奇跡のように美しい人

2章:謳歌 - 10 -

 年の暮れ。
 時計塔の六十二階。書斎で本を読みながら、レインジールは佳蓮の支度を待っていた。これから王宮の舞踏会に出掛けるのだ。

「お待たせ」

 軽やかな足取りで扉を開いた佳蓮に、眼を奪われた。
 かくも美しく神秘的な姿。だいだいの照明に照らされて、黒い頭髪は星のように煌めいている。あまりの美しさに、視線を逸らせなかった。

「衣装も髪も、よくお似合いです。今日は一段とお美しいですね」

「お褒めいただき、ありがとうございます」

 澄まし顔で応える佳蓮は、とびきりかわいらしかった。

「お手をどうぞ」

 手を差し伸べると、佳蓮は魅力的な笑みを浮かべた。手袋に包まれた手を、そっと重ねる。

「あれっ。レイン、背伸びたね。私ヒール履いているのに……」

「はい。ようやく佳蓮の背を越えました。もっと伸びますよ」

 気付いてもらえたことが嬉しくて笑顔でいうと、佳蓮の表情は沈んだ。

「ずるい、一人で大人になっちゃってさ。私は、ずっとこうなのに」

 佳蓮は堕天した時から、少しも変わらない。髪の長さも同じで、切っても元の長さに復元するのだ。
 以前はそうでもなかったが、最近は時を止めたまま、年を取らないことを佳蓮は恐れるようになった。
 不安定になる気配を感じて、思わず黒髪に触れた。佳蓮は、夜空のような瞳を瞬かせて微笑んだ。

「忘れないでね。背を抜いても、私の方が年上だってこと」

「知っています。聖杯を満たせば、佳蓮の止まった時も動き始めますよ」

「いつになるやら」

「この四年で大分満ちましたよ。あともう少しの辛抱です」

 胸に手をあてて、佳蓮は不安そうに頷いた。
 霊気を認識できない佳蓮は、聖杯の存在をよく理解していない。
 堕天した当初は空だった器に、今は聖なる光輝が半分ほど満ちている。堕天の苦しみを昇華し、物質エーテル界に馴染んできている証拠だ。

「……今日は、いくのをやめますか?」

 晴れない表情を窺いながら問いかけると、佳蓮はぱっと顔を上げた。

「平気。いこ」

 腕を引かれて、レインジールも考え直した。いけば、彼女の沈んだ気分も晴れるかもしれない。
 粉雪の舞う、ファジアル・リュ・シアン王宮。
 会場には、見目麗しい美男美女が揃っていたが、佳蓮の美しさは別格だった。
 世にも稀な女神を連れて歩くレインジールに、嫉妬と嘲笑の視線がそこら中から突き刺さった。
 分相応であることは理解している。誰もが振り返る絶世の美女が、今も変わらずにレインジールの傍にいるのは奇跡に等しい。確率論に当てはめれば、それこそ天文学的な数字を弾き出すだろう。
 佳蓮は気鬱を払うように、いつになく天真爛漫に振る舞っていた。しどけなく葡萄酒を傾ける姿に、男達は舐めるような視線を注いでいる。
 レインジールは、顔に笑みを貼り付けたまま、内心では腹を立てていた。今夜の佳蓮は無防備過ぎる。今すぐ塔に連れ戻してしまいたかった。

「はぁ、足が疲れた」

 息をつく様子を見て、レインジールはここぞとばかりに佳蓮の手を引いた。

「ちょっと!」

「頃合いです。もう帰りましょう」

 返事も待たずに、次の瞬間には時計塔に移動していた。
 佳蓮の手を引いたまま、彼女の私室に入る。長椅子に座るよう促すと、佳蓮は上目遣いにレインジールを睨んだ。

「もう、いきなりなんだから」

「……紅茶を煎れてきます」

 聞こえないふりをして部屋を出た。わざと準備に時間をかけて部屋に戻ると、佳蓮は長椅子で寝入っていた。
 起こさぬよう、そっと近付いて傍で跪く。
 うら若き絶世の美女の寝顔は、見ているだけでくらくらする。胸が甘く痺れて、レインジールは瞑目した。

「佳蓮……」

 名を呼んでも、眼を醒まさない。うっすら開いた唇に眼が留まる。強烈な誘惑に駆られたが、理性を総動員させて視線をそらし、額に口づけた。

「ん……」

 瞼が震えて、ゆっくりと持ち上がる。覗いた黒曜の瞳に、レインジールが映りこむ。

「……ここで寝ては、風邪をひきますよ」

「ん」

 小さく頷くと、佳蓮は眠そうに再び瞳を閉じた。人の気も知らないで、暖をとるようにレインジールの胸に頬を寄せる。
 最近は、こちらの想いにようやく気付いて、居心地悪そうにしている癖に、この絶世の美女の危機感の無さときたら……
 だが、今夜の奔放な振る舞いは、レインジールのせいでもある。並んだ背丈に時の流れを意識して、満たされない聖杯に不安が募ったのだろう。 
 享楽的で気まぐれな佳蓮は、儚い一面を併せ持っている。
 意識を遮断し、自分の世界に閉じ籠る姿を、これまでに幾度も見てきた。
 心を彷徨わせている間、姿形は、幻燈げんとうのように朧になり、レインジールをたまらなく不安にさせた。
 時々、思い出したように堕天の苦しみを語り、誰に対する謝罪なのか、ごめんなさい、と繰り返すのだ。

「……運びますよ?」

 言い訳のように口にしてから、力の抜けた体を横抱きに持ち上げた。なんて柔らかい肢体だろう。甘い匂いを、苦心して意識の外へ追いやらねばならなかった。
 ベッドに横たえてシーツをかける。後で召使を呼んで、着替えさせた方がいいだろう。そう思いつつ、なかなか傍を離れられない。

「佳蓮」

 呼んでも反応しない。女神は、深い眠りの中だ。

「聖杯は、まだ満たせないのですね……」

 左手の甲に刻まれた流星痕に眼を落とし、レインジールは呟いた。
 折りたたまれた片翼の流星痕は、少しずつ大きくなり、ついに双翼にまでなった。閉じた羽を広げて、羽ばたこうとしている。
 佳蓮は知らないが、流星痕の成長は客星かくせいの刻限に等しい。
 時が満ちるまでに聖杯を満たせなければ、聖杯契約者は……
 これまで、聖杯の行方を調べようと、幾度も星詠みを繰り返してきた。
 佳蓮の未来は朧で視え辛く、出会ってしばらくは霞んでいて何も視えなかった。十二歳になった頃、ようやく視えた未来は絶望的だった。

 恐らく、佳蓮は刻限までに聖杯を満たせない。

 叶うことなら永遠に傍に在りたいけれど、叶わないとしても、佳蓮が幸せでいてくれるのならいい。
 唯一無二の女神。愛おしい佳蓮、我が命。貴方の為なら、喜んでこの身を差し出そう――

「お休みなさい、佳蓮……いい夢を」

 黒髪を梳いて指に絡める。身体を倒して、秀でた額にそっと口づけた。