずにいられなくなった。
 名前を呼ばれるだけで胸の奥が甘く疼く。微笑の裏に潜む熱を感じるたび、理性が崩れそうになる。
 ──もしかしたら、両想いかもしれない。
 なんて、最初は夢のように舞いあがった。
 ……けれど、前世の笑美が経験した、苦すぎる失恋が脳裏を掠めると、浮かれた気持ちは元気をなくした。
 たとえ想いが通じたとしても、その幸せが永遠に続く保証はない。
 現実的に考えれば、いつか、この恋も終わる……
 エイミーはまだ十四歳で、公爵家に庇護される身だ。
 彼の気持ちが冷めてしまった時、元の関係には戻れない。同じ屋根のしたで暮らせなくなる。エイミーのせいで、彼が再び公爵家を去るようなことだけは、絶対に避けなければならない。
 今度こそ、エイミーがでていく番だ。
 幸い、自立できるだけの資産はある。両親さえ説得できれば、いつでもひとり暮らしを始められる。
 その覚悟で、いっそこの想いを打ち明けてしまえたら──何度思ったか知れない。
 ──怖いのだ。
 いつか終わる恋よりも、このまま家族として、義妹として傍にいられる方が幸せなんじゃないかと思ってしまう。
 十四歳の少女らしく恋に夢中になるには、エイミーは早熟で、理性的すぎた。無邪気さや衝動に身を任せて、すべてを壊す勇気をもてなかった。
 理性的なのは、エミリオも同じだ。
 彼もこの恋の危うさを理解しているから、好感度があがっても、想いを言葉にしようとはしないのだ。
 エイミーは養子で、混血種アミーで、義妹だから──躊躇するのも無理はない。
 この恋は、前途多難だった。